堀川運河の歴史と現在 -1

( 中間市教育委員会の資料-『堀川の歴史と文化』より抜粋 )

堀川運河は、遠賀川の洪水対策や灌漑用水・水運路の目的で開削されました

明治時代の石炭増産により、堀川運河は筑豊炭田の重要な輸送路となりました


堀 川 運 河 の 歴 史

期 別

年 代 

堀 川 運 河 開 削 の 工 事 過 程 

 第1期工事 

1621年〜1623年 

 家老・栗山大膳の指揮で、堀川開削工事が始まる---3年目に初代藩主・黒田長政の死去で、開削工事を中止 

第2期工事

1751年〜1762年 

 六代・継高---開削工事を再開し、車返の切貫き工事が始まる---1759年に川幅拡張工事も完了---金山川・洞海湾へ通じる 

第3期工事

1762年 

 一田久作の中間唐戸(水門)が完成---1763年から、 ひらた船 (川ひらた)の通船が開始される 

第4期工事

1802年〜1804年 

 上流の楠橋に、寿命(じめ)唐戸が完成---全長約12kmが、183年間で完成する   ( 2004年が、全区間の開通200年でした)

堀川運河は、遠賀川の洪水対策と

灌漑用水、水運路の目的で開削される

堀川運河の完成以前の水運では

遠賀川⇒芦屋

遠賀川⇒三ッ頭⇒江川⇒洞海湾⇒若松

曲川⇒芦屋

曲川⇒三ッ頭⇒江川⇒洞海湾⇒若松

等の経路で、年貢米や材木・雑貨等を運んでいました

明治時代からは、筑豊の石炭増産で

堀川運河は、重要な輸送路になりました

明治24年の、若松〜直方間の鉄道開通以後には

徐々に陸運に移行しますが、全盛時の明治32年には

年間に延べ13万艘の堀川運河通過がありました



(堀川工事で失った田畑--約18ヘクタール)

(潅漑用水で潤った田畑--約480ヘクタール) 


   堀川運河の現在の名称 

河川の名称 

区 間 

距 離 

堀  川  

寿命取水門〜寿命唐戸〜笹尾川に合流 

700m 

(笹尾川) 

(笹尾川) 

約 2km 

新堀川 

笹尾川と黒川の合流部--(現在は流水無し) 

200m 

(黒 川) 

(新堀川〜中間唐戸) 

100m 

新々堀川 

中間唐戸〜岩瀬--(曲川による分断部分)--吉田〜折尾〜洞海湾 

約 9.2km 


  

(遠賀川河川事務所)          北側から見た中間唐戸と遠賀川---新堀川は、笹尾川下流の東側の支流部分です 

ひらた船 (川ひらた)の通過数---堀川運河と江川

 

文化12年 

天保13年 

明治32年 

明治42年 

明治44年 

大正3年 

大正8年 

大正10年

大正12年 

大正15年 

昭和2年 

昭和4年 

昭和6年 

昭和8年 

昭和14年 

 堀 川   

1,629 

9,648 

130,657 

84,136 

81,083 

59,067 

42,880 

29,187

10,338 

6,267 

1,609 

2,403 

525 

310 

0 

江 川 

? 

? 

? 

28,232 

24,400 

13,014 

30,916 

?

23,343 

16,115 

12,524 

8,268 

5,890 

7,511 

? 

ひらた船 (川ひらた)---船数の変化 

明治22年 

明治28年 

明治33年 

明治38年 

明治40年 

明治44年 

大正3年 

大正8年 

大正10年 

大正12年 

大正15年 

昭和2年 

昭和4年 

昭和6年 

昭和8年 

昭和14年 

約8,000 

7,100 

6,544 

4,993 

5,065 

2,689 

2,166 

1,902 

1,853 

1,070 

517 

298 

200 

180 

180 

? 

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堀川運河の伏越 (中間市岩瀬)

  

       (左が北になります)                           昭和47年の伏越の風景  

昭和61年の堀川運河の分断工事以前には、曲川の上部に堀川運河が立体交差をしていました  

 

伏越撤去工事(昭和61年)前後の、堀川運河の伏越風景---(H.18/11/26追加)

 

撤去工事の前---南東から見た、曲川の流入口と伏越

 

(「遠賀川水系の橋」より)    撤去工事の前---北西から見た、曲川の流出口と旧・岩瀬橋(右)         昭和61年頃---南東から見た、伏越の石組みの跡

 

 

***** 水巻町歴史資料館の意向により、下の「4枚の伏越撤去工事のカラー写真」を掲載休止にします-(H.18/12/22) *****   

 

 (写真無し-1) 撤去工事の前---南東から見た、曲川の流入口と伏越

(写真無し-2) 昭和61年頃---南東から見た、伏越の石組みの跡

左上に、堀川の旧・岩瀬橋の北側のガードレールが見えています
釣り人の右の橋は、旧・祇園橋か??--確認中です 

工事の過程??--伏越上部の埋立⇒左岸土手の切除・排水機場の建設・護岸工事
⇒仮橋架設??⇒伏越と旧・岩瀬橋・祇園橋の撤去⇒護岸工事・岩瀬祇園橋の架設

 

 

(写真無し-3) 昭和61年頃--南から見た、伏越と旧・岩瀬橋・祇園橋の撤去工事 

(写真無し-4) 分断工事の直前か--南から見た、曲川・堀川の左岸土手道・堀川 

後方に、現在の短くなった土手道と、曲川岩瀬排水機場が見えています
新々堀川には、排水機場から僅かな水量が排水されています 

この写真では、旧・岩瀬橋の北側部分の堀川が埋立てられています
伏越の推定ライン--(黒)水巻町の推定、(赤)管理人の推定

 

  

                                       昭和49年の伏越の風景

             平成12年頃の伏越の跡地 

 

       現在の伏越の名残  左に曲川、右に堀川運河跡

         堀川運河への水路は、パネルで閉鎖されています  

 

堀川運河の流水面が、曲川より約1m程高いので・・・・しかし、現在の悪臭と濁りの根源は、この堀川運河・分断工事 (昭和61年) に原因がある

 

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中間唐戸(水門)と寿命唐戸

 

中間唐戸は、遠賀川と黒川・笹尾川の合流点に建設される  黒川の上流には、香月・馬場山地区に多くの炭鉱がありました 

寿命唐戸 から笹尾川を経由して、中間唐戸へ通じる

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堀川運河の寿命唐戸(水門)

  

  

文化元年(1804)に、第4期工事で完成した寿命唐戸(水門)です、水門下部の幅は3mでした  

中間唐戸と同規模の水門ですが、水面までは少し深いようです  中間唐戸は、表堰板戸・中戸・裏堰板戸の構成ですが、寿命唐戸には中戸がありません   

  

寿命唐戸では、周囲にフェンスを張りめぐらし見学者を拒否しています  オープンな中間唐戸との差は・・・・お役所の違いだけか???

唐戸下部の両岸の石柱(石の樋)は、寿命唐戸は一枚岩ではないようです

   

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堀川運河の中間唐戸(水門)

  

  

  

宝暦12年(1762)に、第3期工事で完成した中間唐戸(水門)です、水門下部の幅は3mでした   

ひらた船 (川ひらた)---長さは約6m〜14m、横幅は約2m〜2.7mです  ( 3間ひらた船〜4間ひらた船〜4丈6尺等、サイズは多種多様でした )  

中左は、鳥居巻と堰板戸です 下左2枚では、中戸の片側1枚が閉鎖状態です--中戸は、洪水時の調整・閉鎖に使用しました   

   

堰板戸---長さ-3.18m、幅-33cm、厚さ-19cm  

中間唐戸の上屋内に保存されている昔の堰板戸には、吊り上げ用の金具が付いています  通路横の堰板戸は、幅24cm程で金具がありません   

 

唐戸下部の両岸の石柱(石の樋)は、中間唐戸は一枚岩で造られています  溝の幅は約12cm、深さは約10cm(但し目測です)

右写真は、寿命唐戸の上屋内の堰板戸を90度回転しています    

洪水時に中戸を閉鎖では、堀川運河の開削目的--遠賀川の洪水対策--が怪しくなってくる???

〔 中間唐戸の1/3模型と、 ひらた船 (川ひらた) の1/4模型が、中間市歴史民俗資料館に展示されています 〕

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堀川運河の歴史と現在−2 』

( 『堀川運河の写真 』 を追加 ) ・( 『懐かしき折尾駅-2 』 に堀川運河の写真を追加 )


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更新日 '06/12/22