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【ワン・ルーム・アンド・トゥ・ウィミン】
-Written by MIYA-
○月▽日 快晴
きこきこきこきこ…。
ペダルをこぐ。
街路樹を抜けていくゆったりとした風が、ちょっぴり火照った頬に当たって気持ちいい。
きこきこきこきこ…。
自転車は好き。
何より自分のペースで走れるのがいいし、こうして季節ごとの空気の匂いを感じることができるから。
風は、まだ冷たい。
それでも、マフラーをきっちりまいて出かけると、こうして買い物から帰るころには暑く感じるくらい。
春が近いんだなぁ。
そんなささいなことに、小さな嬉しさを感じてしまう。
眼鏡越しに見上げると、晩冬の空は抜けるようで、薄い雲がたなびくように続いている。
ちりん、ちりん。
指先でベルを鳴らすと、歩道の真ん中で寝そべっていた三毛猫が、ふてぶてしく大あくびをしてから、のそのそと目の前を横切っていく。。
買い物帰りに、いつも見かける猫だ。
のら猫なのかしら?
そう思って、このあいだ出来心で魚肉ソーセージを差し出してみたら、すました顔をして、ぷいと顔をそむけてくれた。 愛想のない猫。ちょっと可愛くない。
…でも、少しわたしに似ているかも。
きこきこきこきこ…。
自転車は好き。
でも、実のところ、つい数ヶ月前まで、わたしは自転車に乗れなかった。
今まで乗ったことがなかったのだ。
きっかけは、近所のスーパーが閉店してしまったこと。
中心街まで足を伸ばすには、少し距離がある。
ただ歩いていくくらい、なんとことはないんだけど、両手に買い物袋を提げてとなると話は別。
大学の帰り、大きなビニール袋と一緒に、バスに乗ることになった。
わたしの保護者は、こういうことに凄く目聡い。
二日後には、薄緑色のお買い物自転車を前に、にこにこ笑っている彼女がいた。
「どお、これ」
聞けば、引き取り手のない放置自転車を譲り受けて、自転車屋さんで直してもらったんだという。
わたしが、あきれながら乗ったことがないと告げると、彼女は目を輝かせて言った。
「特訓ね!」
…それから数日間の川原での出来事は、あんまり思い出したくない。
後ろを支えてくれるはずの彼女が、面白がって押しまくるものだから、わたしは何回、悲鳴を上げたかわからない。
「スピードにのった方が、転ばないのよ」
それはわかるけど、どう考えても、面白がっていたとしか思えない。
おかげで、上達は早かった。
ううん、むしろ補助が恐くて、必死に上達したと言った方がいいかも。
今も昔も、彼女のパワフルさにはかなわない。
きこきこきこきこ…。
昔は、毎日なにかが足りない気がしていた。
でも、今はそんなことはない。
ふと、花の香りがした。
何の花かはわからなかったけど、冬の間にはなかった、やわらかい匂い。
ああ、それにしても、きょうはなんていいお天気。
わたしは知らず、笑顔を浮かべていた。
*
「ただいまぁ」
「! あん、おかえり真弥子ちゃん!」
玄関のドアを開けると、こたつに突っ伏していたまりなさんが、勢い良く顔を上げた。
普段のキリッとした姿からは想像できない、どてら姿の彼女に、わたしは思わずぷっと吹き出してしまった。
「あ、なに。なに笑ってるの」
「んーん、なんでもない」
わたしは笑いをかみ殺しながら、お買い物のビニール袋を持って部屋に上がった。
「ふーんだ」
「…まりなさん、怒ったの?」
「怒ってないわ」
「うそ。顔がこわいもの」
「ガーン!」
「ど、どうしたの」
「…どうせ、私の顔はこわいですよ、だ。 そりゃね、こんな商売やってれば、キツイ顔にもなるわよ。タチの悪いオッサンとか、冷酷な年増女とかを毎日相手にしてるんですもの。ぶつぶつ…」
「そ、そんなことないわ。今のは冗談…」
「ぶつぶつ…」
「ああん、なにイジけてるのよ、まりなさんてば」
「…だって、せっかくのお休みなのに、真弥子ちゃんが私を置いて、1人でお買い物に行っちゃうんだもの」
「仕方ないじゃない。まりなさん、風邪引いてるんだから…」
「もう平気よ。熱なんてないわ」
「だぁめ。油断が一番いけないんです」
「……む〜」
わたしは、ため息をついた。
どうやらまりなさんは、拗ねてふて寝していたらしい。
そりゃ、声をかけずに出たのは悪かったと思うけど。
でも、まりなさんよく寝てたし…。
最近、まりなさんはよく拗ねる。
先日、うちに来た親友であるところの女性に、
「拗ねるな、いい歳して」
と言われてから、余計に意固地になっているみたい。
もう…まりなさんったら、子供みたい。
だけど最近、難しいお仕事をいくつも抱えていたみたいだから、それが原因なんだと思う。
正直に言って、甘えられるのは嬉しい。
わたしがまりなさんの役に立てるって、こんなことくらいしかないもの。
とりあえず、こたつで丸くなって愚痴を言っている女性を何とかしなければ。
「ね、まりなさん。お腹空いてない?」
「……すいてる」
人間、お腹が空くと機嫌も悪くなるものだ。
「じゃあ、急いでごはん作るね」
「…だめ。待てない」
「すぐできるわ」
「お腹と背中がくっついちゃいそう」
「………」
まりなさんは、物欲しそうな顔で、わたしを見上げる。
う……。
「買ってきたおせんべ、食べる?」
まりなさんは無言で、わたしの顔と手にした買い物袋とを見比べる。
そして、ぱかっと大きく口を開けた。
「食べさせて」
「は?」
「あーん」
「もう……」
わたしは仕方なく、おせんべいの袋をひとつ破くと、中身をまりなさんの口にくわえさせた。
「はい」
「♪」
ようやく機嫌を直したように、まりなさんはパリパリといい音を立てて、おせんべいをかじった。
「…へんなの」
「?なにが」
「だって、突然こたつを入れよう、なんて言うんだもの」
「オゥ、イッツ・ジャパニーズ・ユニークカルチャー!」
怪しげな外国人みたいな口調で、まりなさんは言う。
「なによ、それは…」
わたしは苦笑しながら、買い物袋を持ってキッチンに向かった。
ほんとは、こたつなんて入ったことがないから、嬉しかった。
フローリングは床暖房が効くから、冬場でも暖かいんだけど、初めて脚を入れたときには、ちょっと感動しちゃった。
だって、あんなに暖かいんだもの。
買ってきたものを冷蔵庫に入れて、キッチンに立つ。
「さて、やりますか」
リボンをきゅっと締め直す。
リボンは、わたしの数少ないトレードマークの1つ。
子供っぽいかな、と思わないでもないけど、まりなさんは好きって言ってくれる。
最近お気に入りのピンクのエプロンを着けたら、戦闘準備は万端だ。
行きがけにスイッチを入れたコンポから、ゆったりとしたメロディが流れ出す。
あなたの こころに 風があるなら
そして それが 春の風なら…
「フフフン、フフフンフン…」
わたしは鼻歌を歌いながら、ねぎを刻み始めた。
「あら…この曲」
「まりなさん、知ってるの?」
「ええ、昔聞いたことがあるわ。 へえ…真弥子ちゃん、こんなの聞くんだ」
「うん。最近の流行歌とか、あんまり聞かないんだけど。 ね、こういうの『懐メロ』っていうんでしょ?」
「そうね」
どてらにこたつ、そしてフォークソング。
合っているようで、どこかミスマッチなその光景を一度振り返ってから、わたしは欠食児童のために一刻も早くごはんを作るため、食材と格闘しはじめた。
*
暮れゆく薄暮の空に、蒼い色が滲む。
「いっけない。お洗濯ものが冷たくなっちゃった…」
久しぶりのいいお天気に、外に出していたのをすっかり忘れていた。
あわててベランダに出たわたしは、お布団を触ってため息をついた。
吐く息が白い。
日が暮れると、まだまだ寒い。
ふと、空を見上げると、微かに星の瞬きはじめた薄墨のキャンバスに蒼が滲んでいた。
深い…深い蒼。
海の色にも似た、深い…。
吸い込まれそうなその色に、わたしはぼんやりとしていた。
水の音が聞こえる…。
砂の音が聞こえる…。
なぜだろう。
なぜだろう、こんなに空が高く感じられるのは。
こんなに、胸が熱くなるのは…。
カラカラカラ…。
室内に続くガラスのドアが開く音に、わたしは振り返った。
どてら姿のまりなさんが、静かに佇んでいた。
「ごめんなさい…なにも、なにも悲しくないのに。悲しくなんて、ないのに…」
わたしの声は、かすれていた。
鼻の奥がツンとして、頬を流れるものを感じる。
いつまでたっても戻ってこない私が、ベランダで立ちすくんでいるのを、きっと変に思ったに違いない。
だけど、まりなさんは何も言わなかった。
ただ、黙ってスリッパをひっかけると、わたしの許へと歩み寄って、額にかかった髪を撫で付けてくれた。
わたしは、まりなさんの顔を見上げた。
堪えなくていいんだ。
まりなさんの目がそう言っていた。
強くて…優しい光。
初めて会ったときから、変わらない瞳の色。
わたしは彼女の胸に飛び込んで、あふれ出る衝動に身を任せた。
幾度も幾度もこぼれ落ちる涙の中に、寂しさも不安も、みんな溶けていくのを感じていた。
・
・
・
「背、また伸びたね」
「………」
優しく、わたしの髪を撫でながら、まりなさんは言った。
わたしは、まだ少しすすり上げながら、顔を上げた。
まりなさんは、優しく微笑んでいた。
「それに、綺麗になったわ。とっても」
「……ほんと?」
今度はにっこりと笑うと、まりなさんはぎゅっとわたしの体を抱き締めた。
「世界中の人に自慢したい気分よ。 私の真弥子ちゃんは、こんなに素敵なんだって」
まりなさんの豊かな胸に押しつけられて、ちょっぴり苦しかったけれど、わたしは小さく微笑んだ。
「もう……いつから、まりなさんのものになったのよ」
「てへへ…」
いつか見た表情で、まりなさんは笑った。
「だけどね。
もう、ずっと前。
最初に会ったときから、私の心も身体も、真弥子ちゃんのモノなのよ?」
「もう……」
わたしは、わずかに頬を赤らめて、まりなさんの胸に再び顔をうずめた。
不思議な気分だった。
いい匂いがした。
あったかかった。
「まりなさん…」
「?」
「……ありがとう」
「フフ…」
ここが、わたしの居場所。
これが、わたしの日常。
かけがえのない…。
だって いつもあなたは 笑っているだけ
そして わたしを 抱き締めるだけ…
(C)「あなたの心に」中山千夏/ビクターレコード/1969年
【ワン・ルーム・アンド・トゥ・ウィミン おわり】