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『科学哲学』29号(1996年)に飯田隆氏が,拙著『虚構世界の存在論』に対し異例に長い書評を寄せて下さっている.その後半における飯田氏の中心的批判,すなわち「虚構的対象が存在しないことは,必然的真理である」(p.201)という論点について,根本的な疑義を抱かされたので,簡潔に私見を述べさせていただきたい(注1). 「虚構的対象が存在しないことは,必然的真理である」という表現は曖昧で,取扱いに注意が必要である.この文の最も強い解釈へ至る諸前提を,段階的に整理してみよう(Nは述語「虚構によって導入された」. Πxはマイノング的あるいは代入的な全称量化子). @ 虚構的対象にとって,「虚構的であること」は本質的である. Πx( Nx ⊃ □(x=x⊃Nx) A 「虚構であること」にとって,「存在しないこと」は本質的である. Πx □( Nx ⊃ 〜∃y(x=y)) B どの可能世界であれ,その中の虚構により導入された虚構的対象は当該世界に存在しない. □ Πx( Nx ⊃ 〜∃y(x=y)) C 虚構により導入された虚構的対象は,いかなる可能世界にも存在しない. Πx( Nx ⊃ □ 〜∃y(x=y)) D どの可能世界であれ,その中の虚構により導入された虚構的対象はいかなる可能世界にも存在しない. □ Πx( Nx ⊃ □ 〜∃y(x=y)) @,Aは興味深い問題だが,拙著では直接触れなかったので,省略する(飯田氏の書評の注6,拙著第四章13節等を参照).重要なのはBとCの区別である(Dは,Cを文学的真理にとどまらぬ哲学的真理とするなら自動的に認められよう).拙著の主題はBの否定ではなく,Cの否定であった.この区別を明確にすれば,「ヴァルカン」のような名前と,虚構名とが「本質的に異ならない」(p.201)と私が考えていなかったことが示せる.Nを「理論的要請から導入された」または「反実仮想で導入された」と読んでみよう.するとBは偽である.飯田氏の言うように「ヴァルカン」が指示に成功する可能世界はあるだろうから.いっぽう虚構の名の場合は,その指示対象が当の世界内に実在することは(おそらく)ありえない.Bは虚構的対象の場合は真だが理論的対象の場合は偽だという飯田氏の指摘する相違を,私は認めるに吝かではないのである.しかしCは,Nを「理論的要請から導入された」と読んでも,虚構的対象の場合も,ともに偽だと私は考えるのである. p.201で飯田氏は「ヴァルカン」とは違い「虚構の固有名は最初から意図的に,現実に存在する何物をも指示しない表現として,言語に導入される」ことを問題にしているが,これはBにおける差異に過ぎない.同じ頁で飯田氏は「現実には存在しないが,存在したかもしれない対象」と「単に可能的にのみ存在する対象」とを同一視しているが,前者はB,後者はCの主題であって,別物である.さらに「虚構的対象が存在しないことは,必然的真理である」は曖昧であるとして,p.202で次のような但書きがつく.「ここで問題となっているのは,虚構的対象の現実的非存在ではない.つまり,……ドラえもんは現実には存在しない の必然性が問題なのではない.通常の可能世界論の枠組みでは,「現実に」というオペレーターによって支配されている文は,それが真であれば,すべての可能世界で真となる」これは飯田氏も述べるとおり,任意の命題について成り立つ真理 ∀p(p⊃ □ in@p)の一例に過ぎず,虚構に特有の問題ではない.このようなトリビアルな解釈に言及するくらいなら,はるかに重要なBCの区別を優先して明示すべきであったろう.これらはみな,飯田氏がBとCの相違を見過ごしていた傍証ではなかろうか(注2). 拙著の関心は(D.ルイスらの関心も)言語行為論的なB(世界内の対象への指示の可能性)ではなく,存在論的なC(世界外への指示の現実性)にあった.拙著はBには第四章3節,第二章注(25)(27)等で補足的にのみ言及し,本論とは独立的に扱ったが,それは私が,多様な虚構作品を通してBの正否はどちらとも決めがたいと考えたからだった.虚構の統一的論理としてはCの細部(唯一仮説と限界仮説の正否など)こそ追究に値すると考えたのである.飯田氏の書評は,B論をあえて軽視した拙著に対しBの再考を促したという点で有意義であるが,拙著の論旨そのものへの批判を含んでいなかったと言わざるをえない. 虚構的対象は「物語るという行為を通じて「架空の対象」として導入される」(p.202)と飯田氏は述べる.現実世界がいかなるものと判明しようとも,「架空の対象」の名が現実の対象を指すことはない(B).たしかにそれが「架空の」の語義であろう.だがこのことは,「架空の対象」の名が,現実でない別世界の対象をトランスワールドに指示しない(C)ましてや指示しえない(D)ことをなんら確証しはしない.「可能世界という装置によってフィクションを分析することの当否」(p.199)を突くためには,「ヴァルカン」との対比に依拠した飯田氏の立論とは全く別の次元の論考が必要である. 注1 本稿は「名古屋哲学フォーラム'97」(南山大学,97年9月6日)での発表の骨子である. 注2 前記フォーラムでの樋口えり子氏の発表にも同様の混同があった.この種の混乱の典型例として他に,Francis W. Dauter“The Nature of Fictional Characters and The Referential Fallacy”The Journal of Aesthetics and Art Criticism 53:1,1995. |