【バッド・ケース(気の進まない事件)】

2.ザ・ミッシング・ペーパーズ(紛失物)

-Written by MIYA-


 

 

法条まりなの勤務地は、永田町と隣接する港区赤坂の外れにある。

 

新宿通りをJR四ッ谷駅前の交差点で右に折れると、東宮御所を擁する外苑が正面に広がる。

そのまま三叉路を左に入り、皇居がかつて「江戸城」と呼ばれていた時代の外堀、紀尾井坂に沿って残る弁慶堀を左手に見る、外堀通りが続く。

この外堀通りを挟んだ東側が東京都千代田区。

首相官邸に国会議事堂、六本木通りを隔てて財務省、外務省、さらには国土交通省や警視庁などが立ち並ぶ、日本政界の中心地である。

そして、外堀通りを挟んだ西側、民放局と赤坂ツインタワーを結ぶ直線のちょうど中間点の辺りに、まりなが現在通うオフィスビルがあった。

 

ビルから歩いて5分のところにあるパーキングに、愛車のメルセデス・ベンツSLK320を停めて、まりなは、車風にかき乱された長い髪を後ろに払った。

SLKは、メルセデスのコンパクト・2シータースポーツカーである。

街を走っているSLKの90%以上はシルバーだが、まりなの個人的趣味で、車体色にはマグマレッドが選択されている。

 

ハンドバッグ1つ持たない身軽さで車を降りたまりなは、サングラスを額に上げて、梅雨の晴れ間の空を仰ぎ見た。

 

「あーあ…いいお天気ね。 今日はせっかく、真弥子ちゃんと二人っきりでイチャイチャできると思ったのに。ンもう、本部長ったら」

 

歩き出しかけたまりなは、「いけない、いけない」と身を乗り出して、右助手席から小さな紙の手提げ袋を取り上げた。

リモートコントロール・セントラルロックによって、今度こそ歩き出したまりなの背後でオートロックの音がする。

 

「くだらない用事だったりしたら、許さないわ」

 

 

 

 

まりなが足を止めたのは、「赤坂第13ビル」という、個性のまるで感じられない名前を与えられた4階建ての建物の前だ。

ガラスドア横の案内板には、1階と2階が、それぞれ別の会社の倉庫になっており、3階から4階部分は、(財団法人)あさがお財団の所属となっている。

 

「いつ見ても、気の抜ける名前だわ…」

 

ビル横に生い茂る植え込みに目をやりながら、まりなはポリポリと頭をかいた。

(財)あさがお財団は、れっきとした内閣府の所管公益法人であり、古今の生活文化を学際的に研究することにより、国民生活の向上と発展に寄与することを目的とする。

 

「嘘臭いのよねぇ…」

 

「古今の生活文化を研究する」ことが、どう「国民生活の向上と発展」に繋がるのか。

また、なぜそのような機関が民間ではなく、公益法人として認可されねばならないのか。

その辺りのことを突き詰めれば疑問は尽きず、大小の批判を免れないないところであろうが、まず、このような団体が存在すること自体、認知している国民は多くあるまい。

また、類似の名称とお題目だけで成立しているような公益法人は、内閣府所管に留まらず、警察庁、防衛庁、金融庁、文部科学省…それこそ無数に存在するのである。

 

「ま、これがお国柄ってやつかしら」

 

まりなは自虐趣味とは無縁の人であるから、納得がいかないからといって、いたずらに自分の職場を誹謗し、同時に自らのアイデンティティをも貶めるような真似はしない。

確かに、役人の天下り先以外の存在意義を持たないようなものも多いが、あさがお財団は、それとはまた別の顔を持つ。

 

内外ニュースの速報を担う共同通信社や、日本放送協会(NHK)が内閣情報調査室の外郭団体、情報提供団体であることは、一般にはあまり知られていない。あさがお財団もまた、それに連なる同様の外部組織のひとつである。

内調職員そのものは、内調プロパー、または警察庁からの出向者が、総理府ビルの6階にオフィスを構えている。

しかし、コンピュータや情報調査は、外郭団体に委託されているケースも少なくない。

むろん、その中には、捜査官が出向という形で勤務している場合も多く、給与体系が異なるだけで、かなりあいまいな形態がとられている。

それは、諜報機関という組織の性格上、やむをえないことでもある。

 

そんなわけで、まりなの肩書きは、「内閣官房付」という、非常にあいまい、かつ柔軟な配置が可能なものとなっている。

階級は「1級捜査官」と、一般的にはあって無きがごとしのものだが、警察組織の介入があった際に、警視待遇が保証されるのは、以前と変わりない。

 

「いずれにせよ、公務員は自らの職責をもって、その存在意義を知らしめるべきということよね」

 

誰に言うでもなく、呟きを残して、まりなは、ようやく見慣れてきた入り口をくぐった。

警備員にあいさつをして、2階の倉庫の関係者らしい作業服とすれ違いに階段を上がる。

3階の廊下は、掃除が行き届いて、清潔感が漂っていた。

ただし、置かれている物が少ないので、同時に寂寥感も漂うのは如何ともしがたいところである。

 

「ハロー。来たわよ本部長。 休日に、呼び出されて、わざわざ……あら?」

 

文節をいちいち区切って、恨みがましい口調で甲野のオフィスに入ったまりなは、見慣れたデスクの向こうに、部屋の主がいないことに気付いた。

 

「なによ、人を呼びだしておいて、本人がいないっていうのはどういうことなの」

 

腰に両手を当てて、肩を怒らしたまりなは、拗ねたような顔で室内を見渡した。

静かな空調の音のみが響く室内には、つい今しがたまで人のいた形跡がある。

部屋の隅に置かれているコーヒーメーカーの横には、まだ湯気を上げるコーヒーが残っている。

 

「ふう。それにしても、ずいぶん不用心じゃない」 

 

官民問わず、セキュリティの強化が叫ばれる昨今、各部屋の入り口には、カードスリット式のドアロックが付いている。

まりなが入ってきた時には、ドアロックは掛かっていなかった。

 

「まったく、あのヒゲおやぢ、どこほっつき歩いてるのかしら」

 

言いつつ、まりなはデスクの前まで歩いていった。

 

「相変わらず、本部長のデスクは整頓が行き届いているわ」

 

がさごそがさ…。

 

「ふぅ。これでよし、と。私って、こぎれいでエントロピーの小さな机を見ると、無性に腹が立つのよね」

 

机の上のエントロピーを存分に増大させてから、まりなは満足そうに頷いた。

 

「この椅子も、結構、上等なものを使っているわ…」

 

………。

………。

 

「…そうね、ちょっとだけ。前から気になっていたのよね、この椅子の座り心地」

 

ばふっ…。

 

「悪くないじゃない。ヒゲの中年には、もったいないくらいね。

 ふぅ…一面を占有した窓からは、ポカポカした日射しが差し込んでくる。

 ここのところ、雨ばっかりだったから、気持ちがいいわ。

 ダメ、こうしていると、なんだか眠くなっちゃう…」

 

その時、外の廊下をこちらにやってくる足音が聞こえた。

入り口のドアは閉まっている。一般人なら聞き分けることは困難だが、まりなの聴覚はそれを捉えた。

背もたれに預けていた上体を起こし、体勢を低くする。

 

ガチャッ。

 

「動くな!」

「おわあ!」

 

ドアを開けて入ってきたのは、やせた体に小じゃれたベストにネクタイ姿の、口ひげを生やした中年男性―――甲野だった。

まりなの上司である。

ピストルの形にした指を入り口に向けていたまりなは、腕を下ろした。

 

「…なんだ、本部長じゃない」

「なんだ、じゃないよキミ。刑務所を脱獄してきた極悪犯人かと思ったよ」

「ちょっとぉ、どういう意味?……そうじゃなくて、『思ったよ』じゃないでしょ、本部長。本当にそうだったらどうするつもり。カギもかけずに、不用心じゃない」

「おや、そうだったかな。近ごろ、物忘れがひどくてさ」

「…大丈夫かしら、このオッサン」

「なにか言ったかね?」

「いーえっ」

 

甲野は、小さく肩を竦めると、意外に軽快な足取りでデスクまでやってきた。

なんとなく女性的な仕草で、腰に両手をやる。

 

「ところで、どうして僕の椅子に座ってるのかね」

「あらやだ、私ったら。オホホ…」

「ま、そのくらいならいいけどさ……知っているかもしれんが、僕の部屋は、僕がいないときは常にモニターされる。そしてその情報は、上層部へそのまま流される。気を付けてね」

「そうだったわ。…知らずにひとりエッチなんかしちゃったら、大変なことになっちゃう」

「…しないでね、頼むから」

「でも、このビルのほかの部屋もそうなってるわけ?」

「いや。僕の部屋は特別なんだ。一応、ね」

「じゃあ、ほかの部屋でなら…」

「ぜひの2乗でやめてくれたまえ」

 

ため息をつく甲野と場所を替わって、まりなはいつもの定位置、デスク前に立った。

甲野は、デスクの上の惨状を見て、一瞬、情けない顔になったが、無言で片づけを始める。

いつものことなので、もはや文句を言う気もないらしい。

 

「結構、早かったね」

「あのね、本部長。人を呼びつけておいて、その言い草はないんじゃない?」

「いやいや、悪いね」

「大体ね、呼び出しかけたご本人サマが、部屋にいないってのはどういうこと」

「それはまあ、ほら。…いわゆる、ヤボ用ってやつさ」

「ヤボ用ってなによ」

「お手洗いよ、お手洗い。…ハッキリ言わせないでくれる?女性なら、セクハラものだよ」

「それくらい、我慢してなさいよ」

「無茶言わないでよ。生理現象には逆らえないでしょ」

「じゃ、ここですればいいじゃない」

「あのね…。まりな君、ずいぶん、ご機嫌ななめじゃない?」

「あたり前よ。こっちは休日に呼び出されたんですからね。今日は、真弥子ちゃんと二人っきりの日曜日になるはずだったに…」

「ゴクッ。そ、それはもしや、秘密の花園というやつかね?」

「スケベ中年!」

「オ、オッホン!」

「そんなわけないでしょ。 今日は一緒にお料理する予定だったのよ。お揃いのエプロンつけて、一緒にキッチンに立つ…」

「なんだか、目が遠いんだが…」

「あぁ、真弥子ちゃんと一緒のお休み…」

「まりな君さぁ。プライベートにくちばし挟むつもりはないけども」

「わかってるわ。仕事を優先させろっていうんでしょ。だから、こうしてわざわざ来たんじゃない。休日出勤手当くらい、もらいたいわ」

「まあ、それは経理の方と応相談ってことで」

「んもぅ…」

 

渋面を浮かべる年来の部下を見やって、甲野は微笑を浮かべた。

ふと、まりなが後ろ手に持っているものに目を止める。

 

「…おや、その紙袋は何だね」 

「ウフフーン。いいでしょう、真弥子ちゃんのお手製よ。お昼ご飯にって、おにぎり」

「うむ、差し入れか。そいつはありがたい」

「あげないわよ。見せびらかすために、持ってきたんだもの」

「…あー、コホン。まりな君、オフィス内でむやみに飲食するのは、感心せんな」

「…なによ、このオッサン」

「きみが意地悪するからでしょ」

「もう、そろそろ本題に入りましょう」

「うむ」

 

甲野は、少し表情を改めて、机の上で手を組み替えた。

 

「実は、昨日までに提出してもらった書類なんだけど…」

「何か不備でも見つかったの?」

「いや、そういうわけじゃないんだが」

「当然でしょ。何度もチェックしたもの。おかげで、この1週間はロクに家にも帰れなかった」

「ご苦労さん」

「ここ1カ月の、私の苦労の結実よ、あれは」

「デスクワークの苦手なまりな君が、よく頑張ったものねえ」

「苦手っていうわけじゃないけど…1カ所にじっとしているって、性に合わないの」

「うーむ…わかる気もするが」

「…で」

「で?」

「だから、私は何のために呼び出されたのか、聞いているの」

「うん、まあ、大したことじゃないんだけど」

「大したことじゃないぃ〜? ちょっと!大したことでもないのに、休日に呼び出されたの、私はっ」

 

むぎゅぃっ。

 

「あ、あたたっ、ちょっと、ヒゲを引っ張らないでくれたまえ。語弊があったのは認めるからさ」

「ちゃんと説明してちょうだいっ」

「イテテ…。 ん〜…それがさ。予算面の数字が、ね」

「問題があるっていうの?…だって、あれでいいって、本部長が言ったんじゃない。

 大体ね、省庁のテロ対策原案なんてことを言い出したら、あの金額だって全然、足りてないくらいよ」

 

(財)あさがお財団は、2月ほど前、国際・国内を問わず、各省庁の対テロ整備を目的に、主として実態調査、整備計画立案、はては予算獲得を主眼に設立された。

無論、一般にはそのようなことは知らされておらず、表向きには、日本の生活文化を研究するというお題目が掲げられている。

国家公安委員会から、警察庁の警備・公安に下ろされるはずだった計画だが、どういうルートを辿ったものか、甲野にお鉢が回ってきた。

一説によると、閣僚内でも、総理としばしば対立する大派閥出身の国家公安委員長を牽制する目的で、官房長官をはじめとする官邸サイドが取り引きしたとの噂もある。

かくして、例によって甲野の強い推薦の元、法条まりな1級捜査官をはじめとするプロジェクトチームが組まれるに至ったというわけである。

まりなが1カ月間、調査及び資料との格闘の末、第一次中間報告をまとめたのが、昨日のことだった。

 

「そう迫らないでよ。僕はいいと思ったから、受け取ったんじゃない。 話が来たのは、理事長からでね」

「理事長……一(にのまえ)さんが?」

「そう。まあ、金額が金額だからね。一応、ここの代表として、口頭でキミの説明が聞きたいと、こういうわけ。 納得した?」

「…それだったら、別に日曜日に呼び出さなくったって」

 

まりなは、唇を尖らせた。

 

「いや、それがさ。新崎君が来ていることもあってね、ちょうどいいんじゃないかって」

「…へえ、内務監査部長さんが、ね。 日曜日だっていうのに、また随分と仕事熱心ですこと」

「トゲのある言い方だねぇ」

「あらそう?」

「頼むから、本人の前で言わないでね」

「ははあ……読めたわ」

「(ギクッ)」

「ちょっかい出してきたのは、新崎さんね」

「はて、なんのことかな」

「おかしいと思ったのよ。あの一さんが、そんなつまらないイチャモン付けるはずがないもの」

「イチャモンって、あのね…」

「どうせ、『きみのところの法条君は、いろいろと問題があるようだね。何事にも大ざっぱというのは、頂けないな』とかなんとか、あの嫌味ったらしい口調で言ってきたのね」 

「当たってるだけに、言い返せないんだよね…」

「本部長!」

「はいっ」

「上司だったら、部下をかばうのが本当でしょう。しかも、こんなに可愛らしい部下が、あらぬ言いがかりをつけられてるのよ?」

「………(可愛らしかったら、どんなにいいか)」

「なによ、その目は」

「いやいや、別に…オホンッ」

「フン…」

 

甲野は一つ、大きく咳払いをして、誤魔化した。

 

「まあ、新崎君の言い分はともかく、内務監査が進捗状況を聞いてくるのは、正当な権限だからね。今回の計画では、我々の方にも報告義務というものがある」

「………」

「な、なにかね、その目は」

「そうね。で、このオフィスに出張所を構えて、本部長の愛人が居座っているってわけね」

「ちょ、ちょっとちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ。監査官の派遣は、国家公安委員会からの指示書に明記されているんだよ」

「で、お気に入りであるところの香川さんが、本部長のお相手のために、常時待機している、と」

「そ、そんなわけないじゃない。僕には、人事に手を加える権限なんてないんだからさあ…」

「みなさーん!このエロオヤジはね、人事部が決めたのをいいことに、監査部の香川さんとオフィスでいちゃいちゃと…」

「どわあっ、まままま、まりな君!」

 

ドアを開けて、大声を出し始めたまりなを、甲野はあわてて押しとどめる。

 

「か、かんべんしてちょうだいよ…」

「フン…。あの女のせいで、この1カ月、どれだけ精神的苦痛を被ったことか」

「…それは、向こうも同じなんじゃないかね」

「ジロッ」

「…トホホ」

 

ものすごい目つきで睨まれ、稀代のダンディ中年は、涙を流しつつ肩を落とした。

 

「まあ、ともかくさ。新崎君が、キミをお呼びなのよ」

「ほら、認めたわね」

「…むろん、理事長も同席する。上の分室でお待ちだ」

「理事長室じゃなくて、あの女の巣窟でね。 これは、いよいよもって、作為的なものを感じるわ」

 

赤坂第13ビルは、4階建ての上から2フロアを借り切っており、3階が甲野の部屋をはじめとするプロジェクトチームのオフィス、4階が内務監査部の分室、そして資料室などが置かれている。理事長室も4階にあった。

 

「だから、そんなんじゃないって。…ともかく、これが仕事だ。キミに選択の余地はない」

「わかっているわ。ちゃっちゃと済ませて、早く帰りたいものね」

「うむ。よろしく頼むよ」

 

ため息混じりにではあったが、まりなは新崎に会うため、甲野の部屋を出た。

このビルの階段とエレベーターホールは、甲野の部屋のほぼ正面にある。

これは、防災面で言えば妥当なのだろうが、テロを想定した場合、脆弱と言わざるを得ない。

この部屋割りを考えた上層部に対しての皮肉をたっぷりと込めて、まりなは第一次中間報告に、このビル自体の欠点を挙げている。

テロ対策だの防諜だのと言い立てる割には、上層部にはあまりにも危機感が足りないと、まりなは分析している。

テロ対策の本部でテロが起きたりしたら、目も当てられない。

 

「別に、今に始まったことじゃないけど…」

 

階段を上りながら、まりなは呟いた。

ちなみに、現在、エレベーターは故障中で使用できなくなっている。

 

「故障中でなくたって、エレベーターなんか使わないわよ。私はまだ若いんですから…キャッ」

 

ドシッ。

 

「あっ、ごめんなさい。ちょっと、よそ見をしていたもので」

「…いえ。 あら、あなたは…」

 

階段の上がり口で、まりなにぶつかってきたのは、長身痩躯の男だった。

薄いブルーのワイシャツにネクタイ姿で、ぱっと見にはサラリーマンにしか見えない。

ただ、その目は、日本人にしては随分と切れ長だ。

 

「すみマせん、本当に。おけがはありませんか?」

「ええ、別に大して強くぶつかったわけではないから。ねえ、あなた…」

「良かった。本当にすみマせんでした」

「あっ、ちょっと…」

 

男は、足早に階段を下りていった。

 

「行っちゃった…。なにを慌ててたのかしら。

 彼、うちの部署の人よね。確か、二週間ほど前に紹介された覚えがあるわ。

 名前は…確か、張さんだったかしら」

 

首を傾げつつ、4階に上がったまりなは、廊下を進んだ。

資料室があるせいか、3階よりも廊下は雑然としている。

人員も、急ごしらえの当初は少なく、最近になってようやく、事務職の増員が認められ、それなりの陣容が整いつつある。

しかし、休日の閑散とする廊下で、まりながすれ違ったのは、一人だけだった。

 

「おっと…」

「あら。…犬飼さん、でしたね。こんにちは」

「ああ、ええと…確か、北条さんでしたかな」

「いえ、法条です。…小説でなけりゃ、分かりませんけど」

「は?…意味がよく分かりませんが」

 

いくつも書類の入ったダンボール箱を抱えているのは、頭髪にだいぶ白いものの混じった初老の人物で、小ざっぱりとしたスーツ姿が、いかにも事務方という印象の男だ。

 

「日曜日なのに、ご出勤ですか?」

「ええ。荷物がまだだいぶ残っているのでね。休みのうちに運び入れてしまおうと思って」

「確か先日、着任されたばかりでしたね。あの時は、体が塞がっていまして、失礼しました」

「いや、お忙しいのは分かっておりますからな。気にする必要はありません」

 

ソツのない人ね、とまりなは思った。

場慣れしているというか、この場所に来てまだ日は浅いはずなのに、馴染んでいる感じだ。

経歴は良く知らないが、もしかすると、かなりのやり手なのかもしれない。

ただ、政界の人間独特の雰囲気を持っており、鼻につくというほどではないが、現場の人間であるまりなとしては、積極的に近づきたいとは思わない。

 

「重そうですね。お手伝いしましょうか」

「いや、結構。いくらなんでも、女性に重い物を運ばせるわけにはいきませんから」

 

フェミニストでもなさそうだが、そのくらいの気遣いはあるようだ。

まりなは少し、表情を柔らかくした。

 

パタッ…。

 

「あら、落ちましたわよ、犬飼さん」

「…! ああ、どうもありがとう。それでは」

 

拾い上げたまりなの手から、半ばひったくるようにパスケースを受け取って、犬飼は足早に去っていった。

 

「なにを急いでいるのかしら。みんな…」

 

先程、少し上げた評価を再び下げて、まりなは踵を返した。

 

 

 

 

コンコン…。

 

「法条まりな1級捜査官、参りました」

 

………。

………。

 

「あら…?」

 

コンコン…。

 

室内から返答はない。

 

「なによ。また、人を呼びつけておいて、留守だっていうの?」

 

どうやら、内務監査部分室のあるじは不在のようだ。

さすがに、甲野の部屋のように、鍵が開いているということはないが。

 

「来いっていうから、来たのに。失礼しちゃうっ」

 

まりなは、パンプスでドアを蹴ってやろうかと考えたが、さすがに思いとどまった。

 

「まりなウルトラキックをお見舞いしてやりたいところだけど、今はガマンね。

 …宮仕えの辛いところだわ」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「……遅いわね。一体、いつまで待たせる気かしら」

「…………」

「…………」

「ただ待っているのもなんだし…ちょっとだけ、真弥子ちゃんに持たせてもらったおにぎり、食べちゃおうかしら」

「…………」

「…………」

「人を待たせる方が悪いんだものね。そうと決まれば、お腹もすいちゃったことだし」

 

がさがさ…。 

 

「フフ…可愛らしい包み。真弥子ちゃんらしいわ」

 

「…あぁら、法条さん。オフィスで飲食とは、さすがアメリカ帰りの方は違うわね」

 

紙袋から、おにぎりの包みを取りだしかけていたまりなは、刺さるような視線を感じて、振り向いた。

タイトなスーツに身を包んだロングヘアの女性が、メガネのつるに手をかけて立っていた。

美人だが、鋭気が先に立って、トウが立って見える。

 

「ムカッ(あーあ…せっかくのいい気分が台無しだわ)」

「フフン」

「あーら、どなたかと思えば香川さんじゃない。今日は休日だからかしら。お化粧がいつもより薄いから、気が付かなかったわ」

「ムッ…」

「いつもなら、3cmは塗り込めていらっしゃいますものね。どうしたら、あんなに厚く塗れるのか、今度ゆっくり教えて頂きたいわ」

「な、なんですってぇ…!」

「フン」

「どうかしたのかね、香川君」

「ああ部長、聞いてください、このあばずれが…!」

「誰があばずれよっ」

「おや、法条君ではないかね。こんなところで、何をしている」

「(なにしてるって…呼びつけたのはそっちじゃない!)」

「ん…なんだね?」

 

仕立ての良いスーツに、ブランド物に身を固めた恰幅の良い男は、一見余裕のある笑みを浮かべた。

この、「一見余裕のある」というところがくせ者で、キャリア意識むき出しの態度と、人を見下したような視線が癇に障る。

はっきり言って、まりなの大嫌いなタイプの男だった。

 

「失礼。私は、新崎内務監査部長どのがお呼びと聞きましたので、うかがったのですけれど」

 

心の中で、思い切りアカンベーをしながら、まりなはせいぜい丁寧に用向きを伝えた。

 

「ん?…ああ、例の報告書の件か。しかしキミ、あれは別に今日というつもりではなかったのだが…」

「え?」

 

まりなは一瞬、唖然とした顔をした。

 

「(なによ、本部長っ、話が違うじゃない!)」

「ああ、すまんすまん。法条さんを呼んだのは、私だよ」

 

もう一人、声が加わった。

廊下の反対側から歩いてきたのは、理事長だった。

理事長という肩書きが不似合いな、どことなく貧相な体格の老人は、そう言って、人の好さそうな笑みを浮かべた。

頭頂部がかなり寂しくなっており、新崎の方がよほど、「理事長」という肩書きは似合っている。

 

「一さんか…」

「いや、新崎君が来ると聞いたのでね。それなら都合が良かろうと思って、甲野君に頼んだんだよ。…すまなかったね、法条さん。休みのところ、わざわざ呼び出してしまって」

「いえ、とんでもありません。これが職務ですから」

「うん…」

「随分、しおらしいこと。 …猫かぶり」

「(無視、無視…)」

「うむ…まぁ、そういうことならば報告を聞こうか。香川君、開けてくれ」

「はい、部長」

「(どっちが猫かぶりよ。…この嫌味女!)」

「ピクッ…」

 

まりなは、口の動きだけで「嫌味女」と言ったのだが、香川には、それが分かったらしい。

眉毛のあたりが、ピクピクと痙攣している。

 

「?どうかしたかね」

「い、いえ…」

 

カシュッ……ピー。

カチャ。

 

香川が、セキュリティカードをドア横の壁に設置されたのスリットに通らせると、小さな電子音とともに、ドアロックが解除される。

まりな、香川、新崎、一の4人は、室内に入った。

 

室内は、整理整頓が行き届いており、掃除も済ませたばかりなのか、床にはごみ一つ落ちていない。

 

「咲子さんは、どこへ行ったのかしら…」

 

香川が、給湯室に足を向けながら呟いた。

咲子、というのが、香川の秘書の名であることをまりなは知っていた。

 

「ああ、構わないよ香川君。キミは自分の仕事があるだろう」

「いえ、一さん、そういうわけには参りませんわ」

「気の付く女性だからね、彼女は」

 

新崎の言葉を聞いて、まりなは「どこがっ」と心の中で毒づいた。

 

「ああ、そうだ、香川君。例の書類を預かっておこうか、忘れないうちに」

「わかりましたわ、部長」

 

給湯室の食器棚から茶碗を用意していた香川は、自分のデスクに向かった。

残った3人は、来客用のソファに腰を下ろす。

 

「法条さん。キミの中間報告書は読ませてもらったよ。さすがに、噂に違わぬ能力の持ち主だ。

 現場の任務だけでなく、デスクワークにおいても、またしかりということだね」

「恐れ入りますわ」

 

一の率直な評価に、まりなはやんわりと頭を下げた。

新崎と違い、一の人柄をまりなは気に入っている。

こういった組織にあって、上司風を吹かせることのない気さくな人柄は、甲野と並び、むしろ希有なものだろう。

 

「しかし、いくつか首肯しかねる部分があることも、また確かだがね」

 

新崎が口をはさむ。

まりなは内心、ムッとしたが、極力、平静を装いながら、体を新崎の方へ向けた。

 

「それは、どのような点においてでしょうか」

「キミは、直感を行動に結びつける例が多々あるようだが、書類上の数字には、それは通用しないということだよ」

「おっしゃる意味が良くわかりません。もっと明確にお願いします」

「む…。キミの算出した数字には、いささか破綻があるのではないかね」

「事実と調査に基づく、根拠のある数値です。書類にすべて目を通していただければ、理解していただけるものと思いますわ」

「簡単に目は通したがね」

「あら。では今度は、じっくりと目を通して頂きたいですわ。一部分の数字だけを槍玉にして、全体像を否定なされるのは心外です」

「私が言いがかりをつけていると言いたいのかね」

「まあまあ、二人とも…」

 

「失礼します」

 

一が、険悪になりかけた場の仲裁に入った時、ドアが開いて、若い女性が入ってきた。

飾り気のない紺のビジネススーツを着こなした女性は、3人に一礼した。

 

「咲子さん…!」

 

と、彼女を待っていたように、青い顔の香川が駆け寄ってきた。 

咲子と呼ばれた女性を引っ張って、横の方でなにやらぼそぼそと言葉を交わす香川の顔は、どんどん青くなった。

 

「(香川さん、どうしたのかしら…)」

 

と、突然、何か閃いたかのように顔色を怒色に染めると、香川は一直線にまりなの元へやってきた。

 

「ほっ、法条さん、あなたね?!」

「……はあ?」

 

突然のことに、まりなは訳がわからず、ぽかんと口を開けた。

 

「何のことかしら?」

「とぼけないでっ」

「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ。取り乱して、鬼婆みたいな顔だわ」

「な、な、なんですってぇっ!」

「まあまあ、香川君。どうしたのかね」

「しょ、書類がなくなって……こ、この女が書類を隠した、いえ盗んだんですわ!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。この女って…私のこと?」

「ほかに誰がいるっていうの!」

「あなたねぇ、言うに事欠いて、人を泥棒呼ばわりする気?」

「香川君」

「ぶ、部長…」

「なくなったというのは、今日受け取るはずだった例の書類かね?」

「は、はい…」

「あれの重要性は、分かっていると思うが。…もし、紛失したとなれば、責任問題だよこれは」

「!……だっ、出しなさい、法条さんっ、早く!」

「ちょ、ちょっと、イタッ、だから知らないって……もうっ、落ち着きなさい!」

 

パシッ。

 

「あ……」

「少しは落ち着いた?」

「………」

「香川さん。あなたは嫌味な女だけど、バカじゃないはずだわ。

 私がいくらあなたと反りが合わないからって、仕事でくだらないいたずらはしない。

 第一、書類とやらの中身も、その存在すら知らない私が、それをどうこうできると思う? ましてや、部屋には鍵がかかっていたのよ」

「セ、セキュリティーカードがあれば…」

「私のセキュリティーカードでは開かないわ。監査部に登録されていないのだから。そんなことは、いつものあなたになら言わなくても分かるはずよね」

「くっ………」

「私を疑ってる暇があるのなら、もう一度、良く探してみた方が建設的だと思うけど?」

「………」

 

悔しそうではあったが、香川はまりなの言葉に従い、その場にいた全員でもう一度、部屋の中を調べた。

まりなは盗難の可能性を考え、即座に警備員に連絡し、しばらく誰もこのビルに出入りしないよう依頼した。

 

30分後…。

しかし、問題の書類は見つからなかった。

 

「そんな…どうして…」

「………」

「(香川さんの思い違いがない限り、これだけ探しても見つからないということは…やはり、盗難の可能性が高い。

 でも、入り口の鍵はかかっていたわ。こじあけられたりした形跡もない。

 …とすれば、セキュリティ自体に細工したか、カードを盗んで使ったか。

 あるいは…)」

 

気の重くなる、もう一つの可能性を考えながら、まりなは甲野の部屋に向かって歩き出した。

事態がどう転ぶにせよ、彼に報告しておかねばならない。

 

それにしても…

 

「最悪の休日だわ、んもう!」

 

 


【バッド・ケース3.へつづく】