荒木伸吾さん。スーパー・パワフル・アニメーター。
『聖闘士星矢』で大変お世話になりました。
代表作は多過ぎて書ききれない!
新井浩一さん。スーパー・アニメーター。
東映時代の代表作は「CRYNGフリーマン」他。
父方のいとこ。
当時、ぎゃろっぷで撮影をやっていた。
数年前にディズニージャパンに移ったって話を聞きました。
Pは3つ(笑)。西荻窪にある制作会社。
『ジョジョの奇妙な冒険』『BASTARD!!』でお世話になりました。
梅澤淳稔さん。演出家。
劇場「北斗の拳」をきっかけにおつきあいが続く。
オズ。
私が東映にいたころは「西友OZ 大泉店」と言った。「おおいずみ」の語感からとった愛称だったようだが、何となく釈然としなかったりする。しませんかf(^_^;
後に「西武OZ」となり、現在は「LIVIN OZ」になっている。
食事や買い物はもちろんだけど、仕事に飽きると用もないのによく行っていた。通称「OZぶら」。今でもそんなこと言ってるやついるのかなぁ( ´_ゝ`)
天才。
栗尾昌宏。アニメーター。
『ジョジョ』#5(ファーストシーズン)の作監をやったり、『GUN SUMITH CATS』(OVA)の作監やったり、マッドやらI.G.やらジブリやらのキッツイ仕事もこなしてしまう隠れた実力派。
ラーメンの事はこの人に聞きましょう。
作画打ち合わせの事。
アニメーターの仕事はここから始まる。
須田正巳さん。
神である。
その質、量、ともに他を圧倒するスーパー・アニメーター。この人がいなかったら、アニメーターの私という存在は考えられない。
尊敬、などという言葉では生温い。
私にとって全ての始まりであり、届かぬ最大の目標である。
(有)DANGAN PICTHRES。
西東京市にある制作会社。1996年あたりから出入りしている。
1999年頃から机を置かせてもらって、『ジョジョ』終了後、2002年からは常駐。
浜洲英喜さん。スーパー・アニメーター。
東映での代表作は「のぼると山猫」「ヴァンパイヤー戦争(ウォーズ)」
それ以降は「PERFECT BLUE」なんかがあったりするが、そんなもんじゃ語り尽くせないスゲェお人。
みんな、尊敬しろよ!
高校3年の時の美術部部長。
とは言っても私は美術部員として活動していた訳ではなく、「籍を置いてくれるだけでいいよ」って平林君に言われて、言葉通り籍だけ置いて何にもしなかったような気がする。ひどいな…
真面目で熱いヤツだったんだよなー、平林君。悪い事しちゃったかな…?
この場合、靴下の事を指す。
泊まりが続くと家に帰れないので着替えも出来ない。すると2〜3日後から脱いだ靴下がのりで固めたように足の形で固まるようになってゆく。
そーなるころにはもちろん、異臭も発生してくる。机に向かって仕事をしているときに下から自分の足の臭いが昇って来るのが気になるようになったら、そりゃあもう、末期的だ。
一刻も早く帰宅する事をお勧めする。周りに迷惑だからね(^-^)b
高校3年の夏(だったと思う)、漫画家を断念した私はアニメーターになろうと決意。微かなつてを頼って(田舎にいるとすぐにつてがどーとか考えがちです。しょーがないですネ)いとこのやっちゃんにTEL。しかし「アニメーターなんて好き好んでやるもんじゃない」と言われ、しょーがないからとにかく専門学校に行こうと思った。東京デザイナー学院(進路指導室にあったアニメの専門学校の資料はこれだけだった)に行っちゃうんだ、って決めてたりした。
そんな時、美術部の部長だった平林君が「うちの兄貴、アニメの仕事やってるんだけど話、してみる?」なんて言ってきたりするもんだから「ええ!そりゃあもう!!」ってなもんですよ!
ところでどーしても思い出せないんだけど、平林君はどこで私がアニメをやろうって聞いたのだろう?
私の記憶では彼のほうから「アニメーターになるんだって?」って話しかけてきたような気がするんだけど…謎です。閑話休題。
で、平林君のお兄さん曰く、「早く現場に出た方がいい」「専門学校行っても時間の無駄」とゆーことで、オニオンを紹介してもらえることになったのでした。
でも、平林君のお兄さんの言ったことはホントだった。私はあそこで就職できて本当に良かったと思っているよ。
1998年と2000年の夏、アメリカで行われたアニメエキスポとゆーコンベンションに招待された。
この時、何十枚かサインをしたり色紙を描いたりしたのだが、うちの奥さんの提案で筆ペンと印(平たく言うとハンコ。私の父が趣味でやっていた篆刻で私の名前を彫ってくれたもの)を持っていった。色紙のサインの横にその印を押したのだが、そんななんちゃって和風テイストの受けは上々だったように思えた。
この頃から好んで筆ペンを使うようになる。
私が最初に所属していた会社。東映の仕事を中心にまわしていた。吉祥寺に3〜5つスタジオがあった。もともとは仕上げの会社。
高校の美術部の平林君のお兄さんが(東映で演出の仕事をしていたらしい)専門学校に行こうとしていた私を紹介してくれた。
約7年在籍。後半は東映に出向する期間が多くなり、たまに顔を出すぐらいだった。
馬越とか香川とか玉川なんてゆ−立派な人を輩出している。
今は、もう、ない。