〈吉岡実〉の「本」(小林一郎 執筆)

最終更新日2010年1月31日

詩集《昏睡季節》の表紙、詩集《液体》の函、歌集《魚藍》の表紙(いずれも吉岡家蔵の初刊)
詩集《昏睡季節》の表紙、詩集《液体》の函、歌集《魚藍》の表紙(いずれも吉岡家蔵の初刊)


目次

吉岡実の装丁作品(76)(2010年1月31日)

吉岡実の装丁作品(75)(2009年12月31日)

吉岡実の装丁作品(74)(2009年11月30日)

吉岡実の装丁作品(73)(2009年10月31日)

吉岡実の装丁作品(72)(2009年9月30日)

吉岡実の装丁作品(71)(2009年8月31日)

吉岡実の装丁作品(70)(2009年7月31日〔2009年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(69)(2009年6月30日)

吉岡実の装丁作品(68)(2009年5月31日)

吉岡実の装丁作品(67)(2009年4月30日)

吉岡実の装丁作品(66)(2009年3月31日)

吉岡実の装丁作品(65)(2009年2月28日)

吉岡実の装丁作品(64)(2009年1月31日)

吉岡実の装丁作品(63)(2008年12月31日)

吉岡実の装丁作品(62)(2008年11月30日)

吉岡実の装丁作品(61)(2008年10月31日)

吉岡実の装丁作品(60)(2008年9月30日)

吉岡実の装丁作品(59)(2008年8月31日)

吉岡実の装丁作品(58)(2008年7月31日)

吉岡実の装丁作品(57)(2008年6月30日)

吉岡実の装丁作品(56)(2008年5月31日)

吉岡実の装丁作品(55)(2008年4月30日)

吉岡実の装丁作品(54)(2008年3月31日)

吉岡実の装丁作品(53)(2008年2月29日)

吉岡実の装丁作品(52)(2008年1月31日)

吉岡実の装丁作品(51)(2007年12月31日)

吉岡実の装丁作品(50)(2007年11月30日)

吉岡実の装丁作品(49)(2007年10月31日〔2008年12月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(48)(2007年9月30日)

吉岡実の出版広告(1)(2007年8月31日)

吉岡実の装丁作品(47)(2007年7月31日)

吉岡実の装丁作品(46)(2007年6月30日)

吉岡実の装丁作品(45)(2007年5月31日)

吉岡実のレイアウト(4)(2007年4月30日)

吉岡実の装丁作品(44)(2007年3月31日)

吉岡実の装丁作品(43)(2007年2月28日)

吉岡実の装丁作品(42)(2007年1月31日)

吉岡実の装丁作品(41)(2006年12月31日)

吉岡実の装丁作品(40)(2006年11月30日)

吉岡実の装丁作品(39)(2006年10月31日)

吉岡実の装丁作品(38)(2006年9月30日)

吉岡実の装丁作品(37)(2006年8月31日)

吉岡実の装丁作品(36)(2006年7月31日)

吉岡実の装丁作品(35)(2006年6月30日)

吉岡実の装丁作品(34)(2006年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(33)(2006年4月30日)

吉岡実の装丁作品(32)(2006年3月31日)

吉岡実のレイアウト(3)(2006年2月28日)

吉岡実の装丁作品(31)(2006年1月31日)

吉岡実の装丁作品(30)(2005年12月31日)

吉岡実の装丁作品(29)(2005年11月30日〔2009年3月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(28)(2005年10月31日)

吉岡実の装丁作品(27)(2005年9月30日)

吉岡実の装丁作品(26)(2005年8月31日〔2005年9月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(25)(2005年7月31日)

吉岡実の装丁作品(24)(2005年6月30日)

吉岡実の装丁作品(23)(2005年5月31日)

吉岡実の装丁作品(22)(2005年4月30日)

吉岡実の装丁作品(21)(2005年3月31日)

吉岡実の装丁作品(20)(2005年2月28日)

吉岡実の装丁作品(19)(2005年1月31日)〔2006年8月31日追記〕

吉岡実の装丁作品(18)(2004年12月31日)

吉岡実の装丁作品(17)(2004年11月30日〔2006年1月31日追記〕)

吉岡実の装丁作品(16)(2004年10月31日)

吉岡実の装丁作品(15)(2004年9月30日)

吉岡実の装丁作品(14)(2004年8月31日)

吉岡実の装丁作品(13)(2004年7月31日)

吉岡実の装丁作品(12)(2004年6月30日)

吉岡実の装丁作品(11)(2004年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

吉岡実の手掛けた本(1)(2004年4月30日)

吉岡実の対談・座談会集(2004年3月31日)

吉岡実の装丁作品(10)(2004年2月29日)

吉岡実詩集の基本版面(2004年1月31日)

吉岡実の装丁作品(9)(2003年12月31日)

吉岡実の装丁作品(8)(2003年11月30日)

吉岡実の装丁作品(7)(2003年10月31日)

吉岡実の装丁作品(6)(2003年9月30日)

吉岡実のレイアウト(2)(2003年8月31日〔2004年2月29日追記〕)

吉岡実の装丁作品(5)(2003年7月31日)

吉岡実の装丁作品(4)(2003年5月31日〔2009年4月30日追記〕)

吉岡実の装丁作品(3)(2003年4月30日)

吉岡実のレイアウト(1)(2003年3月31日)

吉岡実の装丁作品(2)(2003年2月28日)

吉岡実の装丁作品(1)(2003年1月31日)

吉岡実の特装本(2002年8月31日〔2002年12月18日追記〕)


吉岡実の装丁作品(76)(2010年1月31日)

那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)には〈吉岡実の装丁作品(6)〉で触れたが、そのときにはほかの版があることを知らなかった。先日、1966年2月5日発行の同詩集「普及版」(奥付による)を知り、さっそく入手した。普及版にもクレジットは見えないが、吉岡実装丁に間違いない。今回は1965年発行の初刊「限定400部」(同前)本と翌年発行の普及版を比較して、吉岡実装丁のフランス装について(何度めかの)考察をしてみたい。普及版は、仕様(二〇一×一四八ミリメートル・九〇ページ・フランス装・機械函)・資材(本文用紙:北越製紙、同納入:竹尾洋紙店)とも限定版と同一で、宝印刷・岩佐製本という制作会社も同じだ。ただしグラシンの有無・形状が異なる。

フランス装表紙のグラシン
機械函のグラシン
限定版
広げた表紙と同じ大きさで、重ねたまま折り返し
(取り外せない)
貼函のように天地を糊で貼りあわせ、開口部で折り返し
(版元製本時には無し?)
普及版
天地は表紙の仕上がりと同寸、小口で折り返し
(取り外せる)
無し
(当初から無し?)

限定版の機械函にグラシンをかけたのは購入先の古書店(神保町・田村書店)の可能性が高いので、検討対象から除外する。フランス装表紙のグラシンについては、以下で詳述する。

――――――――――

(厚紙を針金でとめた機械函)

  • 表紙1=「那珂太郎詩集」(16ポ)、「音楽」(28ポ)、「思潮社」(9ポ)、以上横組。2色刷りでハープのカットだけ茶色。
  • 背=「那珂太郎詩集音楽」(14ポ)、2色刷りで「詩集」だけ茶色。
  • 表紙4=「1965(「1966」とあるべきところ)〔改行〕思潮社」(8ポ)、以上横組。

表紙(フランス装によるくるみ表紙)

  • 表紙1=「那珂太郎詩集」(二号)、ウニのカット、「音楽」(初号)、以上横組。2色刷りでウニのカットだけ青色。
  • 背=「那珂太郎詩集音楽」(12ポ)、2色刷りで「詩集」だけ青色。
  • 表紙4=「1966〔改行〕思潮社」(8ポ)、以上横組。

那珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》(思潮社、1966年2月5日)の本扉と函の表紙4 那珂太郎詩集《音楽〔限定版〕》(思潮社、1965年7月10日)と〔普及版〕の表紙の一部
那珂太郎詩集《音楽〔普及版〕》(思潮社、1966年2月5日)の本扉と函の表紙4(左)と上:同〔限定版〕(同、1965年7月10日)と下:〔普及版〕の表紙の一部(右)

限定版の表紙(仕上がりは204×151ミリメートル)の用紙を広げれば天地313×左右416ミリメートルなのに対して、普及版の用紙は天地267×左右390ミリメートルで、折り返しは限定版の54ミリメートルに対して41(小口)・32(天と地)ミリメートルと、かなり浅くなっている。用紙はふたつの版とも同じ銘柄・連量に見えるが、本体との接着の度合い(面積)が異なる。限定版は折り返された表紙全面にグラシンが掛かっていて(前小口以外の周囲を糊づけ)、接着部分は背幅よりはみでているため、表紙が折丁をしっかり保持している。一方、普及版のグラシンは接着部分に掛かっていないので、表紙裏のほぼ背幅にだけ糊がさされているためだろうか、古書店(練馬・一信堂書店)で購入したとき、表紙が本体から完全に外れていた。ただし、接着部分が少ないことでノドの開きは良いはずだ(国会図書館所蔵の普及版を手にしたところ、吉岡実詩集《紡錘形》の開き具合が両版の中間といった按配だったが、どれも両手で持たないと閉じてしまう難がある)。
写真ではわかりにくいが、表紙は二箇所で修正されている。@表紙1の著者名の「郎」が正字から新字に。A表紙4の刊行年の「1965」が「1966」に。限定版の表紙1以外、「郎」はすべて新字だったから穏当な措置だが、刊行年の修正とどちらの比重が大きかったかは軽軽に断言できない。

前見返し(4ページ。本文の第1折のノドに糊づけ。効き紙に相当するほうの見返しがフランス装の前小口の袖の下に潜る)

本文

  • 1-2ページめ(本丁〔隠しノンブル〕:ノーカウント。別丁のための支持体か)――白。
  • 別丁(ペラ、本文2ページめのノドに糊づけ)――本扉=「詩集」(8ポ)、「音楽」(二号)、ヒトデのカット、「那珂太郎」(二号)、「思潮社」(8ポ)。2色刷りでカットだけ灰赤色。裏白。
  • 3-4ページめ(隠しノンブル:1-2扱い)――扉=「那珂太郎詩集」(16ポ、小口寄せ)。裏白。
  • 5ページめ(隠しノンブル:3扱い)――扉=「目次」(16ポ、小口寄せ)。
  • 6-7ページめ(隠しノンブル:4-5扱い)――以下の目次の本文(五号)は地ゾロエ。

秋の・・・ 8
作品A 12
作品B 14
作品C 16
繭 18
塔 22
ねむりの海 26
くゆるパイプのけむりの波の 32
フォオトリエの鳥 36
鎮魂歌 40
<毛>のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス 48
透明な鳥籠 54
或る画に寄せて 58
死 あるひは詩 62
海 66
転生 70
小品 72
てのひらの風景 74
アメリイの雨 76
跋 80

カット・落合茂

  • 8ページめ(隠しノンブル:6扱い)――白。
  • 9ページめ(隠しノンブル:7扱い)――扉=「音楽」(16ポ、小口寄せ)。
  • 10ページめ(ノンブル:8)――詩篇本文(標題「秋の・・・」16ポ、6行ドリ、小口寄せ。本文「秋のあらしの〔……〕コリントの柱」五号〔16字詰×13行組〕、行間五号全角)。
  • 11ページめ(ノンブル:9)――詩篇本文「りらりらぷるん〔……〕ふるへるへそか」。
  • 12ページめ(ノンブル:10)――詩篇本文「ら颯と鳥が〔……〕むなしく・・・」。
  • 13ページめ(隠しノンブル:11扱い)――白。
  • 〔……〕
  • 80ページめ(隠しノンブル:78扱い)――白。
  • 81ページめ(隠しノンブル:79扱い)――扉=「跋」(16ポ、小口寄せ)。
  • 82-83ページめ(ノンブル:80-81)――本文「無とはなにも〔……〕あらうとする。」(3行アキ。五号〔27字詰×13行組〕、行間五号全角)。
  • 84ページめ(隠しノンブル:82扱い)―― 「発表年次・掲載誌」(標題9ポ、本文8ポ)、横組。
  • 85-86ページめ(隠しノンブル:83-84扱い)――著者略歴・奥付(使用活字のサイズは6ポから14ポまでの多岐にわたるので、省略)、横組。裏白。
  • 87-88ページめ(隠しノンブル:85-86扱い)――白。

詩篇を見開きで起こす手法は、戦後の吉岡実が自身の詩集で一貫して採ってきたもので(戦前の二詩集、《昏睡季節》と《液体》の巻頭詩篇はともに改丁〔奇数ページ起こし〕)、《音楽》もその例に漏れない。《静物》に始まり《紡錘形》で頂点を極めた吉岡の本文組は、本書の装丁とともに、那珂の友人でもあった伊達得夫(1950年の那珂の第一詩集《ETUDES》は書肆ユリイカの詩書出版を方向づけた)への恩返しとなったことだろう。なお〈跋〉は、字詰こそ箱組の詩篇と異なるものの、本文とまったく同じ活字・組体裁で、そこに吉岡の明確な意志を感じる。

後見返し(4ページ。本文の最終第6折〔第5折は8ページ建て、第6折は16ページ建て〕のノドに糊づけ。効き紙に相当するほうの見返しがフランス装の前小口の袖の下に潜る)

――――――――――

《日本現代詩大系〔第13巻〕》(河出書房新社、1976年7月15日)は大岡信編の〈戦後期(三)〉で、《音楽》の全19篇から5篇(〈作品A〉、〈繭〉、〈鎮魂歌〉、〈〈毛〉のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス〉、〈小品〉)を採っている。文末に次の書誌がある。

〔「音樂〔ママ〕・那珂太郎著。一九六五年七月十日、思潮社発行。体裁・199×149並製。カット・落合茂。目次三頁、本文七五頁。定価六百円〕(同書、八六ページ)

〈凡例〉(同、一三ページ)に従えば「199×149」は横一九九ミリ、縦一四九ミリということになってしまうから、ここは「149×199」だろう(私の採寸した「天地二〇一×左右一四八ミリメートル」とは微妙に異なるが、いずれにしてもA5判天地切りの変型サイズである)。さて、本詩集で最も人口に膾炙しているのは〈繭〉(初出は《詩学》1961年1月号)の次の詩句だろう。

もももももももももも/裳も藻も腿も桃も

大岡信は前掲書の〈解説〉で、吉岡実と那珂太郎に触れて「そういう複合的な感覚が、〔……〕また吉岡實には、生命的な徴候の一切を消滅させた、「円筒の死児」を育てるための「矩形の家」への夢を語らせる(「喪服」)のである。/那珂太郎の詩集『音樂〔ママ〕』は、いってみればそういう崩壊感覚のエッセンスをしぼりあげ、精製したような言葉の群で書かれていた」(同、五三七〜五三八ページ)と述べている。那珂太郎の〈繭〉は吉岡実の「そうしてうずまき模様の/ののののの/のたれ死を承認せよ」(〈崑崙〉F・8)の7年前に発表されている。

〔普及版の函に関する追記〕
詩集《音楽》は1965年12月に第5回室生犀星詩人賞を、翌66年2月に第17回読売文学賞(詩歌・俳句部門)を受賞しており、普及版の刊行はこれに合わせたものだろう。ところで、前橋文学館特別企画展《那珂太郎――〈無〉の詩学》(萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館、2008年10月11日)の詩集書影を見ると、限定版は函が、普及版(帯に「読売文学賞受賞/数年来の日本文学の最大の収獲」とある)は表紙が掲げられている。普及版の定価は500円であり、表紙のグラシン掛けを簡略化し、函をやめてコストダウンを図った――ゆえに函は当初からなかった、とすべきだろう。冒頭で触れた普及版の函は、表紙が外れるのを防ぐために古書店が限定版から流用したものだと考えれば、年号の「1965」にも納得がいく。とはいうものの、函の調達先等の謎は残る。


吉岡実の装丁作品(75)(2009年12月31日)

西脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)には装丁者のクレジットがないが、社内装丁物として吉岡実が担当したと考えられる。西脇は1969年10月10日の日付のある本書の〈あとがき〉を「この本を出版するのに筑摩書房の井上達三君を初め吉岡実君やまた編集校正など会田綱雄君や鍵谷幸信君に非常な骨折りをかけてしまった。こゝで深く感謝の意を表したい」(本書、二二三ページ)と結んでいて、前年1968年刊行の《詩學》と同じ井上達三の企画で、吉岡と会田が社内の実務を担当したと思しい。ほぼ書きおろしだった《詩學》に対して既発表の随筆を集めた本書だが、〈あとがき〉から察するに編集・制作はスムーズにはいかなかったか。もっとも仕上がりを見るかぎり、大人が読むにふさわしい落ち着いた本で(本文10ポ38字詰15行・行間全角、カラー口絵に西脇の油彩〈北海道の旅〉)、この出来には著者も満足したことだろう。
本書の仕様は、一九五×一四八ミリメートル・二三六ページ・上製クロス装・貼函。意匠として注目したいのが函で、ひらがなばかりの書名の「と」を赤にしたり、西脇の手になるスケッチを作品的にあしらうなどして、吉岡実装丁のなかでは少しく冒険を試みた一冊となっている。

西脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)の本扉と函
西脇順三郎随筆集《じゅんさいとすずき》(筑摩書房、1969年11月28日)の本扉と函

吉岡が西脇に関する随想を集成した〈西脇順三郎アラベスク〉の〈3 化粧地蔵の周辺〉には

〔……〕今から五年前の秋の初めごろだった。西脇先生は出来たばかりの随筆集《じゅんさいとすずき》に署名するため、来社された。百二十冊にサインをすませるとさすがに手首が痛くなったと、西脇先生は苦笑された。そして急に思いつかれたように、三田に気に入った飲み屋があるから行こうと会田綱雄と私をタクシーにのせた。田町駅近くで降りると、大通りに面して真黒い店構が見えた。それは文字通り黒塀という酒蔵であった。まだ四時ごろというのに、酒好きの客が適当に入っているのも私たちをいっそう快い酔にさそった。日の傾くころ西脇先生は少し散歩しようと言われた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二二九ページ)

とあり、同じく〈4 日記より〉には次のようにあって、《じゅんさいとすずき》から《壤歌》へと向かっていた、当時の西脇の筑摩書房でのありさまが活写されている。

 昭和44年9月1日/西脇先生来社。会田綱雄と二〇〇〇行の詩の編集について語る。《壤歌》としたいがと言われたので、二人ともさんせいする。先生にきく、――ところで《壤歌》とは何ですか? それは土を叩いて唄うことだよ。土人の祭礼の夜のごとく。
     9月3日/西脇先生来られる。二千行の詩、一行足りないことがわかり、書き加えにきたとのこと。グリルシンコーで昼食。それから会田綱雄がきたので三人でバリーに行き、言語談義。漢語とギリシア語との共通点を求めて、実に五ヶ年に及ぶとか。先生ひとりで一時間も喋る。(同前、二三一ページ)


吉岡実の装丁作品(74)(2009年11月30日)

田中栞の《書肆ユリイカの本》の巻末資料〈書肆ユリイカ出版総目録〉には、吉岡実の著書として《僧侶》(1958)と《吉岡實詩集〔今日の詩人双書〕》(1959)、(吉岡の名前はないが)共著として《現代詩全集〔第3巻〕》(1959)と《日本詩集・1960》(1960)、装丁作品としてアンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(1959)と片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書〕》(1960)の計6点が掲載されている。同目録の《プリュームという男》の記載は「〔昭和〕34.9.20 プリュームという男 アンリ・ミショオ 小海永二訳 装丁・吉岡実、挿画・著者、モーリス・アンリ」(《書肆ユリイカの本》、青土社、2009年9月15日、後付一〇ページ)で、同書の本文にはこうある。

ミショオ『プリュームという男』(昭和三四年、図42)は、表紙ひらに印刷してある文字が天と地それぞれのギリギリだ。こんな位置に指定されたら、印刷所や製本所がさぞかしいやがることだろう。数ミリのズレが致命傷になるからだ。この位置が今の私たちの目に新鮮に映るのは、現代の印刷製本ではそうした現場の事情から敬遠され、あまり行われないせいである。多少ずれても支障のないデザイン、手間がかからず速く安くできるつくり……そんなことを追求するから、書店の店頭に並ぶ本はみな、どれも同じような顔になってしまう。(〈繊細な詩集群の誕生〉、同前、二二・二四ページ)

表紙を広げたところの「図42」(同前、二三ページ)はモノクロ写真で、これに「背が黒でひらが赤という作品」(同前、二九ページ)という説明と上掲文を併せれば、表紙の解説として付けくわえるべき点はない。あえて付言するなら、杉浦康平ブックデザインの《吉岡実詩集》(思潮社、1967)の本文の刷り位置が天ギリギリの指定で、吉岡が(著者として/装丁家として)少しでも下げようとしたことくらいである。本書の仕様は、二〇九×一四八ミリメートル・一三六ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・クロス)・ジャケット。訳者の小海永二は〈あとがき〉で「〔口絵の〕原色版はミショオの詩画集『絵画とデッサン』より採った。一九三九年作。扉のモーリス・アンリ筆のミショオの肖像画[ポルトレ]は、「おだやかな男」を読まれた読者には、極めて興味深く思われることであろう」(本書、一三一ページ)と書いており、これらのビジュアルの選定に訳者の意向が反映していたことがわかる。ジャケットの画のクレジットはないが、小海永二《アンリ・ミショー評伝》(国文社、1998年7月30日)の口絵に掲載されている「『プリュームという男』の挿画(1930年)」(同書、〔八ページ〕)が同じ画だから、ジャケットはミショーによるものだろう。

アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の表紙 アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の本扉とジャケット
アンリ・ミショオ(小海永二訳)《プリュームという男》(書肆ユリイカ、1959年9月20日)の表紙(左)と同・本扉とジャケット(右)

《プリュームという男》に収められたのは〈プリュームという男〉〈「A」の肖像〉〈鎖(一幕)〉の3篇。小海は後年、別の訳詩集の〈解説〉にこう書いている。
「ミショーの創造した架空の人物プリュームは、眠っている間に家を盗まれ、妻を列車に轢き殺されて、しかも犯人として死刑を宣告される。旅に出れば、寝台を断わられ、木の根を喰えとおしつけられ、列車からは放り出される。だが、次々と加えられる攻撃にも、彼は気弱く従うばかりだ。適応不能者の見本、プリュームは、人間を取囲む敵意ある諸力、悪しき宿命から逃れ得ぬわれわれ人間存在の戯画なのであり、それはそのまま現代における人間の条件を暗示する」(小海永二訳《アンリ・ミショー詩集》、彌生書房、1977年6月30日、一五四ページ)。
次に〈プリュームという男〉の〈N ブルガリア人の夜〉の冒頭部分を引くのは、吉岡の〈少女〉(F・5)の「樹と外套でかこわれて/ブルガリヤ人の男根は立ち/孔雀の羽は散乱する/きわどいレールを/バクシンする蒸気機関車が正面から入ってくる」という詩句と併置したいがためである。

 《ごらんの通り、わたしたちは帰る途中で、うっかり汽車を間違えたんです。それで、こいつらブルガリア人どもと一緒の車輛になったんですが、奴らが何やらわからんことを、ぶつぶつつぶやいたり、始終ごそごそ身体を動かしたりするもんだから、一ぺんに決着[きまり]をつけたくなったんでさ。わたしたちはピストルを抜いて奴らを射った。奴らは信用出来ん連中だから、いきなりやっちまったというわけですよ。何はともあれ、奴らに戦おうって気をなくさせることが、先ず第一というもんでしょうが。奴らは残らず度胆を抜かれたようでしたが、全くこいつらブルガリア人って奴は、信用してはならんのです。》(本書、二六ページ)

吉岡実はアンリ・ミショーに言及していないが、未刊詩篇〈陰謀〉(《現代詩》〔緑書房〕1956年7月号)は《プリュームという男》のミショーの世界に近いものを感じさせる。〈陰謀〉はその寓意性もさることながら、吉岡実詩にしては不気味なまでの反復(「百匹の」、「心やさしい猫」と「手の折れた猫」)が異色の散文詩だが、〈陰謀〉発表の1956年は後の《僧侶》の諸篇が初めて登場した年でもある。この年、〈告白〉(4月)、〈喜劇〉(5月)、〈陰謀〉(7月)、〈島〉(11月)、〈仕事〉(12月)が発表されているが、吉岡は寓意と反復の方向に作品の舵を切ることなく、本篇が詩集《僧侶》に収められることはなかった。しかしながら、《僧侶》に19篇中9篇と散文詩型の詩篇が多いのは、小海訳のミショー詩篇が影響しているのかもしれない。小海永二は前掲《アンリ・ミショー評伝》で、日本におけるミショーの詩の影響について次のように書いている。
「一時期確かに、ミショーの詩は、ほとんどわたしの訳詩を通して、日本の詩人たちにも共感を伴う広い影響を与えた。ミショーは主として散文詩を書いており、影響もほとんどが散文詩の領域に限られる。戦後日本の詩における散文詩流行の基盤には、ミショーの物語的散文詩からの刺戟があったと(少なくともその主要な要因の一つになったと)わたしは考えている。ミショーの詩の魅力と感化力は、日本においてはそれほどに大きかった」(同書、三八七ページ)。
書肆ユリイカと吉岡実のつながりは、冒頭に記したとおり、遅い出会いにもかかわらず濃密なものがあった(同人詩誌《今日》や総合詩誌《ユリイカ》といった書肆ユリイカ発行の雑誌は、吉岡がデビュー間もない時点で最も重要な発表媒体だった)。一方、ミショーの初期の邦訳詩書は、書肆ユリイカが発行する小海永二訳で占められていた。すなわち次の3冊である。

  1. 《アンリ・ミショオ詩集》(1955年3月31日)〔〈素直な男〉など全42篇〕
  2. 《現代フランス詩人集〔第1巻〕》(1955年12月15日)〔〈プリュームの幻像〉など24篇収録〕
  3. 《アンリ・ミショオ詩集〔海外の詩人双書2〕》(1958年1月15日)〔〈おだやかな男〉など全49篇〕

《プリュームという男》以前のこれらミショー詩集(のいずれか)に吉岡が触れたことは、「孤独な魂の宇宙を描いた書」たる《静物》から「人間への愛と不信に彩られた書」たる《僧侶》への変貌から考えても、充分あったと想われる。小海永二による〈プリュームという男〉の訳文は、《プリュームという男》(国文社、1970)刊行時に訳者の手が入り、その本文が《アンリ・ミショー全集〔第1巻〕》(青土社、1987)と《小海永二翻訳撰集〔第1巻〕》(丸善、2008)に引き継がれている。


吉岡実の装丁作品(73)(2009年10月31日)

高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)は《詩人の血》(同、1977)、《球体の息子》(同、1978)に続く第三の試論集で、三部作の完結篇。「ここにまとめた「聖という場」、副題を「旅をめぐって」とした。既刊の「詩人の血―詩をめぐって」、「球体の息子―肉をめぐって」と併せて、私がこれまで書いて来た主要なエセーはほぼ網羅した。私はこれからも幼い問いをつづけていくだろうが、その問いはひきつづき、この詩と肉と旅との三角形に括ることができそうである」(〈跋〉、本書、二六六ページ)。本書の仕様は、一九〇×一二八ミリメートル・二七四ページ・上製クロス装(クリームがかった黄色)・函。目次の裏に「装幀 吉 岡 実」。全14篇をM部に分かち、配する。
 J 聖という場/両開きの窗をめぐって/伊勢かがみ
 K 往きて帰らぬ/甘疆丘より/覇者の血の記憶/旅・夜・花・垣
 L 道のある風景から/市について/私のニューヨーク地図/旅の天使
 M 地中海のバルバロス/聖山アソスへの道/オーケアノスのほとり
〈地中海のバルバロス〉(初出:《海》1969年11月号)に、初めてクレタ入りしたときの様子が書かれている。「三時半、イラクリオン空港へ。アテネのホテルで紹介されたアトランチスという、海沿いの瀟洒なホテルに投宿。海へ出る。突堤の先に十字軍の砦がある。湾の向こう、はるか西の山山の上にそびえる三角形の山は、イダ山だろうか。突堤の内がわにもやった漁船たち。魚釣りの少年たちが珍しそうに私を見る。小声でヤポニス、ヤポニスとささやいている」(〈六月二十七日 アテネ→クレタ〉、本書、一九七〜一九八ページ)。そして〈六月二十八日 クレタ〉には「クノッソス、ミノス王宮。午前九時の廃墟には作業人夫たちのほかには誰もいない。階段を降りると、もう迷路のはじまりだ。アテナイから人身御供の若者たちを連れて来た使者がここを怪物の棲む迷宮と思ったのも頷かれる」(同前、一九八ページ)とある。高橋は三部作をこうふりかえっている。

 ぼくの経堂の住まいに現われた長谷川さんは「エセー集を出したいのですが、一冊分相当の原稿はありませんか」と切り出した。そこから先はぼくもよく憶えている。ぼくは、「三冊分ならあります」と答えた。じつは〔一九〕六二年の上京以来それまでに書いたものを自分なりにまとめたところ、傾向の異なる三つのグループに分かれていたのだった。/〔……〕/一冊分ほしいので、三冊分はどうも、という答をぼくは予想していた。ところが長谷川さんの答は、では三冊出しましょう、だった。そして〔……〕三冊が出た。それぞれ、青、赤、黄の布製〔ママ〕紙函入りは吉岡実さんの装幀だ。(〈長谷川郁夫の巻――厄年とアクメー〉、《友達の作り方――高橋睦郎のFriends Index》、マガジンハウス、1993年9月22日、三七二ページ)

著者と小沢書店の編集者にして発行者・長谷川郁夫とのやりとりである。同書店の吉岡実装丁本の著者は那珂太郎と高橋睦郎の二人だけで、本書の装丁は著者の「ご指名」かもしれない。

高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)の本扉と函 高橋睦郎の試論集三部作(小沢書店)の背表紙
高橋睦郎《聖という場》(小沢書店、1978年10月10日)の本扉と函(左)と同・試論集三部作の背表紙(右)


吉岡実の装丁作品(72)(2009年9月30日)

高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)は《詩人の血》(同、1977)に続く第二の試論集。〈球体の息子たち――ギリシア神話にみる夭折の原理〉など、肉=エロースについてのエッセイ24篇を収める。私は本書から、高橋も同人の一人だった《饗宴》の創刊号(1976年5月)に吉岡実が寄せた詩篇〈少年〉(G・29)を想い起こす。その「3」を追込みで引こう。

理由はいくらでもつく/少年のすきな闇のなかには/柱のようなもの/球形のようなもの/それらが存在する/「男根の切断面から生える巴旦杏」/を採りにくる/農夫の娘を見つけ/わたしは熱い地の風を浴びた

本書の仕様は、一九〇×一二九ミリメートル・二五八ページ・上製クロス装(赤)・函。目次裏に「装幀 吉 岡 実」とある。本扉の方眼上のカットは、高橋の詩集《王国の構造》(小沢書店、1982年2月20日)の〈いくつかの基本語彙〉の付記の一節が解説しているようだ。「あたかも古代の都城遺跡の遺跡層が何層にも重なっているように、この国の言語層が重なっているせいだろうが、その中から死――夜――母の三角形の重視を見いだすことは、それほど困難ではあるまい」(同書、一五八ページ)。黒の表紙・見返し、墨一色の本扉の装丁は保田春彦だが、その奥付裏広告に白を基調にした吉岡実装丁の三部作が載っている。この3冊でひとつの世界を形成する構想が著者と出版者の間で了解されていたこと、それを視覚的に展開するプランが装丁者に求められたこと、ともに想像に難くない。その意向は、函・本扉の図柄の選定に充分すぎるほど反映している。

高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)の本扉と函
高橋睦郎《球体の息子》(小沢書店、1978年2月20日)の本扉と函

本書巻末の〈受肉ということ〉には、《地球》の同人・片瀬博子(《キャスリン・レイン詩集》の訳者)との出会いが書かれていて、それだけでも重要だが、同文の最後の一節が前作《詩人の血》の巻頭エッセイと対応しているさまは、スリリングでさえある。ここで私は、主題に回帰して了るビートルズやプログレッシヴロックグループの一連のコンセプトアルバムを連想しないわけにはいかない。

 私はヘブレオ人でも、ギリシア人でもない。しかし、私が自分の生きかたの中心に詩を選び、詩人であることを選んだとき、私は自分の生きかたの指針として「言は肉体となって、私たちのうちに宿った」の聖句を選んだことになる。だから、「詩人の血――または修辞について」および「知られざる poesie をめぐって」は、〔「詩人」のギリシア語表記〕としての私の詩的信条の披瀝であるとともに、私の信仰告白でもある、と言うことができよう。(本書、二四八〜二四九ページ)

高橋には「神話の森を逍遙しながら、球体幻想の始源へと遡行する詩的エッセイ」の《球体の神話学》(河出書房新社、1991年6月10日)がある。同書は、パチンコ(この、球体遊戯!)を愛した「吉岡実に」献じられていて、私たちはここで再び高橋―球体―吉岡の三角形にまみえる。


吉岡実の装丁作品(71)(2009年8月31日)

高橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)は著者初の詩論集。〈跋〉に「題名の「詩人の血」は、ジャン・コクトオの著名な映画との直接の関係はない。詩作という行為はかならず詩人みずからの血を以ておこなう祭儀でなければならないとの、私の詩作観に拠ったまでだ」(本書、二五五ページ)とある。「自からの詩作観を通して、ギリシャ悲劇、『古事記』など古典古代詩に触れながら、詩の発生の源泉を探り、ポエジーの深淵に推論の錘を放つ待望の詩論集」(帯文)からまず引くなら、断章形式の〈詩人の血――または修辞について〉である(のちの〈知られざる poesie をめぐって――アナロジーによる詩学序説〉の論旨がアフォリズムに凝結したひりつくまでの苛烈さは、いっそのこと心地好い)。その断章「聖言の肉化の過程における詩人の血とは、修辞にほかならない」(本書、二七ページ)は、本篇の標題と同時に書名のスルスとなった。ところで、

〔……〕サントリーニの文明がひとり独立してあったのではないことは、クレーテー島〔初出:クレタ島〕クノーソスのいわゆるミーノース王宮の壁画と比較すれば、明白である。先に挙げた石膏卓の海豚図はそれとまったく同じ主題をミーノース王宮王妃の間の壁画に見るし、群猿図の猿も花泪夫藍[クロツカス]採集者[あつめ]として登場する。(〈彼方なるアトランティス〉、本書、二〇八ページ。下線は小林)

の初出は《藝術新潮》1973年4月号だから、同年7月発表の〈サフラン摘み〉(G・1)になんらかの影響を与えたとも考えられよう。本書は各部とも3篇から成るM部構成で、標題には詩観が窺える。
  J 知られざる poesie をめぐって/詩人の血/バルタザール
  K オイディプース/詩人王について/花・鳥・風・月
  L 死の絵/世阿弥妄想/貴種流離をめぐって
  M 彼方なるアトランティス/聖痕としての表現/裸像の思想
本書の仕様は、一八九×一二八ミリメートル・二六二ページ・上製クロス装・函。目次の裏に「装幀 吉 岡 実」とある。本扉の線画は古代遺跡の平面図のようで、日頃の吉岡実装丁のカットとは趣が違う。表紙はブルーグレーの布クロスに書名・著者名を銀色で箔押ししてあり、その採りあわせは宮川淳《引用の織物》(1975)や《サフラン摘み》(1976)を想わせる。機械函の赤の絵柄はギリシア彫刻写しの版画をあしらった郵便物だろうか、消印らしきものがうっすらと見える。

高橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)の本扉と函
高橋睦郎《詩人の血》(小沢書店、1977年8月20日)の本扉と函

冒頭に引いた〈跋〉は「「詩人の血」、副題を「詩をめぐって」という。つづいて、「球体の息子たち〔ママ〕…肉をめぐって」、「聖という場…旅をめぐって」を、同じく小沢書店から上梓の予定である。いずれもここ十数年の試論であり、とりまとめて、創作をのぞくほぼ私のすべてと言うことができる。通読いただければ、うれしい」(本書、二五五ページ)と結ばれている。われわれもこの順番で、すなわち本書《詩人の血――詩をめぐって》(1977)、《球体の息子――肉をめぐって》(1978)、《聖という場――旅をめぐって》(同)の順で、吉岡実装丁の三部作を見てゆきたいと思う。


吉岡実の装丁作品(70)(2009年7月31日〔2009年9月30日追記〕)

片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の装丁については、田中栞の連載《書肆ユリイカの本》の第15回が意を尽くしているので、引用する。「双書でありながら、共通するのは判型だけでジャケットデザインがすべて異なるのが「今日の詩人双書」と「海外の詩人双書」である。/ジャケットをデザインした人の名が記されている場合と記されていない場合とがあるが、わかる範囲内で言うと、『安東次男詩集』(1957年)は村上美彦デザイン、『吉本隆明詩集』(1958年)の写真は毛利ユリ撮影、『吉岡實詩集』(1959年)は浜田伊津子デザイン、『飯島耕一詩集』(1960年)は伊達得夫によるコラージュ、『キャスリン・レイン詩集』(1960年)は吉岡實デザインである。/ここに掲げたものはすべて同じ判型であり、ジャケットはいわゆるフランス装風になっている。/フランス装「風」と言ったのは、通常のフランス装であれば折り込んだ紙を表紙として書物の本体の背の部分に糊付けしてしまうところを、この双書では糊付けせず、裁ち切りの表紙に被せてジャケットの形で装着してあるからである。こうしておけば、返品されて戻ってきた本に、ジャケットだけをつけ替えて再出荷することが可能だ」(〈全集と双書のデザイン〉、2005年11月5日)。

片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケット 片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケットの袖を開いたところ
片瀬博子訳《キャスリン・レイン詩集〔海外の詩人双書8〕》(書肆ユリイカ、1960年11月20日)の表紙/ジャケット(左)と同・表紙/ジャケットの袖を開いたところ(右)

本書の仕様は、一六六×一四七ミリメートル・一二〇ページ・並製フランス装(2000年7月、葦書房が制作した復刻版が福岡で刊行されているが、未見)。厳密に言うと、《キャスリン・レイン詩集》の表紙/ジャケット(表2)の袖部に記されたクレジットは「表紙 吉岡 実」(縦書き)である。〔今日の詩人双書〕と〔海外の詩人双書〕の扉から奥付までの割付(デザインというよりも、古風に「割付」と呼びたい)は書肆ユリイカの社主・伊達得夫の創意だろうから、クレジットにある「表紙」は「表紙構成」または田中氏の言うように「表紙デザイン」を意味するに違いない。ヴィジュアルは、この上半身裸のポニーテールの後ろ姿の女性(著者レインの肖像ではないだろう)を吉岡がものしたとは思えない。それにしても、これは絵なのだろうか、写真なのだろうか――そして、それは誰の(モデルにしろ、作者にしろ)。タイポグラフィ面では、「KATHLEEN」の「A」と「T」の間をもう少し詰めたいところだ。ときに、〔海外の詩人双書〕には書籍制作での重大なミスがあるので、説明の都合上、本書の奥付裏広告からラインナップを転記する(捨て仮名使用、行末の〔 〕内は初版発行年月日)。

海外の詩人双書

1 プレヴェール詩集/小笠原豊樹訳〔書誌には1959年とあるが、未見〕
2 アンリ・ミショオ詩集/小海永二訳〔1958年1月15日〕
3 ルネ・シャール詩集/窪田般弥訳〔1958年8月10日〕
4 カミングズ詩集/藤富保男訳〔1958年8月10日〕
5 ゴットフリート・ベン詩集/深田甫訳〔1959年3月31日〕
6 ラングストン・ヒューズ詩集/木島始訳〔1959年11月30日〕
7 キャスリン・レイン詩集/片瀬博子訳〔1960年11月20日〕
8 ディラン・トマス詩集/松浦直〔己→巳〕訳〔1960年8月30日〕

訳者名の誤植が放置されていることからわかるように、この広告はつくりっぱなしだったようだ。実際に刊行されたときの双書の番号は、ルネ・シャールが4、カミングズが3、と換えられていて、本書キャスリン・レインは8で(表紙/ジャケット、扉、奥付の3箇所ともすべて8)、7はなぜか欠番である。ここから想像されるのは、刊行の順番に合わせて当初のラインナップのシリーズ番号を付けかえていく際、なんらかの手違いが生じたのではないかということである。ルネ・シャールとカミングズのときは遺漏がなかったのに、キャスリン・レインとディラン・トマス(刊行が早いので、本来なら7)の今回こうしたミスが生じたのは、伊達得夫の健康に問題があったためだろうか(伊達は翌1961年1月16日に病歿している)。刊行の順番が前後しているにもかかわらず、《〔ジャック・〕プレヴェール詩集》は1で不動だったことを考えれば――本双書に先立つ1956年2月10日、小笠原豊樹訳《ジャック・プレヴェール詩集》が同社から単行本で出ており、プレヴェールの訳詩集に対する刊行者の強い想いがうかがえる――《キャスリン・レイン詩集》も、当初の番号どおり、7のままでとくに不都合はなかっただろうに。
著者のキャスリン・レイン(1908-2003)はイギリスの女流詩人。ウィリアム・ブレイクやW・B・イェイツの研究者としても知られる。本訳詩集所収の詩集《巫女》から、タイトルポエムを引く。

巫女|キャスリン・レイン(片瀬博子訳)

―ジヨン・ヘイワードに―

私は かの蛇につきまとった洞穴
私の臍は男の宿命をつくり出す
あらゆる智恵は大地の穴から流れ出る
神々は私の闇の中で形をなし
また解体する。

私の盲いた子宮からすべての王国はあらわれ
私の墓から七人の眠るものが予言する。
まだ生れない嬰児はことごとく
目をさましては 私の夢となり
私の中についに埋葬されて
横たわらない愛人はない。

私はかの恐れられ 慕われた燃える場所
男と不死鳥が焼き尽くされる所、
そして私の低い涜されたベッドから
新しい息子 新しい太陽
新しい空が誕生する。

吉岡の詩篇で言えば、同題の〈巫女――あるいは省察〉(D・14)よりも〈死児〉(C・19)を髣髴させる作品である。むろん、レインの「巫女」は「死児」ではなく、その「母」の方だが。「しきつめられた喪服の世界に/ピラミッドの頂点がわずかに見える/これほど集ってはじめて/全部の母親のさかまく髪のなかに/あたらしい空が起り/実数の星座が染められる」(〈死児〉Q節の末尾)。

〔付記〕
本書の奥付裏広告の左半分は〔今日の詩人双書〕で、最終行は未刊に終わった「8 三好豊一郎詩集/解説 田村隆一」である。大岡信によれば「7 大岡信詩集/解説 寺田透」(1960年12月20日刊)は、書肆ユリイカが出版した最後の書籍となった(伊達得夫《詩人たち――ユリイカ抄》の〈解説〉参照)。もっとも、奥付に記載された発行日では、山本道子詩集《籠》(1961年〔月日の記載なし〕)の方が大岡信詩集よりもあとに刊行されたことになっている。

〔2009年9月30日追記〕
田中栞《書肆ユリイカの本》(青土社、2009年9月15日)の〈書肆ユリイカの本を調べる〉に〔海外の詩人双書〕の番号に関する見解が記されている。

 シリーズ開始当初予定していた『スペンダー詩集』は原稿が完成せず、4として進めていた『カミングズ詩集』を繰り上げて3とし、5として企画した『ブレヒト詩集』も結局刊行ならず、『ゴットフリート・ベン詩集』『ラングストン・ヒューズ詩集』を刊行した。その後、『キャスリン・レイン詩集』を7、『ディラン・トマス詩集』を8として同時進行で制作していたが、『ディラン・トマス詩集』の組版が完成したのに『キャスリン・レイン詩集』の原稿が遅延、しかたなく刊行順序を入れ替えたことがわかる。『ディラン・トマス詩集』が、最終的な広告だけでなく本扉と奥付にも「8」と記されているのはそのためである。かろうじて後から作るジャケットだけは「7」と印刷して世に出した。/以上のような経緯を推察することができる。(同書、二〇三〜二〇四ページ)

田中氏は膨大なユリイカ本を渉猟した挙句、私は《キャスリン・レイン詩集》の奥付裏広告と〔海外の詩人双書〕の各冊を手掛かりにして、ほぼ同様の結論に達したのだった。なお《プレヴェール詩集〔海外の詩人双書1〕》の刊行日は、氏の〈書肆ユリイカ出版総目録〉に拠れば1958年1月10日である(同前、後付八ページ参照)。


吉岡実の装丁作品(69)(2009年6月30日)

三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)は、三好の十三回忌に合せた句集《柿の花》(同、1976年6月30日)の前年に、三好最後の単行詩集として刊行された。もっとも詩集としての《百たびののち》の初出は《定本三好達治全詩集〔限定版〕》(同、1962年3月30日)だから、吉岡実にとって西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979)の装丁のときと同じ事態がここでも起きたわけだ。本書から一篇を選ぶなら、〈牛島古藤歌〉である(「/」は改行箇所)。

葛飾の野の臥龍梅/龍うせて もも すもも/あんずも青き実となりぬ/何をうしじま千とせ藤/         はんなりはんなり

ゆく春のながき花ふさ/花のいろ揺れもうごかず/古利根[ふるとね]の水になく鳥/行々子啼きやまずけり

メートルまりの花の丈/匂ひかがよふ遅き日の/つもりて遠き昔さへ/何をうしじま千とせ藤/         はんなりはんなり

吉岡実の随想〈藤と菖蒲〉(初出は《現代詩手帖》1981年5月号)にこうある。「十年ほど前から、私と妻は毎年のように、牛島の藤を見に行った。しかしここ数年、あのみごとな藤波の下に立ってはいない。年々歳々、藤房が短かくなるとのことだから、そろそろ見納めにこの五月には行きたいものだと思っている。/出不精な私たちがはるばると、牛島まで藤を見に行くようになったのは、風流心からではない。たまたま妻の親しい友だちが、春日部市一の割という所に住んでいたからだった。藤の見ごろは、ほんの数日で、早すぎれば花房が短かく、遅れれば黒い房しか見られないのだ。いつも季節が来ると、その友だちは、小学生の娘を自転車で偵察にやる。閉ざされた庭園の塀越しに、藤の咲き具合を覗き見してくるのだ。なぜなら、庭園側は一切花の情報を示さず、高い料金をとり、夥しく来る客を入れるだけだからだった。それも仕方ないかもしれない、なにしろ肥料や手入れなど管理が大変らしいからだ」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九〇〜二九一ページ)。吉岡がこの随想で〈牛島古藤歌〉に言及しなかったのは、冒頭に永田耕衣の名吟「藤房の途中がピクと動きたり」を引いたためだろう。
本書の仕様は、二〇八×一六〇ミリメートル・一九六ページ・上製継ぎ表紙(平:黄のクロスは直前に装丁した《萩原朔太郎全集》を意識したものか。平のくぼみ部分と背:黒のクロス)・布貼函。限定六八〇部記番。刊行当時、吉岡は筑摩書房に在籍していたが、貼り奥付には「装幀 吉岡 實」とある。装丁で目を惹くのは、書名・著者名の教科書体の活字である。吉岡はタイトルまわりに好んで特太明朝を使用したから、本書の書体は肩の力の抜けたような、涼やかな感じがする。吉岡が晩年の三好の詩に観たのも、抒情詩における規範的ななにものかだったかもしれない。

三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)の函と表紙
三好達治詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975年7月30日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(68)(2009年5月31日)

石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)は〈歌仙〉と〈歌仙の世界〉の2部から成る。石川淳・丸谷才一・大岡信〈初霞の巻〉、石川・丸谷・杉本秀太郎・大岡〈紅葉の巻〉、石川・丸谷・大岡〈夕紅葉の巻〉、丸谷・大岡〈日永の巻〉の四つの歌仙が前半の本文で、歌仙をテキストに連中が縦横に語ったのが後半の註釈である。歌仙の一部分を引いても連句の様子はわかりづらいので、〈歌仙の世界〉から引用する。
「〔……〕俳句というのは、虚子の俳句なんかそうだけれど、変にインヒューマンな感じがあるでしょう、一切を笑い飛ばして無関心で、人間としてたちの悪いような感じ」(丸谷才一、本書、七七ページ)は、丸谷が〈菊なます〉で永田耕衣の句を「〔……〕歌仙の発句になるくらゐ堂々としてゐると言ひたいが、しかし実はさうではない。たしかに威風あたりを払ふ強い句だが、不吉な気配が濛々とたちこめてゐて、その点で発句には向かない」(《遊び時間2》、大和書房、1980、六四ページ)と評したのを思わせる。それはまた、大岡信の「〔……〕現代俳句をいろいろ考えてみて、そのうちある句を発句として連句を始めてみようと思う。そうすると、付けにくい句が多いような気がするんですね」(本書、一四九ページ)に通じる現代俳句観である。
歌仙の一部ではない、まとまった本文を見るのには次の箇所が最適だ。〈夕紅葉の巻〉を「石に坐すればてふてふの舞ふ」(夷齋)という祝言の挙句で終えたあと、三人が酒を飲んでいるところへ初物の、ただし中国産の松茸が出た。丸谷が戯れに発句をつくると、大岡がそれに付け、最後に石川が付けて(詞書きも石川の筆になる)、三つ物ができた。すなわち、

 座に唐山の松茸を献ずるものあり
松 茸 の 起 承 転 結 夜 光 杯
玩亭
 白 き ワ イ ン は こ と に 爽 か
天 高 く ひ と り 沙 場 に 酔 ひ 伏 し て 夷齋

一八七ページのこれが、本書最後の総奏[トゥッティ]である。続く会は、1987年の11月に〈夕紅葉の巻〉と同じ三吟で歌仙を巻くはずだった。それが石川淳の死去にともない、はからずも丸谷才一と大岡信の二人による夷齋供養脇起歌仙〈日永の巻〉(1988年3月)となったためだ。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・二四二ページ・上製紙装・ジャケット。奥付に「装丁者 吉 岡 実」とある。対向ページに「表紙カバー〔ジャケットのこと〕/大岡信筆「紅葉の巻」歌仙控帳より」とあるとおり、歌仙の初表(6句)をジャケットの表4つまり裏表紙に、同裏(12句)を同じく表1つまり表表紙から袖にかけて、計18句あしらっている。確かに、右から左へ流れる図像を右開き(縦組み)の本のジャケットにどう配置するかは悩ましい問題だ。吉岡はジャケットを広げたときそのままつながるようにレイアウトし、これを切りぬけている(通常は、帯でほぼ隠れている)。

石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)の本扉とジャケット
石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信《浅酌歌仙》(集英社、1988年7月10日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(67)(2009年4月30日)

秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)は標題作を巻頭に、全8篇の評論を収める。〔 〕内に初出記録を付して、本書の見出しを掲げる。

花と風――日本の永遠について 〔《春秋》1970年10月号〜1971年10月号に12回連載〕
  *
谷崎潤一郎論 〔書きおろし〕
川端康成――廃器の美 〔《日本読書新聞》1972年5月1日号〕
西行・俊成・定家 〔責任編集・中田勇次郎《書道芸術 第16巻〔西行 藤原俊成 藤原定家〕》、中央公論社、1972年6月25日、〈月報19〉〕
  *
消えたかタケル 〔《芸術生活》1969年11月号〕
蘭亭を愛しむ 〔《同志社時報》1969年12月号〕
源氏物語のほほ笑み 〔《春秋》1970年5月号〕
怨念論 〔《婦人公論》1970年9月号〕
 跋

〈谷崎潤一郎論〉の一節に「物狂いは呪術的な構造から解放されて或る特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へ自ら嵌って行こうとする一種の美的能力となって来た。一つの行為を、ことさら繰り返してみせる、それは生命というものの意味とかたちを露わにしてみせるたしかに一種の神憑りであり自己呪縛であった。即ち物狂いとは早くから絵空事の佳さを構えて見せることなのであった」(本書、一五二ページ)とある。「物狂い」から説きおこして「絵空事の佳さを構えて見せること」にいたる点に、この小説を書く唐木順三≠フ心髄を見る想いがする。
本書の仕様は、一八七×一三〇ミリメートル・二五〇ページ・上製布装・機械函(平のスミ文字と天地の萌黄、小口の柿の色帯の取りあわせは、定式幕を想わせる)。装丁者のクレジットはないが、秦迪子作製〈単行本書誌〉(秦恒平《四度の瀧》、珠心書肆、1985年1月1日)にはこうある。
「(9)花と風  評論集 昭和四十七年九月二十五日 筑摩書房 四六判二百四十三頁 上製布装 紙函入 装幀・吉岡実 定価八百八十円 収録(〔……〕)」(同書、一八七〜一八八ページ)。
〈湖(うみ)の本〉のエッセイシリーズの第2巻はこの単行本とは別編集の《花と風・隠国(こもりく)・翳の庭》(1990年3月5日)で、webサイト《作家 秦 恒平の文学と生活》の〈湖の本の事〉に「花と風との二文字を縦横に読み込みながら、平安古代から中世への流れを文化の素質に即して批評的に解いて行く。文芸としての批評、作家の批評を意識して磨いてきた著者の代表的な文章。雑誌「春秋」に二年連載。「隠国」は以後の民俗学的な創作の姿勢を先取りした初期の批評。「婦人公論」に初出。「翳の庭」は毎日新聞社の豪華本『坪庭』を飾ったエッセイ」と紹介されている。

秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)の本扉と函
秦恒平評論集《花と風》(筑摩書房、1972年9月25日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(66)(2009年3月31日)

天澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)は《紙の鏡》(洛神書房、1968)、《作品行為論を求めて》(田畑書店、1970)に続く3冊めの論集。なおこれらに先立って《宮沢賢治の彼方に》(思潮社、1968)が刊行されている。《夢魔の構造》はL部から成り、Jは一橋新聞編集部によるインタヴュー〈作品行為論とはなにか〉を冒頭に、〈母≠フ主題、あるいは文学のはじまり〉ほか11篇の論考、Kはジュリアン・グラック《森のバルコニー》ほか11篇の書評と若松孝二《犯された白衣》ほか4篇の映画評、Lは〈『聖杯の物語』における《質問》の問題〉を収める。Jの最後は〈詩壇時評――'70〜'72〉だが、その〈71・11・4〉に吉岡実への言及がある。

 吉岡実の沈黙のおもてに、二すじの流れをいま私たちは目にしている。ひとつは、くりかえし刊行されくりかえし私たちが読みかえすことのできる彼の作品群である。こんどまた、彼が戦前、二十代のとき出した第一詩集『液体』が、湯川書房から叢書溶ける魚≠フ第二冊として復刻された。一九四一年十二月に百部だけ刷られたこの原本からは一九五九年のユリイカ版『吉岡実詩集』に十二編だけ収録され、それ以外は私たちの目から匿されてきたが、今度は初版本の通り、三十二編全部が復元されている。現在の著者がかえりみて《稚拙》とよぶこれらの初期詩篇の、いかにもひそやかな、ひえびえとした、上も下も右も左も液状の意識にひたされて魚のように呼吸している言葉のむれは、いずれさまざまな擬態や変身やを経て、『静物』から『僧侶』の世界へと泳ぎ出ていくのであるが、このじつに印象的なひそやかさ、うすら寒さは、ポエジーというものの何よりもプライベートな誕生そのものの感触である。(本書、二一一ページ)

ちなみにこの文の初出の新聞記事(《東京新聞〔夕刊〕》1971年11月4日)は、吉岡(あるいは陽子夫人)の手によって吉岡家蔵のSCRAP BOOK(品番:コレクト S-101)に貼られている。当時、吉岡は詩作を休筆中で、天澤はこの引用の前で「吉岡実がちかごろ詩をほとんど書かないのは、何よりもまず、吉岡実のプライベートな理由によるのであり、時代、社会状況、現実との格闘のいっさいは、このプライベートな水面に抜きさしならぬ関係の内実を浮上させた限りにおいて重要なのである」(同前、二一〇〜二一一ページ)と指摘している。吉岡は勤務先の筑摩書房で出版広告を担当していて、一般紙や文芸雑誌には日常的・業務的に接していたはずだから、この時評も半ば出版人として、半ば詩人として目にしたものだろう。その文を収めた天澤の著書が他社から出るにあたって吉岡が装丁を受けもつというめぐりあわせは、考えてみれば不思議なことである。
本書の仕様は、一八七×一二六ミリメートル・三三〇ページ・上製紙装・ジャケット。奥付に「装幀者 吉岡實」とある。ジャケット・本扉の巻貝のイラストは、たとえば落合茂のタッチに比べると少しく素人じみていて、影の処理など当時の劇画の影響下にあるようだ(作者名の記載はない)。

天澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)の本扉とジャケット
天澤退二郎《夢魔の構造――作品行為論の展開》(田畑書店、1972年10月25日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(65)(2009年2月28日)

高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)には「一九五八――一九六一」という、おそらくは詩篇の制作期間の年号表示があって、吉岡実の詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の「1959-62」のそれとほぼ重なる。高橋は書名に関して、巻末の〈記〉で「書名ははじめ、作品中の一篇の名をとつて「ノドにて」としたかつたのだが、あるいは意味が伝はらないこともあるかと思ひ、最終的に「さすらひといふ名の地にて」とした」(本書、八六〜八七ページ)と書いている。本詩集は〈CHRISTPHER〉〈詩人の愛〉〈小さな詩〉〈旅人〉〈夜〉〈朝〉〈憧れ〉〈少年に〉〈兄弟〉〈カイン〉〈磔刑の季節〉〈凋落〉〈栄光〉〈イシス〉〈ノドにて〉〈椅子〉〈棺から〉〈棺から〉〈六〇年冬〉の19篇から成る。〈小さな詩〉を追い込みで引く。なお、詩篇の表記は正字・旧仮名遣いである。

足を洗つてよごれた洗ひ桶//貧者のためにパンを裂く手//木のテーブルのうへの水を入れたコップ//あかり//窓の外の石梨の木//また 石のやうに固い実のなる桃の木//道のうへ すでにおりてきた闇の中で//抱きあふ客と主人[あるじ]

各詩句はイメージのスナップショットではない。「存在」に奉仕するための名詞止めが、1行空きと相俟って見事だ。もっとも、作者自身によるこの詩集の評価は必ずしも高くない。
「書けないという地獄なら書かなければ徹底している。しかし、私はその地獄の十五年間に『頌』『暦の王』『動詞J』『動詞K』の四詩集、ついでに習作時代の拾遺詩集『さすらひといふ名の地にて』まで出している。そのことによって地獄のやりきれなさはかえって深まった。この五詩集を挟んで、その両側の『汚れたる者はさらに汚れたることをなせ』と『王国の構造』まで、できれば自分の履歴から永久追放してしまいたい。けれども、それができないのが履歴というものらしい。/この地獄の時代の僅かな慰めは吉岡実さんとの親密な付き合いだったろう。松見坂のお宅をしばしば襲ったし、勤め先の筑摩書房もしげしげ訪ねた」(〈遠望の人〉、《続続・天沢退二郎詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1993年10月10日、一五六ページ)。
この天沢退二郎論の一節は、《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》と吉岡実との関係を間接的に語っているものではなかろうか。
本書の仕様は、二二四×一七三ミリメートル・九〇ページ・並製フランス装。初版一刷800部。書肆山田からの拾遺詩集でフランス装・初刷800部、というのは《ポール・クレーの食卓》(1980)と同じ、また本書の左右一七三ミリメートルというサイズは《薬玉》(書肆山田、1983)と同じである(天地は《薬玉》が長い)。これらはまったくの偶然のようにも、意図したもののようにも思える。
装画の小泉孝司は、吉岡実装丁作品では本書だけだろう。氏の公式サイト《小泉孝司架空画廊》には1979年の項に「個展「水や空」 東京 青山 ギャルリーワタリ」とあるから、本書の表紙画はその一点か。小泉氏は絵本《手のひらのねこ》(文・舟崎靖子、偕成社、1983)でも、光と影の織りなす繊細玄妙な幻想世界をモノクロームで描きだしている。本書表紙の水面もそうだが、絵本での自然の風物、とりわけ夕映えの雲の姿は、色彩がないだけになおのこと美しい。

高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の表紙 高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の本扉
高橋睦郎詩集《舊詩篇 さすらひといふ名の地にて》(書肆山田、1979年9月25日)の表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(64)(2009年1月31日)

天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)は、吉岡実の《夏の宴》(青土社、1979)や大岡信の《水府 みえないまち》(思潮社、1981)と並んで、継ぎ表紙の詩集における吉岡実装丁の代表作のひとつ。本書の仕様は、二一〇×一四五ミリメートル・一三二ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・布)・機械函に貼題簽(グレーのクラフトボールに黄の色紙という取りあわせは、のちの《ムーンドロップ》と同じ)。見開きの目次裏、扉の対向ページに「装幀 吉岡実」とクレジットがある。本書は表題作の〈乙姫様〉以下、〈マスクとジョッキ〉〈密航者〉〈堀川に沿って〉〈仮面劇の試み〉〈運河に沿って〉〈〈桟橋〉にて〉〈雨の歌〉など、全22篇を収める。吉岡は第11回高見順賞の選考委員のひとりとして、〈感想〉の一節で《乙姫様》に触れている(受賞作は安藤元雄の《水の中の歳月》)。

 私が推したいと思った詩集は、天沢退二郎《乙姫様》、多田智満子《蓮喰いびと》、鈴木志郎康《わたくしの幽霊》そして、安藤元雄《水の中の歳月》の四冊であった。しかし、予選は三冊ということなので、《乙姫様》を外さざるを得なかった。近来天沢君は自己の鉱脈を発見し、すぐれた散文形の詩を書いていると思う。だが《乙姫様》の中には常套化された作品もある。《死者の砦》の〈氷川様まで〉〈昇天峠〉のような詩が二、三篇あればと思った。(《現代詩手帖》1981年2月号、一五三ページ)

《死者の砦》(書肆山田、1977)は《乙姫様》の前の詩集。吉岡の挙げている〈氷川様まで〉が「そこは飯田橋駅の近くとおぼしく、石炭色の高架線も彼方に目でたどることができた」と始まり、「先程の女はまったく女給らしからぬ濃艶な化粧とドレスに着かえてきてしばらく私の傍に逆光を浴びて化物じみたかたちで座していたが、私の食事が進むにつれていよいよ黒々と羊羹のように闇に同化しながらその目と口とはいよいよらんらんと輝き出し、私の食事が終れば次は彼女の食事に私自身が供されるらしいことはいよいよ確実に思われたが、なぜか私は逆にあわてず恐れず、指についたソースをなめながら、徐々に巨大な影となって食堂を内側からおおっていくのだった」と終わるのに対して、《乙姫様》の〈不帰行〉は「Hとは飯田橋のすこし手前でわかれた」と始まり、「しかしうしろを振りむく勇気もないままに、ああさっき戻る前に意味もなく車両を一台移ったのがいけなかったのだな、あんなことさえしなければ今ごろはたとえ洗濯物を入れるのには遅すぎても、あの線路際からびっしりと次々に接しあい通じあう飲食店のどこかのうす暗がりで少くともこの空腹だけはどうにかできたのにと、しかしそれも気遠い思いで考えつづけた」と終わっている。
吉岡の言う「常套化された作品」がどれを指すのかわからないが、確かに〈氷川様まで〉のあとに〈不帰行〉が登場するのでは苦しい。冒頭の〈乙姫様〉は、つげ義春との類縁を感じさせる(天澤には〈つげ義春覚書〉があった)。吉岡は「乙姫様」から龍宮→ドラゴンの存在を抽出して表紙用紙の選定につなげたものだろうか、そこから切りだした図像を函の題簽と本扉に流用している。

天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の函と表紙 天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の本扉
天澤退二郎詩集《乙姫様》(青土社、1980年5月10日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(63)(2008年12月31日)

天澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)は、《《宮澤賢治》論》(同、1976)、《《宮沢賢治》注》(同、1997)とともに、《宮澤賢治》三部作を成す。《論》は、下の写真のように本扉(および背文字)の布置が《鑑》とまったく同じであり、クレジットはないものの吉岡実装丁と断じたい。天澤は《校本 宮澤賢治全集》(筑摩書房、1973〜77)や《新修 宮沢賢治全集》(同、1979〜80)の編者として宮澤賢治の遺した本文の整備に尽くすかたわら、多くの賢治関係の文章を著しており、そのほとんどは《宮澤賢治》三部作にまとめられている。それは、共に全集の編者を務めた入沢康夫の賢治関連の主著が《宮沢賢治――プリオシン海岸からの報告》(筑摩書房、1991)一冊なのと好対照をなす。天澤は本書冒頭の〈峠を登る者〉で「《宮澤賢治》」を次のように定義している。

 数多い〈作品〉の諸段階が築かれたかに見えてはまたきりもなく解体していく営みの背後に、あるいは源に、実在人物賢治でもなく作者賢治でもなく、しかも両者と決して無関係でありえない存在――それはときに話者であり主人公であり、さらには実在人物のごとく[、、、、]であり作者のごとく[、、、、]でもありうる存在、個的存在のごとく[、、、、]でありながら遍在であり、非人称の声の乗物[、、]であるかのごとき存在、それでいてやはり名前[、、]をもつものと見なすにふさわしい存在――これをとりあえず私は《宮澤賢治》とよぶことにしたいのである。(本書、七ページ)

巻末の〈おぼえがき〉には「前著『《宮澤賢治》論』を、これに先立つ『宮澤賢治の彼方へ』(思潮社、一九六八)以後私が書いた賢治関係の文章のほぼすべてを網羅したものとして上梓してから、早くも十年を経過しようとしている。この間、私が諸々の新聞雑誌に発表、あるいは論集等に寄稿した賢治関係の文章のほぼすべてを網羅したのが本書である」(本書、三八七ページ)と見える。本書の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・四〇二ページ・上製布装・貼函。別丁本扉の裏に「装幀 吉岡実」とある。表紙は紺の紬で昔日の随筆集を思わせる。対するに見返し用紙は、晩年の吉岡が好んだと中島かほる氏が証言するシマメで、両両相俟ってシックなことこの上ない。
吉岡は《校本 宮澤賢治全集》を装丁しているにもかかわらず、宮澤賢治についてなにも書きのこしていない。いやただ一篇、随想〈ひるめし〉があった。吉岡はそこで「入沢康夫、天沢退二郎両氏が週二、三日社の〈宮沢賢治全集〉編集室に、仕事に来ている。たまに三人で食事する時は、小川町交叉点近くの今文にゆく。つめこみだが座敷に上って雑談できるのがよい。日変り定食もあるが、ここではあおり定食だ。すき焼みたいなものである。美食家の天沢君の舌も及第点をつけている」(《「死児」という絵》、思潮社、1980、六三ページ)と書いているが、同文が意に満たないという理由から《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)には収めていない。
吉岡が手掛けた天澤退二郎の評論集や詩集の何冊かは、著者による装丁者の「御指名」だったかもしれない。《《宮澤賢治》鑑》は、一連の天澤本最後の吉岡実装丁となった。

天澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)の函・本扉と同《《宮澤賢治》論》(同、1976年11月30日)の本扉
天澤退二郎《《宮澤賢治》鑑》(筑摩書房、1986年9月30日)の函・本扉と同《《宮澤賢治》論》(同、1976年11月30日)の本扉

〔付記〕
天澤退二郎は吉岡実編集の《ちくま》104号(1977年12月)に〈草稿の森を出て――『校本宮澤賢治全集』完結・雑無量感〉を寄せて、全集の完結を自祝している。その最後の段落が前掲〈ひるめし〉(初出は吉岡の方が半年早い)に対応しているので、引く。「さてさて最後に、この七年間、私たちが校本全集の仕事の日に、筑摩の近くで昼食をとった店々は、うなぎの川新にはじまって、洋食ひさご、天ぷら錦、今文(あをり定食美味)、牛丼の吉野家、ランチョン、稀にコックドール、ロシヤ料理サラファン、豚生姜焼元祖のとん鼓等々。食後のコーヒーは、斎藤(最近焼けた)、珈琲ハウス、エスワイル、アマノ、北欧、サン・ミッシェル、等々であった」(同誌、一九ページ)。1980年代半ば、私が《The INTER 技術論文集》(ユー・ピー・ユー)の編集に携わっていたころ、編集部があった神田小川町の立花書房ビルの向いに「洋食ひさご」があった。そこでよくプルプル(薄切り豚焼肉辛子醤油味)定食を食べたものだ。吉岡の随想にも登場する「ひさご」は、今はない。

「ひさご」の二つ折りカード型営業案内(おすすめ料理にプルプルがある)
「ひさご」の二つ折りカード型営業案内(おすすめ料理にプルプルがある)


吉岡実の装丁作品(62)(2008年11月30日)

西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本》全3巻(筑摩書房)は、〈J 詩の原理〉(1967年10月20日)、〈K 詩の技法〉(11月20日)、〈L 詩の鑑賞〉(12月15日)から成る。総勢52人の執筆者を擁して毎月刊行するあたり、経験豊富な編集者の仕事だが、誰が担当なのかわからない。吉岡実は社員として本書を装丁し、詩人として第K巻に400字詰12枚ほどの〈わたしの作詩法?〉を寄せている。吉岡のキャリアで唯一詩論と呼べるものであり、吉岡実詩を読み、考えようとする者にとって逸すべからざる文献である。自身の作詩法を書くことの困難さは、第K巻の〈K わたしの作詩法〉の他の執筆者たち(草野心平・北園克衛・田村隆一・黒田三郎・長谷川龍生・黒田喜夫・関根弘・岩田宏・石垣りん・長田弘)の幾人も表明しているが、〈わたしの作詩法?〉はその否定辞の多さで際立っている。冒頭部の否定辞はこうだ(同文はこのあと詩を書くときの「姿勢」に移っていくのだが、三つめ段落の最初までで下に挙げなかったセンテンスはわずかに二つだ。なお数字と/は論者)。

1 わたしに作詩法といえるものが果してあるだろうか、甚だ疑問だと思っている。いかなる意図と方法をもって詩作を試みたらよいのか、いまだよくわからない。2 それに、わたしは今日に至るまで、自己の詩の発想からその形成に至る過程を、反省し深く検討したり、また自解的なものを書いたこともないのだ。わたしにすら詩篇の細部の変遷――思考、言葉の選択と湧出、いってみれば増殖運動の秘密は解明できない状態である。/3 わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。発端から結末がわかってしまうものをわたしは詩とも創造ともいえないと思っている。/4 だからわたしは手帖を持ち歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図が泛んでもわたしは書き留めたりしない。(二五七〜二五八ページから抜粋)

仔細に見ると、/4の「だから」がしっくりこない。1 自分には確たる作詩法がない。2 作詩のプロセスや自作の解説をする気にもなれない。/3 最初から結末のわかるようなものは詩作とはいえない――これらは納得できる。しかし、それと「手帖を持ち歩かない」ことは直接関係ないはずだが、吉岡は作詩における「白紙状態[タブラ・ラサ]」を常に必要としている。詩を書くことは、「素晴しいと思える詩句なり意図」に頼ることなく、白熱した意識の持続に耐え、その苦行の果てに訪れるもうひとつ別の世界に到ろうとすることであるとき、「わたしはそれらの方向へ一つの矢印を走らせてその詩的作品の最後を飾るだろう」(同書、二五八ページ)という章句が迫ってくる。
全3巻の仕様は、一八五×一一三ミリメートル・二七四+三一八+三一六ページ・上製布装・ジャケット・機械函(表1・背・表4に跨る題簽)。題簽とジャケットにはそれぞれ葦笛を吹くパーンが描かれているが、作者のクレジットはない(古画かなにかをトレースしたものか)。機械函に題簽というのは、印刷だけの函よりも華やかで、貼函にはない洒落た味わいがあって、吉岡は自分の詩集では《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)に採用している。《詩の本》全3巻は、表紙をがんだれの紙装に変えた函なしの「新装版」が1974年10月20日に出ているが、吉岡実装丁かはわからない。

西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 K 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)の函と本扉とジャケット
西脇順三郎・金子光晴監修《詩の本 K 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日)の函と本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(61)(2008年10月31日)

編集委員:中村光夫・氷上英廣、編集・校訂:郡司勝義《中島敦全集〔全3巻〕》(筑摩書房、1976)は中島敦(1909-42)の第3次全集だ。第1次は同じ筑摩の《中島敦全集〔全3巻〕》(1948〜49)、第2次は唯一筑摩書房以外から出た《中島敦全集〔全4巻、補巻1〕》(文治堂書店、1959〜61)、そして刊行当時「決定版」と称したこの第3次全集がきて、第4次がちくま文庫版《中島敦全集〔全3巻〕》(1993)、第5次が《中島敦全集〔全3巻、別巻1〕》(2001〜02)である。これを見ても、中島敦が筑摩書房にとって樋口一葉や太宰治、宮澤賢治と並ぶ重要な書き手であったことがわかる。第1次全集について、和田芳恵は《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970)で「昭和二十三年十月から翌年六月にかけて、「中島敦全集」全三巻を刊行した。これで第三回の毎日出版文化賞を受けた。筑摩書房から刊行されたものの中で、これが最初の受賞作品になった。〔……〕「中島敦全集」の造本に少しも手を抜かなかった筑摩書房の良心ぶりが、今も語り草に残っている」(同書、六〇〜六一ページ)と書いて、内容・造本ともに優れている点を強調した。
《中島敦全集〔第1巻〕》(1976年3月15日)の仕様は一九九×一四八ミリメートル・六八〇ページ・上製・布装・貼函。同書〈月報1〉に「本全集の函・扉に用いた鳥のカットは、第一創作集『光と風と夢』の表紙に描かれたもので、その装幀者は庫田叕氏です」(同、八ページ)とある。筑摩は中島の初の全集だけでなく、その処女出版も手掛けていたのだ。吉岡実装丁の個人全集において、本全集は鳥のカット(その色から、表紙の空押しの鳥が函に抜けでたという印象を与える)で朔太郎全集と、青の表紙素材(色調や材質はかなり異なるが)で賢治全集と通じる。本扉は、初版の斤量では薄かったのか(口絵写真が透けて見える)、増刷本では厚くなり裏抜けしなくなった。
吉岡は中島敦作品に言及していないが、《僧侶》は〈かめれおん日記〉の身体感覚を彷彿させる。

 一月[ひとつき]程前、自分の体内の諸器関の一つ一つに就いて、(身体模型図や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、湿り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。〔……〕此の時は、何といふか、直接に、私といふ個人を形成してゐる・私の胃、私の腸、私の肺(いはゞ、個性をもつた其等の器関)を、はつきりと其の色、潤ひ、触感を以て、その働いてゐる姿のまゝに考へて見た。(灰色のぶよぶよと弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプなど。)それも今迄になく、かなり長い間――殆ど半日――続けた。すると、私といふ人間の肉体を組立ててゐる各部分に注意が行き亘るにつれ、次第に、私といふ人間の所在が判らなくなつて来た。俺は一体何処にある? 之は何も、私が大脳の生理に詳しくないから、又、自意識に就いての考察を知らないから、こんな幼稚な疑問が出て来た訳ではなからう。もつと遥かに肉体的な(全身的な)疑惑なのだ。(本書、八五〜八六ページ〔漢字は新字に改めた〕)

なお、本全集と同じ体裁で《中島敦研究》(筑摩書房、1978年12月25日)が刊行されている。

《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の函〔表〕と表紙 《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の本扉と函〔裏〕
《中島敦全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1976年3月15日)の函〔表〕と表紙(左)と同・本扉と函〔裏〕(右)


吉岡実の装丁作品(60)(2008年9月30日)

《現代日本文學大系〔全97巻〕》(筑摩書房、1968〜73)の装丁について、装丁家の中島かほる氏はインタヴュー〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉でこう証言している。

―― 中島さんと吉岡さんが〔社内の〕装幀で共同作業されたことはありますか。
中島 手となり、足となりでお手伝いさせていただきました。たとえば黄色いクロスを表紙に使った『現代日本文学大系』(全九七巻、一九六八―七三年)などがそうですね。このマークも、吉岡さんが「こんなのどう?」ってお描きになったのですよ。
―― 収録作家名は書き文字、その他の文字は写植ですね。
中島 そうですね。こういう巨大な全集のタイトルは書き文字でしたね。『世界文学全集』(全六九巻、一九六六―七〇年)や『筑摩世界文学大系』(全八九巻、一九七一―九八年)もそうです。百巻くらいの全集は書き文字にするのが、なんとなく決まり事のようになっていたのではないでしょうか。(《ユリイカ》2003年9月号、一四五ページ)

インタヴュー記事の掲載写真キャプションに「『現代日本文学大系』第41巻 筑摩書房、1972年、函」(同誌、一四二ページ)とあるように、ここで言及されているのは《千家元麿・山村暮鳥・福士幸次郎・佐藤惣之助・野口米次郎・堀口大學・吉田一穂・西脇順三郎集》であり、今回写真を載せた《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)のタイトルの書き文字は「現代詩集」である。以下に本全集の各巻タイトルを掲げる。

政治小説・坪内逍遥・二葉亭四迷集/福沢諭吉・中江兆民・徳富蘇峰・三宅雪嶺・岡倉天心・内村鑑三集/尾崎紅葉・広津柳浪・内田魯庵・斎藤緑雨集/幸田露伴集/樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集/北村透谷・山路愛山集/森鴎外集(2巻)/徳冨蘆花・木下尚江集/正岡子規・伊藤左千夫・長塚節集/國木田独歩・田山花袋集/土井晩翠・薄田泣董・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨・河井醉茗・三木露風・日夏耿之介集/島崎藤村集(2巻)/徳田秋声集/正宗白鳥集/夏目漱石集(2巻)/高浜虚子・河東碧梧桐集/柳田國男集/岩野泡鳴・真山青果・上司小剣・近松秋江集/幸徳秋水・堺枯川・田岡嶺雲・大杉栄・荒畑寒村・河上肇集/永井荷風集(2巻)/与謝野寛・与謝野晶子・上田敏・木下杢太郎・吉井勇・小山内薫・長田秀雄・平出修集/北原白秋・石川啄木集/高村光太郎・宮沢賢治集/若山牧水・太田水穂・窪田空穂・前田夕暮・土岐善麿・川田順・飯田蛇笏・水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷集/鈴木三重吉・森田草平・寺田寅彦・内田百閨E中勘助集/谷崎潤一郎集(2巻)/秋田雨雀・小川未明・坪田譲治・田村俊子・武林無想庵集/武者小路実篤集/志賀直哉集/有島武郎集/長与善郎・野上弥生子集/里見ク・久保田万太郎集/斎藤茂吉集/島木赤彦・岡麓・中村憲吉・土屋文明・木下利玄・古泉千樫・會津八一集/魚住折蘆・安倍能成・阿部次郎・和辻哲郎・生田長江・倉田百三・長谷川如是閑・辻潤集/千家元麿・山村暮鳥・福士幸次郎・佐藤惣之助・野口米次郎・堀口大學・吉田一穂・西脇順三郎集/佐藤春夫集/芥川龍之介集/山本有三・菊池寛集/水上瀧太郎・豊島与志雄・久米正雄・小島政二郎・佐佐木茂索集/宇野浩二・広津和郎集/室生犀星・萩原朔太郎集/瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集/葛西善蔵・相馬泰三・宮地嘉六・嘉村礒多・川崎長太郎・木山捷平集/尾崎士郎・石坂洋次郎・芹沢光治良集/横光利一・伊藤整集/川端康成集/大佛次郎・岸田國士・岩田豊雄集/片上伸・平林初之輔・青野季吉・宮本顕治・蔵原惟人集/宮本百合子・小林多喜二集/葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集/中野重治・佐多稲子集/村山知義・久保栄・真船豊・三好十郎集/前田河広一郎・徳永直・伊藤永之介・壺井栄集/小林秀雄集/林房雄・亀井勝一郎・保田與重郎・蓮田善明集/牧野信一・稲垣足穂・十一谷義三郎・犬養健・中河与一・今東光集/梶井基次郎・外村繁・中島敦集/堀辰雄・三好達治集/井伏鱒二・上林暁集/河上徹太郎・山本健吉・吉田健一・江藤淳集/金子光晴・小熊秀雄・北川冬彦・小野十三郎・高橋新吉・萩原恭次郎・山之口貘・伊東静雄・中原中也・立原道造・草野心平・村野四郎集/尾崎一雄・中山義秀集/林芙美子・宇野千代・幸田文集/武田麟太郎・島木健作・織田作之助・檀一雄集/高見順・円地文子集/丹羽文雄・岡本かの子集/阿部知二・丸岡明・田宮虎彦・長谷川四郎集/中島健蔵・河盛好蔵・中野好夫・桑原武夫集/石川達三・火野葦平集/石川淳・安部公房・大江健三郎集/太宰治・坂口安吾集/中村光夫・唐木順三・臼井吉見・竹内好集/本多秋五・平野謙・荒正人・埴谷雄高・小田切秀雄集/椎名麟三・梅崎春生集/野間宏・武田泰淳集/加藤周一・中村真一郎・福永武彦集/森本薫・木下順二・田中千禾夫・飯沢匡集/花田清輝・杉浦明平・開高健・小田実集/大岡昇平・三島由紀夫集/井上靖・永井龍男集/堀田善衛・遠藤周作・井上光晴集/阿川弘之・庄野潤三・曽野綾子・北杜夫集/深沢七郎・三浦朱門・有吉佐和子・水上勉集/島尾敏雄・小島信夫・安岡章太郎・吉行淳之介集/現代名作集(2巻)/現代詩集/現代歌集/現代句集/文芸評論集/現代評論集

《現代詩集》は富永太郎、安西冬衞、逸見猶吉、田中冬二、竹中郁、大手拓次、丸山薫、壺井繁治、北園克衞、谷川俊太郎、竹内勝太郎、飯島耕一、山本太郎、谷川雁、鮎川信夫、田村隆一、大岡信、會田綱雄、吉岡実、清岡卓行、岩田宏、安東次男、天澤退二郎、中村稔、入澤康夫、石垣りん、澁澤孝輔の詩集、篠田一士〈解説〉、千葉宣一編〈年譜〉を収める。篠田は3800字近くを費やして〈島〉(C・3)に触れているが、吉岡はこれを目にしてどんな感慨を持っただろうか。
本書の仕様は、二一八×一四八ミリメートル・四三六ページ・上製クロス装・貼函。中島氏は前掲インタヴューで「表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あまりはっきりした色の見返しは好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのですが、表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり丈夫な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね」(同誌、一四三ページ)、「先ほども申し上げたように、耐久性があり、しっかりとした重さがあるというのが大きいですね。「本ってものは重くなくちゃ」って、吉岡さん、よくおっしゃってました。だいたい書籍の束見本が出来上がると、まず重さを手で量るんですよ。「この重みがいい」って(笑)。そして「飽きがこない、くどくない、何年たっても書棚に置いてうるさくない本がいいんだ」と吉岡さんがおっしゃっていたのは覚えています」(同前、一四五ページ)と語っているが、確かに見返し用紙は薄いクリーム色で、本書の重量は900グラムもある。筑摩書房の文学全集における吉岡実装丁の代表作といえる本全集にもエンブレム(自作のマーク!)が鏤められていて、「吉岡好み」を貫く姿勢は《西脇順三郎全集》などの個人全集を装丁する場合と変わらない。なお表紙の平と背のマークの丸は、実見することのできた初版(1973年4月5日刊)と5刷(1977年5月30日刊)は赤だが、11刷(1981年11月1日刊)は紺で、いかなる意図か不明だが、ある増刷の時点で変更したものと思しい。

《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)の函と本体
《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、5刷:1977年5月30日〔初版:1973年4月5日〕)の函と本体

吉岡実が旧字・新かなの《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)の若干の字句を訂正した《吉岡実詩集》(思潮社、1967)は新字・新かなを採用して、後の《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の底本にもなったが、本全集にはこの思潮社版詩集を底本にした《僧侶》全篇が収められている。《現代詩集》での《僧侶》の本文は《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960)でのそれと異なり、しかるべく校訂してある。ちなみに、底本の思潮社版詩集はひらがなの小字を使用していないが《現代詩集》版は使用している、底本は散文詩型の行頭にくる全角アキを許容しているが本全集版は許容していない、といった組方の基本方針の違いがある。細かいことだが、以下の漢字に異同がある(なお〔吉〕は《吉岡実詩集》、〔現〕は《現代詩集》、〔全〕は《吉岡実全詩集》を表わす)。
 1. 山嶽〔吉〕―山岳〔現〕―山嶽〔全〕(〈固形〉C・11)
 2. 姙婦〔吉〕―妊婦〔現〕―姙婦〔全〕(同前)
 3. 竜巻〔吉〕―龍巻〔現〕―竜巻〔全〕(〈苦力〉C・13)
 4. 埓外〔吉〕―埒外〔現〕―埒外〔全〕(〈喪服〉C・15)
 5. 牡蛎〔吉〕―牡蠣〔現〕―牡蠣〔全〕(〈人質〉C・17、二箇所とも)
 6. 凉しい〔吉〕―涼しい〔現〕―涼しい〔全〕(〈死児〉C・19)
《僧侶》各詩篇の原稿(陽子夫人浄書の入稿原稿)の本文、初出形・初版形・定稿形それぞれの印刷物(およびその校正紙)の本文を比較することは、詩集《僧侶》の生成を解きあかす一助となるに違いない。この《現代詩集》の本文は、定稿形の一変種として重要な文献である。


吉岡実の装丁作品(59)(2008年8月31日)

十代の後半から、毎年夏になると西脇順三郎の詩が読みたくなる。1975年の盛夏に読んだ《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集J》(筑摩書房、1971年3月5日)は、初めて触れた現存詩人の全集だった。その《西脇順三郎全集》は1971年から73年にかけて全10巻で刊行された。内容を略記する。
 〔第1巻〕詩集J(1971年3月5日)
 〔第2巻〕詩集K(1971年5月6日)
 〔第3巻〕訳詩集(1971年7月6日)
 〔第4巻〕詩論J(1971年10月15日)
 〔第5巻〕詩論K(1971年12月20日)
 〔第6巻〕文学論J(1972年2月25日)
 〔第7巻〕文学論K(1972年4月28日) 月報に吉岡実〈断片四章〔のち〈西脇順三郎アラベスク1〉と改題〕〉を掲載
 〔第8巻〕文学論L(1972年6月30日)
 〔第9巻〕文学論M(横組)(1972年8月30日)
 〔第10巻〕文学論N・随筆・未刊詩篇(1973年1月20日)
この10巻本全集の第10巻を編みなおし、第11巻と別巻を増補したのが、1982年6月から翌年7月にかけて刊行された《増補 西脇順三郎全集》である。変更分・増補分の内容を略記する。
 〔第10巻〕文学論N・随筆(1983年3月19日)

 〔第11巻〕詩集・未刊詩篇・拾遺詩篇・雑篇・訳詩ほか(1983年4月25日)
 〔別巻〕西脇順三郎アルバム・主要欧文詩集訳詩・西脇順三郎研究(1983年7月20日)
吉岡実〈西脇順三郎アラベスク〉を収録
1993年末、生誕100年記念出版として《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》の刊行が始まった(私が全巻所有しているのはこの版)。内容見本には造本・体裁として「A5判・上製・クロス装・貼函入・平均656頁・口絵一丁・月報8頁・定価各巻不同」と見え、〈本全集の特色〉にこうある。

 ・増補版では第1回『西脇順三郎全集』以後に集められたさまざまな種類の著作を便宜的に第11巻に収めたが、今回1巻増巻することによって正しい作品別に配列し巻構成をただした。
 ・詩については増補版ではなく、完全校訂した『定本西脇順三郎全詩集』に基づいて収録した。
 ・第3巻に「詩稿ノート」(約80枚)を収め、今まで知られなかった西脇詩の推敲過程の一端を明らかにする。

元版・増補版・定本の各全集には、当然ながら《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)と《定本 西脇順三郎全詩集》(同、1980)の成果が反映されている。これらのなかで吉岡実が装丁を担当したのが元版全集である。その造本・体裁、「A5判上製貼函入・表紙バクラム装・本文9ポ1段組・平均600頁・口絵1丁・月報8頁付」(内容見本)はそのまま定本全集に引きつがれている(本文組も、上で触れたもの以外は基本的に流用のようだ)。この元版全集の内容見本はB5判・中綴じ・12ページ・表紙のみ2色の立派なもので、推薦文――大岡信、村野四郎、瀧口修造、福原麟太郎、鮎川信夫、池田満寿夫(大岡の〈西脇順三郎の世界〉と池田の〈宝石の重み〉だけが定本全集の内容見本に転載されている)――が3ページを占め、以下、伊藤信吉の〈西脇順三郎の故郷〉、全巻内容・西脇順三郎略年譜と(その間に書影や肖像写真などが入る)、個人全集の小冊子型内容見本の典型のような構成になっているが、この小冊子のレイアウトが吉岡実の手になるかは不明だ。ちなみに定本全集の内容見本の仕様は、B5判天地カット・観音折り・8ページ・4色/2色である。

《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜73)と《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》(1993〜94)の内容見本
《西脇順三郎全集〔全10巻〕》(1971〜73)と《定本 西脇順三郎全集〔全12巻・別巻1〕》(1993〜94)の内容見本

《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集J》の仕様は二一〇×一四八ミリメートル・六一二ページ・上製・クロス装・貼函。表紙の赤は、はるかに西脇順三郎詩集《Ambarvalia》(椎の木社、1933)の函・表紙のワインレッドを想起させる。余談ながら、75年前に刊行されたこの一代の名詩集は国立国会図書館で手にすることができるが、束のある本文用紙が劣化していて、ページを繰るはしからほろほろと崩れおちそうだ。本全集のカットは、検印紙の花の絵を含めて、すべて西脇によるものだろう。臼田捷治は〈吉岡実・栃折久美子――出版社のカラーを引きだす力〉で次のように書いている。

 もうひとつ吉岡の装幀を特徴づけるのは、カットやエンブレムの巧みな使い方である。
 明朝活字とカット類を効果的に響き合わせるセンスは、すでに触れたように吉岡が造形感覚にすぐれていたことと、絵画や彫刻に持続的な関心を寄せていたことが大きくあずかっている。
 白眉は『西脇順三郎全集』(全十巻、筑摩書房、七一年)だといってよいだろう。西脇とはいわゆる師弟関係にあったわけではないが、公私ともにつき合いは長く、ふたりは厚い信頼関係で結ばれていたようだ。西脇順三郎全集には西脇自身のペン画が函と表紙に効果的にアレンジされている。それはメダル状の円型のなかに、鳥や横向きの婦人像を描いたもので、本全体のなかでみごとに焦点を結んでいる。西脇と吉岡、それに担当編集者の共同作業の呼吸がぴったりと合った、洗練をきわめた仕上がりだ。この全集は、吉岡らしさと同時に、筑摩書房らしさが十全に発揮されているように思う。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、七二ページ)

臼田さんは、吉岡実装丁の特徴のひとつめとして「〔……〕私が吉岡の「三八〔三段八割の新聞広告〕」に注目するのは、装幀においても遺憾なくその名人芸ぶりが発揮されているからだ。ふたつの名人芸を根幹で支えているものは、ひと口でいえば「三八」の主要素材である金属活字、それも明朝体への偏愛である」(同前、六三ページ)と書いているが、同感だ。
ところで、吉岡が《サフラン摘み》(青土社、1976)や《薬玉》(書肆山田、1983)ではなく、それぞれその次の《夏の宴》(青土社、1979)や《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)の装丁に西脇の装画を起用しているのは、西脇の絵で自身の詩集を賦活するためだったのではないか。これらは「カットやエンブレム」ではなく、詩集を「装」うための「画」だった。

《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集J》(筑摩書房、1971年3月5日)の函・表紙 《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集J》(筑摩書房、1971年3月5日)の本扉・函
《西脇順三郎全集〔第1巻〕詩集J》(筑摩書房、1971年3月5日)の函・表紙(左)と本扉・函(右)


吉岡実の装丁作品(58)(2008年7月31日)

《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)は《古い土地》(梁山泊、1961)以来、久しぶりに吉岡実が装丁した入沢康夫の単行詩集だ(その間の1973年、青土社から全詩集《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1970》が出ている)。本詩集には「吉岡実氏へ」と献辞のある一篇が収録されており、それを踏まえて吉岡実装丁となったものか。函と本扉にある巣の中の鳥の卵のカットは、詩画集《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962)の共著者・落合茂である。
吉岡に「ドアのノブのやわらかい恐怖」という詩句を含む〈滞在〉(E・7)があるが、歴史的仮名遣いを用いるようになった入沢にかかると「やはらかい恐怖」となり、それが吉岡実詩からの引用であることを示すために《 》で括られている。私は吉岡に倣って詩篇の題名を〈 〉で括って表記するから、山括弧[ギュメ]の連続になるのをお許しいただきたいが、〈《やはらかい恐怖》〉全文を引いて〔 〕内に典拠となった吉岡実詩を掲げる(本篇が《ユリイカ》1973年9月号の吉岡実特集に発表されたときのタイトルは〈《やわらかい恐怖》〉で、献辞はなかった)。

《やはらかい恐怖》〔〈滞在〉E・7〕――吉岡実氏へ|入沢康夫

たとへば その一篇にしてからが なほ
《生き方とは関係なく》〔〈春のオーロラ〉E・10〕
しかも そこにあなたそのひとが
《骨をからだ全体に張り出して》〔〈模写〉E・4〕泳いでをり
ことあらためて言ふまでもなく それは
あたなにとつて《のぞむところでなく 拒む術もなく》〔〈下痢〉D・3〕
《永年の経験から》〔〈感傷〉C・18〕つねにあなたを的確に《裏切る》〔同前〕ばかりか
その一篇から 次の一篇へ そしてさらに次へと
《黒い帯の》〔〈死児〉C・19〕非《宗教的なながれ》〔同前〕が繰り出され
幾千の《スイカ》〔〈青い柱はどこにあるか?〉F・6〕がただよひ
その果に燐光を放つ海上都市の夢がわき起こる
これほど恐るべき主体の賭けが文字に則して可能であらうか
そこには いつでも《小さな火事があり
樽と風を入れる場所があ》〔〈サーカス〉I・2〕つて
そのかたちを 強ひて説明するならば
《両側へ紐をたらしつつある
神秘的な靴》〔〈夏から秋まで〉F・2〕
その靴の釘を《形而上的な肛門》〔〈青い柱はどこにあるか?〉F・6〕に打たれて
跳ね上れ! 百の牡馬どもよ

もう一度出典を見てみよう。C・18、C・19、D・3、E・4、E・7、E・10、F・2、F・6、I・2。Eの《静かな家》(思潮社、1967)は入沢が本篇を執筆した時点での吉岡の最新詩集だが、そこからの引用が多いのが目立つ。Fの《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)はまだ一本になっておらず、F・2とF・6はおそらく《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の〈未刊詩篇から〉からの引用で、上記9篇はいずれも同書に収録されている。EとFの5篇で、引用された詩篇の過半数を占めており、近作の吉岡実詩に対する入沢の親炙をみる想いがする。
《「月」そのほかの詩》の仕様は、二二四×一三九ミリメートル・九八ページ・上製継ぎ表紙(平・紙、背・クロス)・貼函で、発行日は偶然だろうが吉岡実58歳の誕生日だ。暗鬱なグレーの用紙(レザック)と大胆かつ細心に選ばれた深紅のクロスが、さまざまな書法からなる19篇――本書の帯には〈詩法の知的構造〉と題して「多様な屈折をもつ知的構造によって〈詩作品〉の深淵を掘りさげ、そのフィールドを周到に探り、独自な詩法の迷路と魅力を展開する著者の4年間〔詩集の扉には「一九七三〜一九七六」とあり、吉岡の《サフラン摘み》の執筆期間(1972〜1976)にほぼ等しい〕にわたる新作19篇」とある――を束ねて、印象的な造本である。クロスの深紅は、胃潰瘍による吐血を想わせないでもない。
作者によれば《「月」そのほかの詩》は「詩作再開後の最初の詩集。表題に《異海洋》という語を含む詩が数篇ありますが、これは当時患った胃潰瘍のもじりです。収録作の制作は、一九七一年から始った宮沢賢治遺稿全面的再調査と新全集刊行の時期に重なっています」(《〔前橋文学館特別企画展 第10回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 入沢康夫展図録〕入沢康夫――入沢康夫のバックグラウンド》、萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館、2003年9月15日、三〇ページ)ということになる。この図録には詩集がカラーのキリヌキ写真で掲載されているが、この書影だと函かジャケットか表紙かわからない。書誌に装丁者名の記載がないのも惜しまれる。〈詩集〉の扉の白黒写真(かなり大きな角版)も、7冊(《季節についての試論》《漂ふ舟》《水辺逆旅歌》《死者たちの群がる風景》《唄》《遐い宴楽》《わが出雲・わが鎮魂》)などといわず全20冊、それもプロポーションがわかるように背表紙を並べて揃えるといった工夫があってもよかっただろう。

入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の函と表紙 入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の本扉
入沢康夫詩集《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977年4月15日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(57)(2008年6月30日)

《岩成達也詩集〔現代詩文庫58〕》(思潮社、1974年10月1日)に「自伝」として書かれた〈補足的な若干のメモ〉の〈5 作品群〉に次のような一節がある(一部、表記を改めた)。

 私の作品群は、私の状況の確認の仕方に応じて、多分、次のように整理することができると思われる。

発端 @ベリト・シェリに関する一章(完結)、Aシュトオ村より(中断)
レオナルド期 Bレオナルドの船に関する断片補足(完結)
後レオナルド期 C燃焼に関する三つの断片(完了)、D徐々に外へほか(完了)、E擬場とその周辺(エッセイ集・完了)
現在 F筋肉等に関する諸断片群(未完)、G僕達にとってチーズとは何か、およびホリデイ・ピクニック(未完)

 このうち、C〈燃焼……〉とD〈徐々に外へ……〉とは作品〈第三の断片〉を軸として2冊で一つの作品群を構成する。(同書、一二九ページ)

岩成達也の上記の作品群を収めた書籍の初刊は以下のとおりである。

 @:《岩成達也詩集》
 A:同上
 B:《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)〔《岩成達也詩集》に全篇収録〕
 C:《燃焼に関する三つの断片》(書肆山田、1971年3月15日)〔同上〕
 D:《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)〔《岩成達也詩集》に抄録〕
 E:《擬場とその周辺》(思潮社、1973年6月1日)
 F:《マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験》(青土社、1977年11月10日)

吉岡実が装丁した《レオナルドの船に関する断片補足》の刊行に関しては、《あもるふ》同人の江原和巳が〈青春への回帰〉で触れている。「彼ほど詩集出版に優柔不断な姿勢をとり続け、周囲をやきもきさせた詩人もすくないのではないか。みずから恃む詩にあれほど自覚をもちながら詩集にまとめる気はないのだった。〔……〕しかし、それはぼくなどのおよばない作品構成の手順についての彼らしい数学的展開の区切りを索る時間だったのだと判ったのはずっと後だった」(同前、一四七〜一四八ページ)。
《レオナルドの船に関する断片補足》は〈半島にて〉から〈法華寺にて〉までの全13篇から成る。これらを題名からだけ分類すると、次のA〜Dの四つになる。
 A:……にて(3篇)
 B:……の想い出(4篇)
 C:……断片(5篇)
 D:……目次(1篇)
巻末の〈補遺〉(要は目次である)に掲げられた題名と年号に、このA〜Dを冠して表示すると

  1. A:〈半島にて〉(1959)
  2. B:〈海の想い出〉(1958, 1955, 1957)
  3. B:〈続海の想い出〉(1958, 1960)
  4. C:〈かわいた魚に関する断片〉(1960)
  5. B:〈樽切れの想い出〉(1961)
  6. C:〈しおれた果物に関する断片〉(1961)
  7. B:〈納屋の想い出〉(1961-62)
  8. D:〈船に関する断片目次〉(1961)
  9. C:〈続鳥に関する断片〉(1965)
  10. C:〈マリアの布に関する断片〉(1963-64)
  11. C:〈マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片〉(1966)
  12. A:〈岩山にて〉(1968)
  13. A:〈法華寺にて〉(1967)

となる。単行詩集では横長の別丁を平行折りした〈船に関する断片目次〉(*)が折と折の間に貼り込まれている。《岩成達也詩集》では8と9とが入れ替わっているから(別丁をやめ、通常の本文組み)、8. C:〈続鳥に関する断片〉、9. D:〈船に関する断片目次〉という並び順が、製本の制約を免れた当初の構想ではあるまいか。〈法華寺にて〉のまえの見開きはノンブルもなにもない完全な白ページだから、13を別格として扱えば、1〜12の「数学的展開の区切り」が見えてくる。
本書は、1955年から68年にかけて執筆された(吉岡にとっては《静物》から《神秘的な時代の詩》の間に相当する)詩篇を収めて、ついに刊行された。江原氏は前掲文でこう書いている。「一九六九年四月、彼の第一詩集『レオナルドの船に関する断片補足』がやっと陽の目をみた。真白いフランス装の66頁の空間性に富んだ簡潔な本だった。入沢康夫、川口澄子、それに吉岡実氏等の尽力だった。五月の下旬、彼が上京し「あもるふ」の仲間はひさしぶりに顔を合せた。銀座のキリンビアホール≠ノ川口が刷り上ったばかりの詩集を包んだ風呂敷を提げて現われ、うすぐらい卓上にそれをひらいたときの一瞬まぶしかったことを忘れない」(同前、一四九ページ)。
本書の仕様は、二一一×一三二ミリメートル・七四ページ・並製フランス装・機械函。本文に貼込み一丁。限定250部(同年刊の「復刻版」250部があるというが、未見)。表紙と函の表4に錨のカットが入っているだけで、表表紙や本扉にヴィジュアル要素は皆無、白地に明朝活字だけの「純粋装本」である(略標題紙裏のノド寄りにひっそりと「装幀 吉岡実」のクレジットがある)。本書の印刷・製本を担当した若葉印刷と岩佐製本は、吉岡の《静かな家》(思潮社、1968)と同じ印刷所・製本所だが、全体の印象としては吉岡の真の出発となった《静物》(私家版、1955)に近く、岩成の処女詩集への吉岡の想いが感じられる(吉岡は《現代詩手帖》1961年2月号の〈アンケート「六一年度に期待する新人」〉に、岩成達也と山本道子の二人を挙げていた)。
《徐々に外へ・ほか》は本書の3年半後に刊行された岩成の第三詩集だが、吉岡実装丁本でお馴染みの落合茂のカットを擁して、その仕様(二一〇×一三二ミリメートル・八〇ページ・並製フランス装・機械函)は本書に酷似する。ただし装丁者のクレジットはなく、吉岡実装丁の本書を踏まえた出版元によるものと思われる。

(*)のちに〈〈船に関する断片目次〉のためのメモ〉(《遊》8号、1975年4月)がFの《マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験》の〈小実験11 あるいは/木製扉への中途半端な接近〉の註として同書に収められた結果、B(本書)とFは、冒頭で触れた〈5 作品群〉の図にあるように、いっそう明確な関係を結んだ。

岩成達也詩集《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)の函と表紙 岩成達也詩集《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)
岩成達也詩集《レオナルドの船に関する断片補足》(思潮社、1969年4月10日)の函と表紙(左)と同《徐々に外へ・ほか》(思潮社、1972年10月20日)の函と表紙(右)


吉岡実の装丁作品(56)(2008年5月31日)

塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953-1956)は吉岡実が装丁した初の全集だと思われる。吉岡の〈和田芳恵追想〉(初出は1978年)にこうある。

 私は昭和二十六年に、筑摩書房に入って、新企画の《小学生全集》を、先輩の一人と担当した。準備期間であり、時間に余裕があったため、図書目録をつくることを命ぜられた。たまたまその出来あがりがよかったので、初の個人全集《一葉全集》の内容見本をつくるように言われた。/私はその時、はじめて和田芳恵なる人と出会ったのだ。いきが合ったせいか、内容見本も当時としては立派なものが出来た。装幀造本まで、私は手がけるようになってしまった。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七五〜一七六ページ)

文中の「初の個人全集」は、おそらくは吉岡が手がけた初の全集の意であって、筑摩書房が一葉の全集で初めて個人全集の出版に乗りだしたわけではない(1948年から翌年にかけて刊行された釘本久春ほか編《中島敦全集〔全3巻〕》がすでにある)。この《一葉全集》以前に刊行された一葉樋口夏子の主な全集には以下のものがある(《現代日本文學大系 第5巻〔樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集〕》、筑摩書房、1972、所収の関良一作製〈著作目録〉による)。

  1. 《一葉全集》(小説20編・随筆1編を所収) 明30・1 博文館
  2. 《校訂 一葉全集》(小説22編・随筆2編を所収、斎藤緑雨校訂) 明30・6 博文館
  3. 《一葉全集》全2巻(前編に日記・文範=《通俗書簡文》、後編に未発表を含む小説25編・随筆6編を所収、馬場孤蝶校訂) 明45・5-6 博文館
  4. 《縮刷 一葉全集》(右の縮刷合冊本) 大11・6 博文館
  5. 《評釈 一葉小説全集》(右の25編を所収、長谷川時雨評釈)〔冨山房百科文庫〕 昭13・8 冨山房
  6. 《樋口一葉全集》全5巻(未発表の小説その他をも所収、久保田万太郎ほか編) 昭16・7-17・1 新世社
  7. 《一葉全集》全7巻(未発表の小説その他をも所収、塩田良平・和田芳恵編) 昭28・8-31・6 筑摩書房

本全集の補強改訂を目的として企画された《樋口一葉全集〔全4巻〕》(筑摩書房、1974-1994)の責任編集者として、和田芳恵は第1巻の〈後記〉に次のように書いている。

筑摩書房版「一葉全集」全七巻〔……〕は、年とともに版を重ね、紙型が摩滅したため絶版のやむなきにいたった。/〔……〕/この「一葉全集」〔《樋口一葉全集》のこと〕は、先行する、どの「一葉全集」とくらべても、研究者向きと思われる。原稿資料は、可能な限り写真に撮り、これを元に原稿用紙へ書きうつして、不分明な点は元原稿について解決した。これは全集の場合、当然な措置だが、これまでの「一葉全集」では部分的におこなわれたに過ぎなかった。(《樋口一葉全集〔第1巻〕》、筑摩書房、1974年3月20日、五六七〜五六八ページ)

はからずも本全集の限界を物語っているが、和田は新版全集の完結を見ずに1977年に逝った。吉岡は〈和田芳恵追想〉で、生き形見として岳父から贈られた一葉の短冊を紹介している。その歌は《一葉全集〔第5巻〕》(1955年1月31日)の〈歌稿補遺〉では「無題 107 訪ばやとおもひしことは空しくてけふのなげきにあはんとやみし」(〈N 樋口家所蔵色紙短冊等の歌〉、同書、三八〇ページ)とシンプルだが、〈和歌L〉を収めた《樋口一葉全集〔第4巻(下)〕》(1994年6月20日)では

    (無題)
33 訪 (ば) やとおもひしことは空しくてけふのな (げ) きにあはんとやミし              夏子
   〕故和田芳恵氏所蔵。時期未詳。後期。短冊。(〈短冊・栞〉、同書、五八九ページ)

というぐあいに、本文が詳しくなっているだけでなく、注記が充実しているのが特徴だ。

塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1954年6月20日)の本扉と函 塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)の函
塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1954年6月20日)の本扉と函(左)と同《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)の函(右)

《一葉全集〔全7巻〕》の仕様は一八〇×一二六ミリメートル・上製・クロス装・貼函。総2724ページ。書名の「一葉全集」は、函の平以外、函の背、表紙の背、本扉とも筆による書き文字だ。書き文字のクレジットはないが、後出・関良一編〈一葉書誌〉に「背文字は空海の「請来目録」による」(〔第7巻〕、1956年6月20日、二六〇ページ)とあり、臙脂の表紙クロスに漆黒の背文字が鮮やかだ。全集の本文は第6巻までが一葉の著作で、第7巻は〈補遺〉(これも一葉の著作だが)と〈研究・資料〉から成る。個人全集最終巻でのこうした試みは、新世社版全集別巻の和田芳恵編《樋口一葉研究》(1947年4月15日)と並んでその先駆と見られるので、以下に〈研究・資料〉の目次を録する。

一葉誕生 和田芳恵
桃水側から見た一葉 塩田良平
一葉小説の文章 藤井公明
一葉小説制作考 関良一
樋口夏子歌集成立考 藤井公明
一葉研究小史 関良一
一葉書誌 関良一編
一葉研究書誌 関良一編
『一葉に与へた手紙』抄 和田芳恵編
一葉年譜 関良一編
日記人件索引 塩田良平編

第7巻巻末の二人の編者による〈一葉全集の末に〉には「最初は、編集長の土井一正氏が、直接、この全集の担当者になり、そののち岡山猛氏が引継いで完了した」(同書、四一〇ページ)という一節があるが、装丁・造本についての記述は見えず、表紙まわりや奥付にもクレジットはない(逆に言えば、そこから社内装丁であることが窺える)。
和田芳恵執筆、吉岡実装丁の《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)を見ると、

 和田は戦争中に出た新世社版「樋口一葉全集」にも関係したが、こんどの「一葉全集」は本文校訂に力を入れたため、予想外の日時がかかり、第一回の配本は翌年の八月になった。最初の計画の六巻の外に「補遺、研究・資料」篇が一冊加わり全七巻になったが、完了するまでに足かけ五年かかった。/〔……〕/古田晁は、その頃、唐木順三といっしょに酒を呑みながら、「終りを立派にしなければ」が口癖になっていた。筑摩書房は、もう、だめだと、古田は内心覚悟していた。/あとになって、土井一正から、「一葉全集」も、古田の考えでは、筑摩書房の終りを飾るつもりの出版であったと和田は聞かされた。/〔……〕/「一葉全集」は筑摩書房が手がけた、日本の作家で最初の本格的な個人全集であった。(同書、一八五〜一九〇ページ)

とあるから、吉岡がこれを踏まえて冒頭の随想を書いたことは充分に考えられる。


吉岡実の装丁作品(55)(2008年4月30日)

岩成達也の《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)は「詩集」とは謳っていないものの、「箱船は再生し得るか。私たちが特定し得た細部はたちまち融溶し、確定不能なものを構築する。箱船を透視しようとする視線は闇のなかを手だてもなく浮遊するだけなのか」(書肆山田のサイトから)という惹句からうかがえるように、詩集と見なすことができる。
本書は〈二つのノート〉というパートの〈〈箱船再生〉のための二つのノート〉と題された作品――同詩篇はさらに〈J 記述〉と〈K 解釈〉とから成り、前者には〈a 箱船の外形〉、〈b 箱船の内部〉、〈c 箱船の外部環境〉、〈d 箱船の外部環境についての補足〉、〈e 箱船以降についての若干の補足〔〈A 聖書の記述(創世記第九章)〉と〈B ルドフスキーの記述(前掲書170-171頁)〉という引用(そのものではないが)から成る〕〉が、後者には1から12までの番号を付された節が含まれる――で始まる(〈……二つのノート〉に続く一篇は〈〈箱船再生〉のための補足的なノート〉)。〈e 箱船以降についての若干の補足〉のルドフスキーの書は〈a 箱船の外形〉の註に登場するバーナード・ルドフスキー(渡辺武信訳)《驚異の工匠たち――知られざる建築の博物誌》(鹿島出版会、1981)で、同書は巻頭詩篇および〈〈箱船再生〉のための第四のノート〉の成立に与って大きいものがある。岩成達也は詩論〈覚書へ〉でこう書いている。「〔……〕私にとっては、あるテクニカル・タームの意味をそのテクニカルな関係の適正な内容範囲内にとどめておくことは、常にすこぶる困難なことだったのである」(《私の詩論大全》、思潮社、1995年6月1日、二六ページ)。それに倣えば、岩成が行なったのはルドフスキーの箱船を「適正な内容範囲」の外に連れ出す行為にほかならない。
本書の仕様は、二一八×一四五ミリメートル・一六八ページ・並製フランス装・函。初版第一刷750部。なお、《〈吉岡実〉の「本」》に掲載する吉岡実装丁作品の写真は、原則として手許の原物を撮りおろしているが、本書は探求を続けているにもかからわず入手できないため、表紙は、区立図書館経由で借覧した都立中央図書館所蔵本を撮影した。隣りの函(機械函か)の写真は、書肆山田のサイトに掲載されている画像である。本書は《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970)と同様の製本様式だが、束は15ミリメートルと適正なため、同書のもっていた難点がさほど気にならない(チリが潰れがちなのは、いかんともしがたい)。表紙カット――入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景》(河出書房新社、1982/1983)や井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983)に通じる絵柄は水鳥だろうか――のクレジットはない。

岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の函〔書肆山田の画像〕 岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の表紙
岩成達也《〈箱船再生〉のためのノート》(書肆山田、1986年3月15日)の函〔書肆山田の画像〕(左)と同・表紙(右)

岩成達也は〈吉岡実の言葉についての私的なメモ〉を「吉岡実さんについて、いま何かを書くのは、ひどく辛いことに思われる。というのも、吉岡さんは――旧い友人達を除けば――私が親しく面識を頂いた殆んど唯一の詩人であったし、それに何よりも、現在私が畏敬する殆んど唯一の詩人だったから」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、二一一ページ)と始めている。《〈箱船再生〉のためのノート》の装丁者は著者の希望で吉岡になったのかもしれないが、〈あとがきにかえて――後の旅よりのノート〉に制作関係の記述はなく、経緯は不明である。


吉岡実の装丁作品(54)(2008年3月31日)

清岡卓行は《鰐》(全10号、書肆ユリイカ〔第10号のみ鰐の会〕、1959年8月〜1962年9月)の同人として、飯島耕一・岩田宏・大岡信・吉岡実と行をともにした。吉岡実装丁の《清岡卓行詩集》(思潮社、1969/1970)は、《鰐》に発表した詩をまとめた《日常〔現代日本詩集4〕》(思潮社、1962、装丁は真鍋博)を含む「個人綜合詩集」、すなわち1969年当時の全詩集である。《鰐》(第9号までの表紙の鰐のカットは真鍋博、第10号は落合茂)に掲載された吉岡実と清岡卓行の詩作品を掲げる。

・1959年〔昭和34年〕
 8月10日〔1号〕 〈下痢〉(D・3)――〈真夜中〉(《日常》所収)
 9月20日〔2号〕 〈紡錘形J〉(D・4)――ロベール・デスノス〈恋愛の花について また移住する馬たちについて〉〔訳詩〕
 10月20日〔3号〕 〈編物する女〉(D・8)――ロベール・デスノス短詩二篇〈イザベルとマリー〉〈ペリカン〉〔訳詩〕
 11月20日〔4号〕 〈首長族の病気〉(D・11)――〈嬰児と恋人〉〔改稿された前半が〈ありふれた奇蹟〉(《日常》所収)に〕
・1960年〔昭和35年〕
 1月10日〔5号〕 吉岡実詩は休載――清岡卓行作品は休載
 2月10日〔6号〕 〈哀歌〉(未刊詩篇・9)――清岡卓行作品は休載
 3月30日〔7号〕 〈紡錘形K〉(D・5)――〈プレヴェール風の酒場―パロディ〉〔改稿して〈そんなことは〉(《日常》所収)に〕
 5月30日〔8号〕 〈水のもりあがり〉(D・13)――清岡卓行作品は休載
 10月30日〔9号〕 吉岡実詩は休載――〈思い出してはいけない〉(《日常》所収)
・1962年〔昭和37年〕
 9月20日〔10号〕 〈劇のためのト書の試み〉(E・1)――〈マヌカンの行進―昨年の手帖の中のメモから〉(〈マヌカンの行進〉として《日常》所収)

本書は巻頭に「美しいものの運命をたどるかのように/若くしてこの世を去った/真知に/きみとの二十一年の生活に咲いた/これらの貧しい花花を」とあるように、1968年に41歳で亡くなった妻の真知に捧げられた。《鰐》前後から《清岡卓行詩集》までの吉岡と清岡の詩業を較べてみると、死の突出から日常への回帰、書肆ユリイカ(伊達得夫は1961年に歿している)から思潮社へのシフト、総括としての全詩集の刊行、といった点で興味深い対照をなしている。

 《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)――《氷った焔》(書肆ユリイカ、1959)
 《紡錘形》(草蝉舎、1962)――《日常》(思潮社、1962)
 《静かな家》(思潮社、1968)――《四季のスケッチ》(晶文社、1966)
 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)――《清岡卓行詩集》(思潮社、1969)

清岡卓行は《鰐》について「この年〔一九五九年〕の八月、新しい同人詩誌「鰐」を吉岡実、飯島耕一、大岡信、岩田宏、そして私の五人で結成した。それぞれの立場や抱負は異るが、なんらかの形で関門としてのシュルレアリスムにかかわるグループであったろう。たびたび集まってしゃべり、飲み、協調と反撥をくりかえし、各住居で順ぐりに宴会をし、みなで小旅行をし、いってみれば仲がよすぎたために、三年ほどで自滅した」(〈私の履歴書〉、随想集《偶然のめぐみ》、日本経済新聞出版社、2007年6月15日、八〇ページ)と書いているが、1960年代こそ清岡卓行と吉岡実が最も接近した季節だった。その掉尾を飾るのが、清岡による〈吉岡実の詩(戦後詩への愛着7)〉(《文学》1968年1月号)であり、吉岡による本書の装丁である。《清岡卓行詩集》は、限定版1000部が1969年11月25日に、普及版1500部が翌1970年1月31日に、特装限定版55部が同1970年12月1日に刊行されており、清岡は〈おぼえがき〉で「末筆ながら、詩人論の再録について吉本隆明氏に、本書のための新しい詩人論について若い俊英である宇佐美斉氏に、装幀について吉岡実氏に深く感謝する」(本書、五三七ページ)と書いている。

空|清岡卓行

わが罪は青 その翼空にかなしむ

本書巻頭の〈初期習作〉の一篇(のち詩集《円き広場》思潮社、1988、に収録)は、ただちに《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の次の一篇を想い起こさせる。

断章|吉岡実

わがこころになやみはてず
あをぞらにくものわく

本書の普及版の仕様は、二〇九×一四八ミリメートル・五四六ページ・並製フランス装・機械函。素材としての用紙の選択は、いつもながら見事だ。やや濃い目のクリーム色の表紙に続いて、古染の見返しと(再び)クリーム色の本扉はおそらく同じ銘柄・斤量の色違いで、本扉は11ミリメートル四方の活字で組まれた書名を黒黒と保持している(上方のアステリスクはアクセントか)。
吉岡実装丁のフランス装にはいくつかのパターンがあるが、これは広げた表紙の角を斜めに截ちおとして、天地とも折り込んだ状態で本体の背と糊づけし、表紙の小口側は角が数センチメートル重なって4枚になるように折ってある(したがって角はかなり丈夫だ)。上製本のきき紙にあたる方の見返しは、小口だけが表紙の袖の下にもぐる恰好だ。チリは約3ミリメートルあるから、900グラムの自重を支えるのに、芯紙の入っていない二重の表紙では弱すぎる。また「角背」だった原形が、繙読するにつれてページ中ほどの小口がせり出してくるのは、フランス装の構造的な難点だ。同時に罫下がたれさがってきて、薄手のボール紙の機械函を留めている針金と接触するのも芳しくない。A5判で500ページを超える本書の場合、定価3000円の限定版(平が紙、背が革の継ぎ表紙の丸背・上製本)に対して、定価1800円の普及版であってもここは上製本が望ましかった。

《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970年1月31日)の本扉と函 《清岡卓行詩集〔特装限定版〕》(思潮社、1970年12月1日)の識語・署名と函
《清岡卓行詩集〔普及版〕》(思潮社、1970年1月31日)の本扉と函(左)と《清岡卓行詩集〔特装限定版〕》(思潮社、1970年12月1日)の識語・署名と函〔浪速書林の画像〕(右)
特装限定版の出典:http://www7a.biglobe.ne.jp/~naniwashorin/photo/430359.jpg?

本書の特装限定版は未見だが、浪速書林が18,900円で出品しているので以下に録する。

清岡卓行詩集 特製限定55部 画像あり/清岡卓行、思潮社、昭45、1冊/特製限定55部 識語・署名入 二重函付 極美 函セロハン巻き、函内部で貼込あり。 ペン書識語5行・署名入。装幀・吉岡実。総革装上製本。布装函入。A5判。

なお清岡卓行には、2007年2月14日に運営を開始した《清岡卓行・公式サイト》があり、本書《清岡卓行詩集》は特装限定版だけ、その〈書誌〉に詳細が記載されている。


吉岡実の装丁作品(53)(2008年2月29日)

西脇順三郎最後の詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)は、《人類〔限定版〕》(筑摩書房、1979年6月20日)の5ヵ月後に刊行された。限定版は本扉の裏に「装幀 吉岡実」と、普及版は奥付に「装幀者 吉岡実」とクレジットがある。《人類》は四部構成で、

J:1970年7月から1972年8月までに発表された23篇
K:《西脇順三郎全集〔第10巻〕》(筑摩書房、1973)のために書きおろされた25篇〔《人類》では〈ドゼウ〉が〈茄〉の後半から分離独立して26篇〕
L:1973年1月から1975年4月までに発表された12篇
M:1975年12月から1978年5月までに発表された5篇

以上の66篇から成っている。西脇の単行詩集としては最大の篇数であり、《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981)収録詩集中最多の行数を擁する。《人類》の〈後記〉は簡潔だ。
「本詩集は、一九七〇年以降一九七八年までの作品を集めたものである。そのうち、JからLまでは、先に筑摩書房より刊行された『西脇順三郎全集』第十巻および『西脇順三郎 詩と詩論O』の「未刊詩篇」に所収のものである。詩集にまとめるに際し、若干の訂正と削除を行なった。Mはそれ以降に発表されたものである」(全文、本書、二九七ページ)。
〈後記〉に署名はないから著者・西脇順三郎によると見るべきだが、挿み込み付録〈詩集人類に寄せて〉掲載の装丁担当者・吉岡実の〈《人類》出現〉と詩集編纂者・新倉俊一の〈初稿と定稿のあいだ〉を読むと、新倉によるようにも思える(新倉文には「さて、この度の詩集『人類』は、その大部分(J〜L)はすでに筑摩版『全集』および『詩と詩論』に「未刊詩篇」として発表されたものだが、詩集にまとめるに際して当然、若干の変更を加えた」とある)。したがって純然たる新規収録詩篇は「M:5篇」となり、それより後に発表された詩篇(すなわち《定本 西脇順三郎全集》所収の〈未刊詩篇〉)は、吉岡が編集していた《ちくま》掲載の〈冬のシャンソン〉など、6篇を数えるのみで、《人類》には西脇順三郎最晩年の詩境が余すところなく収められている。
詩集の成りたちとしては、同じ1979年の11月に刊行された《宝石の眠り》とよく似た経緯をたどっている。いや、実態は逆か。前掲文で吉岡が「西脇先生は〔……〕、《人類》は最後の詩集だよと言われた。私は肯定も否定もしなかった」と書いたのは、元版《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)に収められただけの〈詩集 宝石の眠り〉を一巻の《宝石の眠り》とすることを予期していたためではないか。同詩集は《人類〔普及版〕》に遅れること半月、花曜社(新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》を出した)から、同じく吉岡実装丁で刊行されており、単行詩集の刊行順でいえば、《宝石の眠り》が「西脇最後の詩集」となる。

スカンポ|西脇順三郎

一枚のスカンポの葉が青ざめている
あの夏の夜明けが
人間の種子を
おどかしている

《人類》で最も短い詩のひとつである。この詩句をよく見ると、同詩集の長篇詩〈キササゲ〉(初出は《ユリイカ》1972年4月号で、吉岡の連祷詩〈葉〉も同号に掲載)の4行「〔……〕/一枚のスカンポの葉が青ざめている/あの夏の化身が/人間の種を/おどかしている」に酷似していることがわかる。〈スカンポ〉の初出は全集〔第10巻〕(1973年1月20日)だが、〈キササゲ〉とどちらが先に執筆されたのか詳らかにしない。いずれにしても、西脇詩の生成を考えるうえで興味深い事例である。
一方、吉岡には8行から成る詩篇〈断想〉(初出は《CURIEUX――求龍》4号、1978年11月)

むらさき色に手を染めあげ
「水没して行く 水夫」
もしもそこが秋の霧の海であるならば
へだたった処に大地が在る
葱の香 書物 古靴 塩
記憶の娼婦の美服のなかでうごいている
「牙と爪をもたぬもの」
それら仮りの世の仮の像[かたち]は今も美しく……

を〈秋思賦〉(J・8、初出は《ユリイカ》1982年12月臨時増刊号)に変改吸収した例がある。
《人類〔普及版〕》の仕様は、二〇九×一四三ミリメートル・三〇八ページ・上製角背布装。表紙の魚のスケッチと背文字は金箔押し。限定版は同じく上製角背で、継ぎ表紙(背は《夏の宴》の背と同種の布、平は灰緑色のクロス)、本扉前の別丁にペン書き署名。見返し(帯紙と同銘柄で、表紙との組みあわせが絶妙である)・本扉・本文の用紙は両版ともに同じ。限定版奥付には印刷による「限定 1,200部の内」の下方にナンバリングマシンによる記番、さらに下方に「順」の雅印が捺されている。新倉前掲文には、本扉の図像について「この扉に使われた紋章は、「ヒルガホ」の末尾の詩行にちなんでいる(「ところであなたは紋章学を/やつたことがおありでしようが/あの赤坊をたべようとしている/蛇の紋は何といいましたかね」)。その正式な名は念のため〈Serpent vorant〉である」(〈詩集人類に寄せて〉、四ページ)とある。
吉岡実はその最晩年に「西脇順三郎の最後の詩集は『人間』という題名であったが、後に『人類』と改められて、刊行された。スケールの大きな、素晴しい題名だと思う。/上梓された新句集が、『人生』と名づけられているのを知って、私はふと思った。この詩人へ畏敬の念を持ちつづけた耕衣さんが、ひそかに呼応させているのだと――。『人類』が詩的といえるならば、『人生』はまさしく俳諧的である」(《琴座》445号、1989年2月、五ページ)と〈耕衣句集『人生』十七句撰〉で書いている。西脇順三郎詩集への吉岡最後の言及であろう。

西脇順三郎詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)の本扉と函 西脇順三郎詩集《人類〔限定版〕》(筑摩書房、1979年6月20日)の函
西脇順三郎詩集《人類〔普及版〕》(筑摩書房、1979年11月15日)の本扉と函(左)と《人類〔限定版〕》(筑摩書房、1979年6月20日)の函(右)〔BOOK BIG BOXの画像〕
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吉岡実の装丁作品(52)(2008年1月31日)

新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)の奥付裏広告には西脇順三郎《雑談の夜明け》、松永伍一《水に聴く》とともに、西脇順三郎未刊詩集《宝石の眠り》の予告が載っている。同詩集は11月30日には刊行されているから、《西脇順三郎 変容の伝統》と並行して企画が進行したものと思われる。本書奥付裏広告からその文言を録する。

西脇順三郎/宝石の眠り/未刊詩集
昭和五十四年十月刊行予定/四六判変型・函入り
収録詩篇/コップの黄昏 イタリア イタリア紀行 ローマの休日 写真 くるみの木 椀 きこり 茄子 坂 まさかり 記憶のために すもも エピック 崖の午後 バーの瞑想 雲のふるさと 宝石の眠り

本書に挟みこまれた巻三折りの〈花曜社 出版目録 1980年版〉には、同詩集の説明として「昭和三十八年、詩人七十歳の年に書き下ろした詩篇十七篇〔ママ〕。西脇詩に一貫して流れる諧謔と幽玄の極致を表わす詩集として刊行が待たれた待望の一冊。巻頭には詩人の油彩画「サン・マルコの朝」を。詩人吉岡実装幀による貴重な詩集。 クロス装函入定価二七〇〇円」とある。これらを見ると、本書刊行の時点で西脇詩集の装丁の仕様が「四六判変型・函入り」で決まっていたことがわかる。この1979年は、6月に《鹿門》以来9年ぶりの西脇の詩集《人類〔限定版〕》が再び吉岡実の装丁で古巣の筑摩書房から(《人類〔普及版〕》は11月刊)、10月には西脇が描きおろした絵を函と表紙・裏表紙にあしらった吉岡の新詩集《夏の宴》(著者自装)が青土社から出ており、吉岡実と西脇順三郎の永きにわたる交流史のなかでも、ひときわ濃密な年となっている。

新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)のジャケット 新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)の本扉
新倉俊一《西脇順三郎 変容の伝統》(花曜社、1979年9月25日)と《西脇順三郎 変容の伝統〔増補新版〕》(東峰書房、1994年1月15日)のジャケット(左)と同・本扉(右)

本書の標題《西脇順三郎 変容の伝統》は、〈『アムバルワリア』――パウンド流に〉の次の一節から来ていよう。

またエリオットの師匠でもあるエズラ・パウンド〔……〕自身も「実験の時代にダンテの『神曲』のような作品を書くのは困難である」と言っている。だが、このような古典と実験との緊張関係、不断の引用と変容、つまり書き替え≠トいく努力こそ、文学の伝統という意味であり、創造ということである。//日本の現代詩人のうちで、これを積極的に実践してきたのは、西脇順三郎であろう。(本書、一四四ページ)

本書の仕様は一八八×一二七ミリメートル・三二二ページ・上製紙装・ジャケット。クリーム色の地に青一色で絵柄を刷ったジャケットの袖には「ジョルジョーネ「フェト・シャムペートル」」とクレジットがあり、それに関して著者は次のように記している。

本書のカバーの絵は西脇先生の愛好のジョルジョーネ作「フェト・シャンペエトル」であって、詩の題にも使われている。このことについては末尾の「絵画の世界」でふれた。このような美しい装幀を詩人の吉岡実さんにしていただけたことは、大変うれしい。(〈はじめに――ジョン・コリア訪問記〉、本書、xページ)

〈絵画の世界――メモリとヴィジョン〉には「このジョルジョーネの「田園の奏楽」は、エドゥアール・マネが「草上の昼食」(一八六三年)にそのモチーフを借用したことで有名で、〔……〕この絵についてはピカソもマネー〔ママ〕のカリカチュアを描いたり、他にもパロディのパロディが作られるなど変容の歴史に満ちていて、西脇順三郎がこの絵をパロディの対象としたのは慧眼といえよう」(本書、二八二ページ)とあるが、われわれは吉岡の〈草上の晩餐〉(G・13、初出は1974年4月)を想起しないわけにはいかない。
初刊から15年後、増補新版が東峰書房という別の版元から出ていて(編集担当者は同じ高橋衞氏)、巻末に新稿〈西脇詩の現在――記号と象徴の詩学〉が追加された。増補新版の装丁は、初刊では本扉に掲載した西脇のスケッチ〈ヤヌス〉をジャケットにもってきたため、本扉が文字組みだけになった(横目の用紙のせいで、ノドが波打っているのは感心しない)。なお、増補新版に装丁者のクレジットはない。


吉岡実の装丁作品(51)(2007年12月31日)

学芸史家・森銑三(1895-1985)の《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月20日)は、本邦の怪異談や《太平広記》などの支那種に材を得た40篇から成る小品集。本書を全篇収録した《森銑三著作集 続編》の〈編集後記〉にこうある。

 「物いふ小箱」は、昭和六十三年十一月、筑摩書房より出版された単行本に、雑誌『ももすもも』昭和三十年九月号に発表された「再会」の一篇を新たに附した。単行本はA五判変型(縦二〇五_×横一五五_)。目次四頁、本文二〇一頁、編集後記(小出昌洋)三頁、定価二六〇〇円。装訂吉岡実。なお「猫が物いふ話」〔17篇の題名〕「猫」の諸篇は、先行の単行本『月夜車』〔七丈書院、1943・彌生書房、1984〕に、「碁盤(その一)」〔7篇の題名〕「不思議な絵筆」の諸篇は同じく先行の単行本『随筆集 砧』〔六興出版、1986〕にそれぞれ収められた。(中村幸彦・朝倉治彦・小出昌洋編《森銑三著作集 続編〔第15巻〕》、中央公論社、1995年2月20日、五九八ページ)

著作集を底本にして小出昌洋編《森銑三遺珠K》(研文社、1996)所収の5篇を増補したのが《新編 物いう小箱〔講談社文芸文庫〕》(講談社、2005)で、筑摩版や著作集とは若干排列が変わっている。流布本のための措置とはいえ、新かなづかいに改められたのは残念だ。森銑三は《古典日本文学全集35〔江戸随想集〕》(筑摩書房、1961)で室鳩巣〈駿台雑話〉ほかを訳出しているが、生前に筑摩書房刊行の著書はない。版元が本書の装丁を誰に依頼するかはフリーハンドに近かったろうから、「筑摩らしい本を」ということで、社内装丁経験の長いOBの吉岡に白羽の矢が立ったか。全体的に、後の種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989)や巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990)と似た雰囲気で、本扉の蝸牛が点対称なのは、杉浦康平による《吉岡実詩集》(思潮社、1967)の手法を踏まえたものか。ジャケットや表紙に用いられた和風の洋紙の選択も見事だ。収録篇数が異なるが、各版の仕様の概要を表にまとめておく。

版名 刊行年 篇数 判型 本文ノンブル 本文活字 字詰め×行数(文字数@頁) 見出し・配置
筑摩版 1988 40 A5変 3-201 10ポ 41×16(656) 6行どり・改頁
著作集 1995 41 A5 389-520 9ポ 50×18(900) 3行どり・追込み
文芸文庫 2005 46 A6 11-207 12Q 40×17(680) 7行どり・追込み

森銑三《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月17日)の本扉とジャケット 永田生慈監修解説《北斎の絵手本 五》(岩崎美術社、1986年10月12日)の本文
森銑三《物いふ小箱》(筑摩書房、1988年11月20日)の本扉とジャケット(左)と永田生慈監修解説《北斎の絵手本 五》(岩崎美術社、1986年10月12日)の本文(右)

本書の仕様は、一九九×一四七ミリメートル(前掲〈編集後記〉と異なるのは、本文ページの天地・左右寸法のため)・二一二ページ・上製紙装・ジャケット。標題扉裏に「装幀・吉岡実/(画・北斎)」とクレジットがある。北斎は本文には登場しないから、図像の選択は装丁側によるものだろう。関連書にあたったところ、永田生慈監修解説《北斎の絵手本 五》(岩崎美術社、1986年10月12日)に本扉とジャケットに用いられた画が掲載されていたので(一二四・二五二ページ)、吉岡実装丁と並べて掲げておく。なお、吉岡は〈日記抄――一九六七〉に「四月二十三日/高島屋で北斎展を見る。肉筆は、鉄斎の気品に劣ると思われるが、版画は天才の作かと思われる。ことに富嶽三十六景は絶品」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一一ページ)と書いている。

吉岡は〈日記 一九四六年〉(《るしおる》5号、1990年1月)に「一月二十五日 森銑三《渡辺崋山》。〔……〕」と書いているから、この日、《渡邊崋山〔創元選書〕》(創元社、1941)を買ったか読んだかしたのだろう。吉岡はここ以外で森銑三に言及したことはないが、《物いふ小箱》の「一」(本邦が舞台の話)に三番めに置かれた〈提燈小僧〉を喜んだに違いない。書きだしの段落はこうだ。

 昔本所に、提燈[ちやうちん]小僧といふ奇抜で愛嬌のある化物が出たさうだ。真暗な晩に、灯のともつた小田原提燈が一つ忽然と現れて、自分の前三四尺乃至一二間のところを行く。人影はなくて、提燈だけがぽつかりと明るく、ちやうど影絵に映し出されたもののやうに、暗闇の中をふらふら動いて行くのださうである。(本書、一二ページ)

吉岡は本所の生まれだから、こんな口碑を父母から聞かされていたかもしれない。〈提燈小僧〉には「このお化は、本所の内でも、石原辺から割下水の辺までの十余町四方のところに出たといはれている」(同前、一三ページ)とある。また「いかならん〔花→色(著作集以降、変更された)〕に咲くかと明くる夜を松のとぼその朝顔の花」(本書、五九ページ)という一首を本文中に配した〈朝顔〉は、森銑三が子供向けに書いた〈小泉八雲〉(《赤い鳥》1927年6月号)を思わせる佳篇だ。吉岡が〈葛飾北斎〉(同前4月号)を読んだかは、わからない。


吉岡実の装丁作品(50)(2007年11月30日)

西脇順三郎は《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の〈あとがき〉(末尾に「〔昭和四十三年〕二月三日」という日付がある)の一節に吉岡実の名をとどめている。

 この計画の実行はまる三年かかった。発案は筑摩の井上達三氏であった。〔……〕昨年の夏になって、筑摩の会田綱雄君や吉岡實君と神田でトコロテンをたべ甘酒をのみながら「詩学」を書いたのであった。(本書、三〇三ページ)

本書は初刊翌年の1969年3月31日には早くも《詩学〔筑摩叢書136〕》として再刊されていて、私が最初に読んだのもこちらだった。筑摩叢書版は〈目次〉から〈あとがき〉までの組版に元版の紙型を流用しているものの(前付・後付にごく一部追加あり)、巻末に新たに5ページにわたる〈人名索引〉が付されており、書物としての結構は筑摩叢書版の方が整っている。
元版の仕様は、一八八×一二九ミリメートル・三一四ページ・ジャケット(西脇順三郎の筆と思しい線画で飾られている)・上製クロス装・機械函に貼題簽。装丁者のクレジットはどこにもないが、筑摩に在籍中の吉岡実の装丁とみて間違いないだろう。本書と同様のグレーの機械函(ホチキス留め)は、宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975)でも使われている。
帯文には「3年余の歳月をかけた書下し労作/豊かな学殖と深い経験をもつ世界的詩人が3年余の歳月をかけ、初めて世に問う独創的詩学。ポエジイとは何か。ポエジイの未来をどう考えるか。巨匠が詩の秘密をことごとくひらいてみせる名著/定価850円・筑摩書房」とある(ボディコピーだけがゴチック体だ)。新倉俊一の《評伝 西脇順三郎》(慶應義塾大学出版会、2004年11月10日)には「昭和三十九年四月から慶應義塾久保田万太郎記念講座「詩学」が始まり、その初年度は佐藤春夫が前期で、後期は西脇が予定されていた。〔……〕西脇は十月二日から十回にわたって講義を行った。この講義がきっかけとなって、昭和四十三年(一九六八年)に筑摩書房より『詩学』を刊行」(同書、二三七ページ)とあって、本書の成立過程を伝える。

西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の函と吉岡実に宛てた署名のある見返し(左) 西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の表紙と《詩学〔筑摩叢書136〕》(筑摩書房、1969年3月31日)の表紙〔装丁:原弘(NDC)〕
西脇順三郎《詩學》(筑摩書房、1968年2月29日)の函と吉岡実に宛てた署名のある見返し(左)と同・表紙と《詩学〔筑摩叢書136〕》(筑摩書房、1969年3月31日)の表紙〔装丁:原弘(NDC)〕(右)

吉岡は西脇順三郎追悼詩篇の〈哀歌〉(J・13)で「*第二章は西脇順三郎『詩学』より抄出した」と註しているので、詩篇の「2」の全文を引こう。

言語の世界は一つの立派な音の象徴の世界であるから、「ヒョータン」という音はいかにも実体の「葫蘆」[ころ]をよく象徴しているように思われる。しかしこれは日本人だけであって、日本語を知らない人にはこの音は何か「橋」のような印象を与えるかも知れない。反対にフランス語のグルド(gourde)=瓢箪=はフランス語を知らない人には、この音はむしろ「いもむし」をよく象徴すると思うかも知れない。

〈アポコペ〉

この「2」は、次に掲げる《詩學》の〈11――音の世界〉の一段落をほとんどそのまま引いたものだ。念のために吉岡の改変箇所を挙げれば、@「葫蘆」にふりがな[ころ]を付けた、Aグルド(gourde)に=瓢箪=を追記した、B最後に〈アポコペ〉を置いた、の3点である。

 言語の世界は一つの立派な音の象徴の世界であるから、「ヒョータン」という音はいかにも実体の「葫蘆」をよく象徴しているように思われる。しかしこれは日本人だけであって、日本語を知らない人にはこの音は何か「橋」のような印象を与えるかも知れない。反対にフランス語のグルド(gourde)はフランス語を知らない人には、この音はむしろ「いもむし」をよく象徴すると思うかも知れない。(本書、一〇三ページ)

《詩學》の感想を述べようとすると、一筋縄ではいかない。「詩的活力には、感嘆したものであったが、同想異曲の反復が多く、讃辞を呈することができなかった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二四四ページ)とは吉岡の《壤歌》評だが、それをそっくり本書に進呈したいと思う。稀には「ヒョータン/葫蘆」に関連して「私の詩作にも当然音の世界がはいりこんでいる。それで音の問題がおこる。私はもはや一定の韻律による様式は用いない。ただいろいろの子韻と母韻の連続の組合せからくるいろいろの音のイマージを美的意識によって選択する。「ヒョータン・フクベノルイ」とか」(本書、一九九ページ)のような滋味掬すべき一節もあるが、たいていはページをめくってもめくっても論が前に進んでいかないもどかしさを覚える(西脇が《詩學》で展開している持論は、本書刊行の翌年発表の〈剃刀と林檎〉にコンパクトにまとめられている)。
《詩學》を通読したところ、「神秘的」という語が47ページにわたって登場する(これは本文6ページに1回の割合で、神秘・神秘主義・神秘主義者も頻出する)。もしかすると、吉岡の詩篇〈神秘的な時代の詩〉(F・11、1968年10月発表)のスルスのひとつか。また、マラルメは本書でボードレールに次いで言及の多い詩人だが、その「謎(エニグマ)」も登場しており(13・109・160ページ)、詩篇〈楽園〉(H・1、1976年発表)の末尾「謎[エニグマ]/沖は在る」を想起させずにおかない。
写真の吉岡実宛献呈毛筆署名入りの西脇順三郎《詩學》は梓書房で求めたものだが、1箇所も書きこみがなく、上掲引用文のページもまっさらである。1982年6月5日の西脇逝去後、吉岡は《現代詩手帖》1982年7月号の大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との追悼座談会〈比類ない詩的存在〉に出席し、《新潮》8月号に追悼文〈西脇順三郎アラベスク(追悼)〉を執筆し、《ユリイカ》7月号に〈哀歌〉(初出時、末尾には「(一九八二・六・一〇 通夜の日)」とあったが、詩集では省かれている)を寄せていて、この追悼詩にそれほど多くの時間を割けたとは思えない(吉岡は詩を書くには1箇月が最適だとつねづね言っていた)。書きこみのない献呈本からは、切迫した時間内で追悼詩を執筆した吉岡の気合いのようなものが伝わってくる。


吉岡実の装丁作品(49)(2007年10月31日〔2008年12月31日追記〕)

吉岡実は宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)を装丁し、宮川淳追悼詩篇〈織物の三つの端布〉を《エピステーメー》(1978年11月号)に寄せ、阿部良雄・清水徹・種村季弘・豊崎光一・中原佑介編《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)の装丁を担当した。本著作集の仕様は二〇八×一四八ミリメートル・上製継表紙(背はクロス、平は布)・貼函。第1巻(1980年5月1日、六三四ページ)、第2巻(1980年10月25日、七六四ページ)、第3巻(1981年9月15日、七〇八ページ)。別丁本扉の次の扉裏に「装幀 吉岡 実」とクレジットがある。本著作集の新装版(全巻1999年9月20日刊)の装丁は中垣信夫なので、新装版の同じページにある「装幀 吉岡 実」の表示は元版の装丁者ということか。それとも吉岡が本文組版にも関与していたのか。ちなみに元版の本文の印刷は活版だが、新装版は(元版の清刷から版下を起こした?)オフセットである。――吉岡が装丁を手掛けた三巻本の全集といえば《高柳重信全集》が想いうかぶが、本著作集も来るべき《吉岡実全集》はかくやと想像させる見事な出来映えである。
一方、宮川淳は吉岡実の詩に対して、1963年の〈季節はずれ・ビュッフェ展〉(《東京大学新聞》4月17日)で〈過去〉(B・17)に触れたのを筆頭に、1968年の〈『吉岡実詩集』〉(《現代詩手帖》1月号)では〈静物〉(B・4)、〈雪〉(B・14)、〈水のもりあがり〉(D・13)、〈裸婦〉(D・7)、〈単純〉(C・9)、〈春のオーロラ〉(E・10)、〈ジャングル〉(B・13)に言及し、〈芸術の消滅は可能か〉(《小原流挿花》6月号)では再び〈雪〉に触れ、7月の〈言語の光と闇〉(《季刊審美》8号)では〈裸婦〉、〈伝説〉(C・5)、〈卵〉(B・7)、〈雪〉、〈静物〉、〈挽歌〉(B・12)、〈或る世界〉(B・5)、〈水のもりあがり〉、〈春のオーロラ〉に言及している(いずれも本著作集の第2巻に収録)。

《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の函と本扉 《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の表紙と《宮川淳著作集〔新装版・第1巻〕》(美術出版社、1999年9月20日)の表紙〔装丁:中垣信夫〕
《宮川淳著作集〔第1巻〕》(美術出版社、1980年5月1日)の函と本扉(左)と同・表紙と《宮川淳著作集〔新装版・第1巻〕》(美術出版社、1999年9月20日)の表紙〔装丁:中垣信夫〕(右)

〈織物の三つの端布〉(H・16)に登場する「 」と〈 〉で括られた引用文を、宮川淳のテクストと照合してみる。吉岡実の詩句……宮川淳の文章、そして( )内は《宮川淳著作集》所収の書名、標題、著作集の巻数〔ローマ数字〕・ページノンブル〔漢数字〕・行数〔アラビア数字〕の順。なお同詩篇で地の詩句として記されているが、「宮川が頻用した言葉だった」(高橋睦郎〈鑑賞〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一五四ページ)ところの「表面[、、]/表面的[、、、]/表面化[、、、]する」を引用文と同列に扱った。

●「イマージュはたえず事物へ/しかしまた同時に/意味へ向おうとする」/宮川淳……イマージュはたえず事物へ、しかしまた同時に、意味へ向おうとする。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈美術史とその言説[ディスクール]をめぐる阿部良雄との往復書簡〉、L・六六一・12-13)

●「(この積み藁が紫色である)のは/私にそう見えるからだ」……この積み藁が紫色であるのは私にそう見えるからだ――歓喜して自らの感覚を追ってゆくうちに、彼らはフォルムも色彩も恒常不変の与件ではなく、光線の変化のままに刻々とうつろいゆく相対的なものであることを発見する。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈セザンヌとスーラ〉、L・六七・8-10)

●「重さから軽みへ/大地的なものから/大気的なものへ」……すなわち、重さから軽みへ、大地的なものから大気的なものへ、そしてマチエールによる表現から線による表現へ。(《鏡・空間・イマージュ》、〈訪れについて――三岸好太郎と佐伯祐三〉、J・一一五・7-8)

●「空間のなかに/開かれる/もうひとつの空間」……空間のなかに開かれる、もうひとつの空間。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について――ジョルジュ・ブラック〉、J・一〇一・11-12)

○「生きることを許された/(空間)である」……〔未詳〕

●〈しばしば見かけるのは/空を飛んでいる/鳥だ〉……鳥においてなにを表現しようとしたのか、という問いに答えて、ブラックは「しばしば見かけるのは空を飛んでいる鳥だ。それは空を描く画家にとって大きな誘惑である」と語っている。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について――ジョルジュ・ブラック〉、J・九三・8-10)

◎「ここは室内に似ている」……それは、この時代としてはむしろ例外的な作例である『黄色のテーブル・クロス』(一九三五年)とともに、もうほとんど室内といってよいほどなのだ。(《鏡・空間・イマージュ》、〈鳥について――ジョルジュ・ブラック〉、J・九八・16-18)

●「見ることは透明に脱落して/見える/ものを浮び上らせる」……見ることは透明に脱落して、見えるものを浮かび上らせる。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈記号学の余白に〉、J・二五一・9)

●表面[、、]/表面的[、、、]/表面化[、、、]する……《表面》について考えながら、たとえば表面とそのさまざまな派生的な表現について、表面[、、]、表面的[、、、]、表面化[、、、]する……。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈ルネ・マグリットの余白に〉、J・二一三・2-3)

○「ここがどこで/もないところであるからだ」……〔未詳〕

●「逆に存在は遠ざかり/不在のきらめく」……プレザンスということば、もっと正確にいえば、イマージュのプレザンスという、存在論的にいえばおそらく矛盾した使い方についていえば、ぼく自身としては、意識のあり方(自己現前)を指すのでないことはもちろん、存在がわれわれの前にあらわれるあり方を語るボヌフォア的なことばでもなく、逆に存在の遠ざかり、不在のきらめき、イマージュの魅惑を語るブランショ的な用法だったのだけれども。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈美術史とその言説[ディスクール]をめぐる阿部良雄との往復書簡〉、L・六七四・21-六七五・4)

◎「選ばれた脚」……いいかえれば、女の脚そのものがオプセッシヴなのではなく、イメージそのもののオプセッションのひとつのモチーフとして女の脚がえらばれているのである。(《引用の織物》、〈鏡の街のアリス** すべる アレン・ジョーンズ〉、J・三一一・6-7)

●「この欲望のモーターは独身者の機械の/最後の(もっとも/突起した)部分である」……この欲望のモーターは独身者の機械の最後の部分である。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈マルセル・デュシャンの余白に〉、J・二三三・14)

●〈動物が卵(または袋)のなかに孕まれているように/混沌とした情念のなかに(記号・作品)が/孕まれている〉……それというのも、彼にとって「芸術作品とは、動物が卵の中にはらまれているように、混沌とした情緒の中にはらまれている」からだが、しかし彼はさらに、その混沌とした情緒のなかに埋もれている思想を明確にしようとする。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈象徴派〉、L・二五三・13-二五四・1)

●「花嫁という/新しいモーターが出現する」……つまり花嫁という新らしいモーターの出現を立証する必要。(《紙片と眼差とのあいだに》、〈マルセル・デュシャンの余白に〉、J・二三四・4)

●〈重く つや消しの 力のこもった/音〉……〔……〕ゴーギャンがはじめてブルターニュにおもむき、その花崗岩の土地を踏む木靴の音に、彼が絵画の中に求めていた〈重く、つや消しの、力のこもった音〉をきいた年、〔……〕(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈象徴派〉、L・二六三・6-7)

●「近づくことのできない/この純粋な外面の/輝き」……この背後のない純粋な外面の輝き(《鏡・空間・イマージュ》、〈参考図版22〉、〔著作集には図版・文とも収録されていない〕)

●「善悪の対立をこえて/男女/の対立となっている」……これらのギリシャ神話の英雄たちは、いずれもいわば悪と闘う勇者たちだが、モローにあっては、これらの主題はしばしば、善悪の対立をこえて、男女の対立となっている。(《鏡・空間・イマージュ》、〈神話について――ギュスターヴ・モロー〉、J・六七・7-8)

冒頭の引用(題辞である)と極めて近い「イメージもまたつねに事実と意味ないし象徴との間の揺れ動きを本質とするのである。それはつねに意味へ向おうとするが、神話的なコードの体系なしには決して象徴にまでは達しえない」(J・四九四・15-16)という一節をもつ〈スタロバンスキーの余白に――モローをめぐる引用と注〉は、吉岡が編集担当の《ちくま》(50号、1973年6月)に掲載され、のちに〈ギュスタヴ・モロー――スタロバンスキーの余白に〉と改題のうえ、宮川の遺著《美術史とその言説[ディスクール]》(中央公論社、1978年4月20日)に収められた。同書収録の諸篇は、《鏡・空間・イマージュ〔美術選書〕》(美術出版社、1967年3月)、《紙片と眼差とのあいだに〔叢書エパーヴ1〕》(エディシオン・エパーヴ、1974年3月)、《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月)の生前刊行の3冊とは異なり、《宮川淳著作集》では単行本として扱われていない。

〔追記〕
宮川淳のデビュー作〈アンフォルメル以後〉(1963)の一節が〈金柑譚〉(H・17、初出は《海》1979年5月号)冒頭の詩句(ただし「 」や〈 〉で括られていない)のスルスと想われるので、次に掲げる。

●大股で駈けつつ/しかも不動の少年を見たことがある……つまり、われわれは〈大股に駈けて、しかも不動のアキレウス〉であり、今日の絵画はゼノンの矢なのだ。(〔《美術史とその言説[ディスクール]》〕、〈アンフォルメル以後〉、K・一九・16-17)

本稿では、宮川の文章は便宜的に《宮川淳著作集》で出典を表示したが、吉岡が〈織物の三つの端布〉や〈金柑譚〉を書く際に参照した本文は、言うまでもなく上掲の4冊の書籍である。

〔2008年12月31日追記〕
本著作集内容見本の最終ページに《宮川淳著作集》の仕様が記されているので、引く。

体裁―A5判 上製本 貼箱入り
扉―レンケルレイド、クリーム
見返し―グランデー、鼠
表紙―継表紙(ヒラ・麻布 背・アートカンバス)
外箱―キルモリー・リサイクル
各巻平均650頁

装幀―吉岡實

別丁本扉用紙の銘柄レンケルレイドの白は、のち限定28部本の《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》(書肆山田、1980年11月9日)の本文用紙に使用された。


吉岡実の装丁作品(48)(2007年9月30日)

高橋睦郎は吉岡実の詩篇〈織物の三つの端布〉(H・16)の〈鑑賞〉で「作者と宮川の関わりは宮川の数少い著書の一冊である『引用の織物』の装釘を作者が担当し、その出来上がりを宮川がことのほか喜んだ、という淡いものだ」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日、一五二ページ)と書いている。筑摩書房在籍時のためクレジットはないものの、宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)は吉岡実装丁の代表作のひとつである。
本書の仕様は、一八八×一三〇ミリメートル・二三二ページ(扉は本文共紙)・上製クロス装・機械函。写真でおわかりのように、函の素材は日焼けしやすく――筑摩書房の書籍では、西脇順三郎《詩學》(1968)や井上究一郎《ガリマールの家》(1980)の函にもこの手の灰色のボール紙が使用されている――、書棚に排架しておいただけでご覧のようなありさまだ。四六判・角背(本書に丸背は似つかわしくない)のごくふつうの体裁だが、カンバス(まさに織物)のクロスのざらざらと粒立つ物質感がなんとも掌に快い一冊である。
本書の函〔表〕の文章は本文の〈引用について〉からの抜粋だが、清水徹・豊崎光一〈解題・校異〉によれば、函〔裏〕は本書の本文にない「著者の手になる」(《宮川淳著作集〔第1巻〕》、美術出版社、1980年5月1日、六一四ページ)文章である。「本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではなく、本の空間にあるべきではないだろうか。」と始まる箱組みの201文字は、吉岡の装丁ともあいまって、本書を強く印象づける(この文章を著者に書かせたのは誰なのだろうか)。

宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の函〔表〕と表紙 宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の扉と函〔裏〕
宮川淳《引用の織物》(筑摩書房、1975年3月20日)の函〔表〕と表紙(左)と同・扉と函〔裏〕(右)

本書の装丁について、臼田捷治は次のように書いている。

 宮川淳著『引用の織物』(筑摩書房、七五年)は、函の定価表示のゴシック数字だけを例外として、函、表紙、扉、目次のすべてにわたって、書名、著者名、出版社名に使われているのは金属活字系の明朝だけ(!)である。そして、明朝活字による構成のなかで、唯一のアクセントとなっているのが、函と表紙の中央に配されている一辺十ミリの白四角である。この白四角は約物とも解釈できるであろう。まさに活版印刷に固有の「矩型の秩序」に依拠したデザインである。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四ページ)

「この白四角」は本文中にも出てきていて、通常なら「*〔アステリスク〕」(堀辰雄なら三つのアステリスクが「品」の字の形に並ぶ「アステリズム」)あたりが担いそうな、段落の区切れを強調する役目を果たしている。

吉岡は宮川淳への追悼詩〈織物の三つの端布〉(初出は《エピステーメー》1978年11月号)について、金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉でこう語っている。

金井 前に、引用にきまった言葉を引用できる人と、あんまりできない人とがいるという話をしてましたよね。
〔……〕
吉岡 〔池田満寿夫の文章は〕抽象的でもないけど、非常に明晰で作りにくかった。〔……〕ぼくにとって意外な言葉と言うか、生の言葉が必要なんだ。それだと作りいい。だから、あんまり文章が整いすぎちゃったエッセイからは、非常にとりにくい。宮川淳なんかはその最たるものね。宮川淳はとるところが非常にむずかしいわけよ。だから、他の、外国の画家〔ジョルジュ・ブラック〕の言葉とかそういうのを散りばめないと宮川淳像は成り立たなかった。
金井 宮川さんの文章そのものが引用から成り立っているわけですものね。
吉岡 宮川淳のための「織物の三つの端布」、これが一番むずかしかったなあ。またおそらくうまく成功してないんじゃないかと思うよ。作品としてどうなのかちょっと疑問になる。
金井 宮川淳から引用できそうな言葉というのは、宮川淳が使っている言葉じゃないということがあるかもしれないですしね。
吉岡 そういうこともあるかもわかんないしね。あまりにも詩的な文体であるためにこっちの感興を呼ばなかった。(《現代詩手帖》1980年10月号、九六〜九七ページ)

〈織物の三つの端布〉に登場する「 」と〈 〉で括られた引用文を、本書《引用の織物》のテクストと照合してみると、それらしいものはわずか一箇所しかない。( )内は標題、本書のページノンブル〔漢数字〕・行数〔アラビア数字〕。

○「選ばれた脚」……いいかえれば、女の脚そのものがオプセッシヴなのではなく、イメージそのもののオプセッションのひとつのモチーフとして女の脚がえらばれているのである。(〈鏡の街のアリス** すべる アレン・ジョーンズ〉、七四・9-11)

吉岡実は宮川淳の歿後に編まれた《宮川淳著作集〔全3巻〕》(美術出版社、1980〜81)の装丁も担当しているので、詩篇〈織物の三つの端布〉の引用文のスルスについては、同著作集の装丁を採りあげるときに改めて触れよう。


吉岡実の出版広告(1)(2007年8月31日)

〈吉岡実のレイアウト(4)〉で書いたように、吉岡実の処女作である詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)の出版広告が《文藝汎論》1941年1月号に掲載されている。拙文の執筆に際して、当該号を確認するために現代詩誌総覧編集委員会編《現代詩誌総覧E――都市モダニズムの光と影K》(日外アソシエーツ、1998)を繰ったところ、〈人名索引(広告)〉の「吉岡実」は《昏睡季節》の1件だけだった。が、よくよく見るとその1行上に「吉岡定」と掲載されているではないか。これは怪しい。人名索引が示す、その本文ページ「第12巻第3号 1942年3月1日発行」の「広告」の項には

〔……〕吉岡定『液体』(草蝉舎)の広告を掲載。〔……〕(同書、三九三ページ)

とあって、これぞ間違いなく吉岡実詩集《液体》(草蝉舎、1941年12月10日)の出版広告である。《文藝汎論》1942年3月号を閲覧したので、概略を記す。

《文藝汎論》1942年3月号の表紙〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1943年3月号の表紙2〜表紙2対向ページ〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1943年3月号の吉岡実詩集《液体》広告のアップ〔モノクロコピー〕
《文藝汎論》1942年3月号の表紙(左)と同・表紙2〜表紙2対向ページ(中)と同・吉岡実詩集《液体》広告のアップ(右)〔いずれもモノクロコピー〕

戦闘機を描いた表紙に「献納」と謳われている3月号は、〈全日本愛国詩集〉である(前年昭和16年の12月、すなわち《液体》刊行の月、日本は太平洋戦争に突入した)。本号は、保田與重郎が巻頭言を書き、村野四郎の〈愛国詩〉以下、竹中郁・近藤東・岩本修藏・岩佐東一郎・中山省三郎・安藤一郎・長田恒雄・竹内てるよ・中村千尾・江間章子・瀧口武士・町田壽衞男・高祖保・城左門の既存詩人と、公募による32名の詩作品が総特集〈全日本愛国詩集〉を形成している。編集・発行人の岩佐東一郎は〈編輯後記〉を「戦勝に輝く日本の春三月。」(同誌、八〇ページ)と始めており、あとは推して知るべしの文字が誌面に躍る。そうしたなかにあって、吉岡の《液体》の出版広告は遺著のような静けさを保っている。文案の文字を起こしておこう。

吉岡實第二詩集
液  体
草蝉舎版
百部限定本

|豪|外函 青染 柾和紙
|華|表紙 鳥ノ子オフセット五色刷
|版|本文 純白一五〇斤

曩に「昏睡季節」を上梓し、高雅清純なるエスプリを超現実風の自在奔放なる表現に托して識者を瞠目せしめた吉岡實君は今御召に応じて大陸に在る。吾等は著者の委嘱により最近作三十二詩を撰び、現下に許される最大限の美装本となして江湖に本書を捧ぐ。限定非売本であるが、彼の詩を愛し頒布を希望される方は製作実費二円五十銭送料十銭を左記へ送られよ。
       (編者小林梁、池田行之誠〔ママ〕)
 東京市本所區厩橋二ノ三〔ママ〕 吉岡方
     草  蝉  舎

今回の広告制作に吉岡本人が関与している可能性は低く、二人の「編者」による執筆・指定であろう(詩集の〈あとがき〉も小林梁・池田行之両氏)。ところで、この広告の刷色は朱色である。本誌の表紙1・4はスミと朱(特色)の2色刷りで、表紙2・3と、本文前の貼込み4ページ(広告1ページ、目次2ページ、告知1ページ)も朱で、特色は毎号替わった。貼込み仕様の目次は、同年5月号以降、スミ刷りの本文ページに格下げされたが(1月号以降、本文ページ中の書籍・雑誌の出版広告もなくなった)、戦時の影響は端的に総ページ数に現われる。《昏睡季節》広告掲載の1941年1月号が120ページだったのに対して、この1942年3月号は三分の二の80ページに減っている。
詩集《液体》の反響はどうだったのか(前年満洲へ出征した吉岡は、反響について書いておらず、独自に探索するしかない)。今回閲覧した《文藝汎論》は日本近代文学館の所蔵資料で、1947年は2月号と8月号が欠号のため見られなかったが、6月号(特集〈初夏版 現代日本詩集〉)の〈詩壇時評〉で北園克衞が「詩集」という見出しで次のように書いているのが目に留まった。

 最近自分は未知の詩人によつて上梓された幾つかの詩集を手にすることが出来た。そしてこれらの詩集のなかには著者の多くの負担に依つて作られたものもあるであらうと言ふことを容易に想像することが出来るものも二三にとどまらなかつた。しかしそうした詩集のなかには明瞭に自らの負担に依つて上梓されたものであるにも拘らず印刷、装幀は勿論、作品の配列等に充分の研究が行はれてゐないものもあつたやうである。そうした詩集に対して自分は暗然とならざるを得ない。作品の未完成、活字の精粗は地方的な理由、資金の条件も伴ふであらう。然し活字の大小、行間、字間の均衡、装幀等は如何なる悪条件のなかに於ても相当の効果をあげることが出来るのである。このやうな意味に於て、唯単に本の形でありさへすればよい、作品は読むことが出来ればよい、といつた詩集に対して読者は負担以上の労働でさへあることを知るべきだと考へる。
 〔……〕
 そもそも書物に興趣を持たない詩人を想像することが出来るであらうか。言ふも愚である。
 詩人はいやが上にも書物を読み、書物を愛し書物の知識を豊富にすると同時に造本上の理想を高めるべきである。それは詩人の文化的義務であり、同時に教養でもあるであらう。また自らの作品に対する作者の最終の愛情なのである。我々は時折惚々と見とれる程の趣味高い詩集を手にする時その内容が若し未熟な場合に於ても淡い尊重の心を拒み得ないのである。(《文藝汎論》1942年6月号、一一ページ)

戦地に在る吉岡に代わって、小林・池田の両氏が北園宛に《液体》を送ったことは確実である(《液体》出版広告を掲載した《文藝汎論》1942年3月号を北園が手にしていることは言うまでもない)。引用した最後の一文が詩集《液体》の評であっていささかもおかしくない、と考えるのはひとり私だけだろうか。


吉岡実の装丁作品(47)(2007年7月31日)

草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)は、《草野心平詩全景》(1973年5月25日)以後の年次詩集の最初の一冊である(《草野心平詩全景》の装丁も吉岡実)。1978年5月に刊行が始まった《草野心平全集〔全12巻〕》(筑摩書房、〜1984年5月)は、第1回配本の第1巻刊行直後の1978年7月に版元が事実上倒産したため、第2巻以降の刊行は大幅に遅延した。詩集《凹凸》は全集第3巻に収録されているので、中桐雅夫・山本太郎の〈解題〉を引く。

凹凸』/昭和四十九年十月十日発行 筑摩書房刊 A5変型判(二〇〇×一四八m/m) クロス装貼函入 装幀・吉岡実 目次七頁 序詩二頁 本文二〇八頁 覚え書JK八頁 定価三八〇〇円 限定一〇〇〇部/収録作品数は六十七篇。本文は五つのパートに分かれ、J十六篇、K九篇、L二十五篇、M十篇、N六篇となっている。/なお、本書は『詩全景』以降毎年刊行されることとなった年次詩集の最初のもので、著者六十八歳から七十一歳までの作品が収録されている。(《草野心平全集〔第3巻〕》、筑摩書房、1982年4月15日、四八三ページ)

ちなみに全集第2巻の〈著者覚え書〉には「蛙と富士山の詩人などと、よく言はれたり書かれたりする。〔……〕どんな風に言はれてもさして痛痒は感じないが、七十八歳の今頃になつても「凹凸」の“Zigzag Road”がどうやら自分に相応しい象徴的詩集名のやうな気がする」(《草野心平全集〔第2巻〕》、筑摩書房、1981年9月20日、五二二ページ)と見える。
本詩集巻頭の〈幻の孔雀〉は一読忘れがたい佳篇だが(入沢康夫編の岩波文庫版詩集にも採られている)、〈書に就いて〉や次に引く〈字を書くことに就いての自戒〉(一九七三・九・二四)は、草野心平の書を想起しながら読むと格別の味わいがある(吉岡も心平の書に感服していた)。

端座して。
細い長い油絵用の筆の穂先にたつぷり墨をふくませ。
垂直に深く刺し流しゑぐる。
肩と手からは力をぬき。
穂先だけがぎしんと強く。
或る時は青く。
或る時は炎え。
原始からの人間。
その愛しい内部と communication を形にしたい。
イヤ。
昔の発明の象[かたち]をそのままに改めて自己を造型したい。

(いまの自分はそんな界隈をうろついてゐる。)

遥かな道だ。
yah ya doh。

本書の仕様は、一九九×一四七ミリメートル・二三二ページ・上製クロス装(角背)・貼函。墨筆署名入。奥付にナンバリングマシンによる記番、検印。本文用紙の寸法は手許の一書を採寸した結果で、一九九ミリというのはいかにも中途半端なため、〈解題〉の二〇〇ミリにしたいのはやまやまだが、一九八ミリ設計が一九九ミリになったのかもしれず、あえてそのままとする。
本書の表紙と本扉にある家紋の輪鼓[りゅうご]のようなカットはなんだろう(輪鼓は中間がくびれた形をした平安時代の玩具のひとつで、現代ならさしずめディアボロか)。これが《凹凸》(オウトツと読むのか、ボコデコとでも読むのか)とどう関係するのか、しないのか、よくわからない。「凹凸」が幾何学的な字面なだけに、あまり図案のようなカットでないほうがよかったのではないか。少なくとも本扉に「輪鼓紋」は不要だったと思う。黒のクロスに金箔押しというのは想像するよりも見た目に禍禍しく、角背の珍しさもあって、吉岡実装丁の異色作という感じである。

草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の函と表紙 草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の本扉と函
草野心平詩集《凹凸》(筑摩書房、1974年10月10日)の函と表紙(左)と同・本扉と函(右)

@《凹凸》に始まる全12冊の年次詩集――A《全天》1975、B《植物も動物》1976、C《原音》1977、D《乾坤》1979、E《雲気》1980、F《玄玄》1981、G《幻象》1982、H《未来》1983、I《玄天》1984、J《幻景》1985、K《自問他問》1986(いずれも筑摩書房刊)――は吉岡実装丁の《凹凸》以外、すべて著者による自装である。これらはみな、目次のフォーマットやノンブルの書体、本文の基本組を《凹凸》に倣っているが、表紙のクロスの色や材質を替えたり、F以降は本体を紺色のインクで刷ったりしている。その中にあって、Aは灰紺のクロス装表紙にベタ丸を取りまく六重の同心円を配し(「全天」をイメージする)、本扉のカットにベタ丸を置いて《凹凸》を踏襲している。Bは濃緑のクロス装表紙に小枝(心平の絵か)を配し、本扉のカットには柱時計のねじ巻きのような形の双葉を置いて、これまた《凹凸》を踏襲している。心平が吉岡実装丁を脱却して、オリジナリティを発揮するのはCからである。いずれにしても著者自装の年次詩集は、心平の書や絵画を表紙や口絵に配することで、渾然たる美の世界を造りだしている。

吉岡実は《僧侶》でH氏賞、《サフラン摘み》で無限賞(受賞辞退)、《薬玉》で藤村記念歴程賞をそれぞれ受賞しており、これらのすべてに草野心平が関わっているのも奇遇である。

或る日の夜、中桐雅夫から電話があった。『サフラン摘み』が「無限賞」に選ばれたと言う。丁重に辞退したいと応じたら、心外だという感じで受けとめたようだ。「西脇順三郎、草野心平両氏も賛同しているから、快諾せよ」と、篤実な男はくどくど言って、ひきさがらなかった。/二十分ほどして、電話が鳴った。きわめて改まった声で、「私は『無限賞』の選考委員のニシワキジュンザブロウだが、この賞を受けてくれ給え……」と、言う。さすがに私は一瞬、言葉に窮した。なぜなら、先輩の詩人としては、いちばん親交のある方だからだ。礼を失しないように、若干の理由を述べ、辞退したものである。かたわらにいた妻に「たいへんだったわねー」と、言われた。/その日から、しばらくの間は、感情的なしこりが残り、おたがいに会うことを避けていた。後日、なにかの折りに、心平さんに会ったら、「あの時、オレは西脇さんが説得しても、だめだと思ったよ」と、笑っていた。(〈心平断章――「H氏賞事件」ほか〉、《草野心平・るるる葬送〔現代詩読本 特装版〕》、思潮社、1989年3月1日、九一ページ)

吉岡実は西脇順三郎に較べて草野心平に言及することが少なかったが、本詩集《凹凸》の装丁は心平への親炙を物語ってあまりある。ところで、上掲文のサブタイトルは編集部がつけたものではあるまいか。吉岡は断章形式の散文にかつてこの手の副題をつけなかったし、万一吉岡自身がつけたのなら、ある種の「サービス」だったように思える。


吉岡実の装丁作品(46)(2007年6月30日)

著者が生存中に上梓した《高柳重信全句集》(母岩社、1972年3月7日)には、ここで取りあげる市販本のほかに、特装本と分冊版の計3種類がある。三橋敏雄の〈解題〉を引く。

 昭和四十七年(一九七二)三月七日、母岩社刊。発売元・俳句評論社(東京都渋谷区上原三丁目四番十三号)。菊判三百七十六頁。五百部限定版。うち六十部現〔ママ〕定版の特装本は頒価一万円。四百四十部限定版の市販本は頒価二千八百円。内容は、既刊句集『黒彌撒』所収の各句集、および決定稿による第五句集『蒙塵』〔……〕、同じく第六句集『遠耳父母』〔……〕を収録。〔……〕巻末の「覚書」は著者。装幀、吉岡実。装画、寺田澄史。別冊付録「高柳重信・覚書」に、「断鬣」塚本邦雄、「朝の終り」金子兜太、「方法的俳人」加藤郁乎、「高柳重信の近作〔その〕ほか」大岡信のそれぞれ一文が寄せられてある。(《高柳重信全集〔第一巻〕》、立風書房、1985、四〇〇〜四〇一ページ)

同解題に拠れば、本書には同日、俳句評論社刊の「白装五分冊版」(35部限定版)があるが、こちらは吉岡実の装丁ではないようだ(かつて神保町の古書店で、この白い和紙の装本を手にしたことがある)。本書について中村苑子はこう書いている。

高柳重信全句集』(第五句集)
 刊行月日等前出。「長い歳月を要した〈蒙塵〉の諸作は、あまりに構想が大にすぎたため、遅々として進まず、逐〔ママ〕に未完に終った」と巻末の覚書で著者は述懐している。
 *なお、本集に収録してある「蒙塵」「遠耳父母」は、『黒彌撒』における「罪囚植民地」と同じく、当初は刊行を考えていたが変更となり「例外的に企画された特別限定版の三五部(分冊の五部を一括して一ケースに収めたもの)を除くと、逐〔ママ〕に独立したかたちとしては存在しない」という著者の記述どおりに、単独句集としては存在しないことを明記しておく。(《高柳重信の世界〔昭和俳句文学アルバムQ〕》、梅里書房、1991、一〇三〜一〇四ページ)

吉岡には、まず《吉岡実詩集》(思潮社、1967)として発表した詩集《静かな家》(思潮社、1968)があるが、高柳には単行本の形をとらない句集が複数ある、ということになる。吉岡は高柳の句集の編み方について「重信はなぜか、新しい句を注入し、句集を編み替え、増殖させ、一つの『作品集』を構築しているのだ。作者の必然的な営為として理解できるが、一読者としてどうも読みにくく感じる。私は反対に『詩集』は一巻で完結するように、試みているから、なおさらなのかも知れない」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三一七ページ)と書いている。
《高柳重信全句集〔市販本〕》の仕様は、二二一×一五三ミリメートル・三九〇ページ・上製継表紙(背は革、平はクロス)・貼函。墨筆署名入。背革の黒は、吉岡が最初に出会った高柳の句集《黒彌撒》(琅玕〔カン〕洞、1956)の赤い題簽を貼った黒い函(飯島耕一《他人の空》を汚した)から来ているのだろうか。装丁の吉岡や装画(函のほか本扉にも別の絵柄を掲載)の寺田澄史への言及はないものの、高柳は〈覚書〉の一節に「この『高柳重信全句集』も、さて手をつけてみると、結局、多くの友人や後輩たちの協力を随所に必要としたが、俳句形式とのかかわりの中で生まれ育つたさまざまな人間関係と、その恩について、改めて思いを深めることとなつた」(漢字は正字。本書、三七二ページ)と触れている。
浪速書林が《高柳重信全句集〔特装本〕》を出品しているので、書影を掲げさせてもらう。同書の説明には「特装限定60部 墨筆句・署名入 夫婦函付 極美。 大阪の俳人宛・著者自筆はがき二枚添付。「まなこ荒れたちまち朝の終りかな 重信」。装幀・吉岡実、装画・寺田澄史。天金。総黒革装上製本。冨澤赤黄男序・著者覚書。「高柳重信覚書」塚本邦雄他著添付。A5判」とあり、価格は42,000円。この特装本は未見だが、説明文と書影から察するに、貼函の意匠は同じで、表紙は市販本継表紙の背革を全面に用いたもののようだ。《高柳重信全句集》は、一ページに一作品(多くは四行表記)という組体裁とも相俟って、堅牢な俳句宇宙を内包している。
なお著者歿後の二〇〇二年には、《前略十年》〈前略十年・補遺〔金魚玉、蓬髪・抄〕〉《蕗子》《伯爵領》《罪囚植民地》《蒙塵》《遠耳父母》《山海集》〈合本句集覚書〉《日本海軍》〈日本海軍・補遺〉《山川蝉夫句集》〈山川蝉夫句集・補遺〉を収録した、文字どおりの《高柳重信全句集》が沖積舎から刊行されている。

《高柳重信全句集〔市販本〕》(母岩社、1972年3月7日)の函と表紙 《高柳重信全句集〔特装本〕》(母岩社、1972年3月7日)の函と見返し
《高柳重信全句集〔市販本〕》(母岩社、1972年3月7日)の函と表紙(左)と同・特装本の函と見返し(右)〔浪速書林の画像〕
特装本の出典:http://www7a.biglobe.ne.jp/~naniwashorin/photo/410473.jpg?


吉岡実の装丁作品(45)(2007年5月31日)

那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)は、詩集《音楽》(思潮社、1965)に続く吉岡実装丁で、那珂さんは吉岡実追悼文で「その〔吉岡装丁による筑摩書房版朔太郎全集の〕後も、小沢書店から出した評論集『萩原朔太郎その他』も、『定本那珂太郎詩集』も、彼に装幀して貰つた。『萩原朔太郎その他』が四千五百部も出たのは、当時の朔太郎ブウムのせゐもあつたらうが、また彼の装幀の力に負ふところ大きかつたに違ひないと思ふ」(《現代詩手帖》1990年7月号、三三ページ)と書いている。
吉岡実は本書をどのように読んだのだろうか。次に引く〈朔太郎の詩の概観〉の一節は《青猫》から《氷島》への移りゆきを評しているが、吉岡の随想〈「想像力は死んだ 想像せよ」〉(初出は1977年5月)を先取りしているようで、興味深い。――〈あとがき〉の末尾に「装幀を引受けてくれた吉岡實氏と、すすんで正字正假名遣によつてこの本をつくつてくれた小澤書店に感謝する」(三〇五ページ)とあるように、本書は漢字に正字(旧字)を用いているが、以下では新字に改めて引く。

『月に吠える』から「青猫以後」に至る朔太郎の口語自由詩のスタイルは、それ自体かなりの移り変りと展開をみせながらも、おほむね幻視幻想による内的リアリズムとでも一括称してよささうな、イメェジの造型に、その目ざましい特質があつた。しかしいまはその多彩な幻覚は払ひすてられ、きはめて即事的な、直叙慨嘆詩風に転じたのである。これはやはり「青猫」末期において彼の生認識が観念的に固定化するにつれ、当然彼の抒情もまた停滞するほかなく、もはや内から溢れでるやうなヴィジョンの創造力も涸渇し、従来のスタイルのままではおそらく詩を展開して行くことは不可能となつたため、ほとんどやむを得ぬなりゆき、もしくは窮余の一策として、現実的次元での自己劇化をはかり、反語的ポオズで、「宿命」への自己反噬を演じなければならなかつたものと思はれるのだ。(本書、二九ページ)

本書の仕様は、一九五×一四八ミリメートル・三一〇ページ・上製布装・貼函。表紙・背文字の著者名「珂」の一文字がやや曲がっているのは、写植(箔押しは金版ではなく、写植を版下にしているようだ)を切り貼りしたときの不具合だろうか。エンブレムに似た表紙のカットは、本扉の図像の中心部分の流用である。表紙のカット、本扉の図像とも函から本体を出さなければ見えないから、朔太郎を想起させるイメージである必要はない。一方、目次の後に「装幀 吉岡実/函装画 田中恭吉/『月に吠える』挿画より」とクレジットされているように、函にはのちの《「死児」という絵》(思潮社、1980)と同様、青系で田中恭吉の絵を印刷してある。本書が「「月に吠える」研究を中心に結晶させた朔太郎への卓抜な論考」(帯文)であることを一瞥で感知せしめるために、《月に吠える》の挿画以上のものはないだろう。もっとも、函に恭吉を用いるアイディアは、《萩原朔太郎全集》の装丁原案がそうだったように、那珂さんによるものかもしれない。

那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の函と表紙 那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の本扉と見返し
那珂太郎《萩原朔太郎その他》(小澤書店、1975年4月20日)の函と表紙(左)と同・本扉と見返し(右)


吉岡実のレイアウト(4)(2007年4月30日)

平林敏彦氏が〈第二次大戦下の若い詩人たち〉(《現代詩手帖》2007年3月号のリレー連載〈わたしの詞華集〉)で、吉岡実の処女作《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)の出版広告が雑誌《文藝汎論》1941年1月号に掲載されていると書かれている。原物に当たるまえに、現代詩誌総覧編集委員会編の《現代詩誌総覧E――都市モダニズムの光と影K》(日外アソシエーツ、1998年7月27日)の人名索引を繰ってみると、「吉岡実『昏睡季節』(吉岡実)の広告を掲載」(同書、三七一ページ)という記載がある。《文藝汎論》を閲覧したので、概略を記す。
同誌の1941年1月号は〈特集 現代詩人集〉である。詩作品を寄せている「現代詩人」は以下の29名。阪本越郎・堀口大學(訳詩も)・田中冬二・竹中郁・村野四郎・菱山修三・北園克衞・笹澤美明・近藤東・岡崎清一郎・安西冬衛・高祖保・西川満・丹野正・山本和夫・長田恒雄・眞田喜七・藏原伸二郎・山中散生・濱名與志春・安藤一郎・中村千尾・乾直惠・爪田豹太郎・大島博光・村上菊一郎(訳詩)・岩佐東一郎・江間章子・城左門。佐藤春夫が巻頭の文章を、那須辰造・今官一・長崎謙二郎・森本忠が小説を書いている。目次には笹澤美明〈詩壇時評〉のほか、読者の読後感〈各人各説〉、さらには〈編輯後記〉のページノンブルまで記載されている。ヴィジュアル面は「題字……恩地孝四郎」「表紙絵……寺田政明」「目次カツト……宮田彌太郎」と記されており、充実した布陣になっている。さて、吉岡実《昏睡季節》の出版広告は次のようなものだ。

《文藝汎論》1941年1月号の表紙〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1941年1月号の64〜65ページ〔モノクロコピー〕 《文藝汎論》1941年1月号の吉岡実詩集《昏睡季節》広告のアップ〔モノクロコピー〕
《文藝汎論》1941年1月号の表紙(左)と同・64〜65ページ(中)と同・吉岡実詩集《昏睡季節》広告のアップ(右)〔いずれもモノクロコピー〕

吉岡の下段にあるのは《風流陣》(文藝汎論社発行の俳句雑誌)の広告だが、書体(ゴチック)の選択や人名の倍取り、さらにスペースの処理が複合して、なんとも取りちらかった印象だ。それに対して、《昏睡季節》の広告は新聞の三八(書籍広告)を彷彿させる美しさである。誰がこれを指定(レイアウト)したのだろうか。平林氏は冒頭で触れた文章でこう書いている。

〔……〕たまたまぼくが目にした「文芸汎論」昭和十六年一月号(発行日は前年末)に詩集『昏睡季節』の四分の一頁広告が掲載されていた。版下はプロはだしのすっきりしたレイアウトで、発行所名はなく、下部に横書きで個人の住所と「吉岡實」の名がある。友人が勝手に出稿したとも推測できるが、その時点で吉岡は召集解除になっており、まったく知らなかったとは思えない。じつは「ひそかに読まれることを期待していた」と想像するのが自然だろう。(《現代詩手帖》2007年3月号、一四五〜一四六ページ)

《文藝汎論》の〈編輯部より〉には「★誌上広告」として「本誌の広告面御利用の諸氏のために、本社は最少の実費で最大の効果ある誌面を提供してをりますから、是非共有効に御使用あらんことを切望いたします。広告料金表は郵券三銭封入の上お申し込み次第、進呈申上げます。振替用紙も同時に発送いたします」(同誌、一一九ページ)とあり、吉岡側が《昏睡季節》の刊行早早、新刊告知として出稿した広告であることは間違いない。活字の指定を再現すれば、以下のようになろう(書名をほんの少し飛びださせた配置が秀逸である)。

   吉岡實詩集〔四号四分アキ〕
   昏睡季節〔二号二分四分アキ〕
   壹百冊限定出版/和紙袋綴八〇頁/新四六判價貳圓〔8ポベタ・箱組〕
   東京市本所區厩橋二ノ十三 吉岡實〔6ポベタ・横組〕

《文藝汎論》の広告レイアウトがどのようなシステムだったかは不明だが、これだけ凝縮した文案の執筆、洗練された活字の指定が吉岡本人以外の手によってなされたとはとうてい思えない。もっとも、この広告が奏功したかとなると話は別で、平林氏が前掲引用に続けて「私家版としては異例の広告まで出したこの詩集が、ぼくの知る限り当時まったく話題にならなかったのも不思議である」(同前、一四六ページ)と書いているとおり、《文藝汎論》での反響は次号の〈昭和十五年度 受贈詩集書目〉に「○昏睡季節・吉岡實(自家版)二圓」(同誌、1941年2月号、九八ページ)とあるだけのようだ。自費出版であることを宣言しているかのごとき出版広告(にもかかわらず、凡百の自費出版物でないことは広告自体が雄弁に語っている)は当時愛読していた詩人たちに向けた、詩を書く無名の若者からの自己紹介だったかもしれない。――吉岡が後年〈木下夕爾との別れ〉(初出は《朝日新聞〔夕刊〕》1979年5月18日)で次のように書いたとおり。

 昭和十五年の秋、召集されたのを契機に、私は書き溜めた詩と歌を《昏睡季節》としてまとめた。幸い二ヵ月後に召集解除になったので、自費出版して、友人知己に配った。木下夕爾から礼状がきたが面白いことに、二十篇もある詩にはふれず、三首ほどの短歌をあげて讃めていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二一八ページ)

想えば吉岡自身その随想で、文藝汎論詩集賞を受賞した木下の《田舎の食卓》(詩文学研究会、1939年10月20日)への愛着という形で《文藝汎論》への敬意と親炙を言明していた。


吉岡実の装丁作品(44)(2007年3月31日)

入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)は、O章から成る長篇連作詩。帯(表1)には横組で「死者たちが、私の目を通して/湖の夕映えを眺めてゐる。/涙してゐる。/あの猿の尻のやうにまつ赤なまつ赤な雲を見て、/たまには笑へ、死者よ。」という本文の詩句とともに、「署名入限定本/装幀―吉岡実/河出書房新社」とある(編集者が書いたものだろう)。装丁が誰の手になるか帯文に謳われているのは、かなり珍しい。本書に登場する「死者たち」は意図的に固有名詞が秘されており、私としては吉岡実装丁の《ネルヴァル覚書》(花神社、1984)についての文を読んでもらえれば充分だ。
本書の仕様は、二二〇×一八二ミリメートル・一一二ページ・上製クロス装・貼函に貼題簽。限定700部。著者毛筆署名入り。角背のクロス装の手触りや活版による本文組みは、入沢康夫の詩篇のひんやりとした熱気に通じるものがある。なお、限定版の翌1983年2月25日刊行の普及のための新装版(仕様は二一九×一五〇ミリメートル・一一〇ページ・並製紙装、基本的に限定版と同内容だが、署名用の1丁をオミットして、本扉の写植を打ちかえている)の装丁も吉岡である。大岡信の詩集《春 少女に》(書肆山田、1978)と吉岡実装丁の同《春 少女に〔特装限定版〕》(同、1981)に照らすと興味深いのだが(ちなみに、《死者たちの群がる風景》の〈K 潜戸へ・潜戸から〉は「全体が大岡信『潜戸へ・潜戸から――二人の死者のための四章』の引用である」!)、本書も限定版と新装版の判型が異なっている。新装版も組版は同じだから、その判型は限定版の左右をトリミングした恰好で、造本上の勘所は刷り位置の指定である。私は最初、本書を新装版で読んだが(新刊で出た当時、限定版が入手できなかった)、左右のアキをゆったりと取った限定版で読むと、12ポの本文組みが鮮やかで、吉岡のレイアウトの見事さを実感する。

「今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣[わか]れよう。」
その一行が好きで好きで、
そのくせ「記憶の旗」とは、それが「落ちる」とは
どういふことか、少しも判らずに……。
今だつて判つてやしないけれども。
(〈O 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》〉33節中の1節)

詩集《死者たちの群がる風景》は1983年、第13回高見順賞を受賞した。吉岡は選考委員の一人として「選考会がはじまると、私は〔白石かずこ〕『砂族』と〔藤井貞和〕『日本の詩はどこにあるか』そして入沢康夫『死者たちの群がる風景』の三冊を推した。〔……〕/入沢康夫『死者たちの群がる風景』への受〔ママ〕賞が決定した。誰れもが予感していたことかも知れない。かつての名作『わが出雲・わが鎮魂』を遠いこだまと化すほど、この長篇連作詩は、死者と生者の交感を、複雑多岐に叙述して見事であった」(《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.1、1983年3月10日、六ページ)と選評〈詩へ希望が持てた………〉に書いて、本詩集を讃えた。

入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)の函と表紙 入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔新装版〕》(河出書房新社、1983年2月25日)の表紙
入沢康夫詩集《死者たちの群がる風景〔限定版〕》(河出書房新社、1982年10月5日)の函と表紙(左)と《同〔新装版〕》(同、1983年2月25日)の表紙(右)


吉岡実の装丁作品(43)(2007年2月28日)

書肆山田の〈特装限定版詩集の御案内〉という二つ折りのパンフレット(文面には「一九八〇年十月」付の但し書きが含まれる)については、〈吉岡実の特装本〉の《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》でも触れたが、そこに見えるのは次の三冊である(惹句を割愛して仕様関係のみ録する)。

春の埋葬――森内俊雄詩集
〔……〕
オリジナル・エッチング一葉●赤坂三好
愛蔵版限定二十八部/B5判変型上製本表紙マーブル紙山羊皮背継コーネル付け布貼函入り/著者署名入り
十一月十五日刊/定価九、八〇〇円

ポール・クレーの食卓――吉岡実詩集
〔……〕
著者署名識語入り
特装版限定二十八部/菊判変型上製本表紙総革山羊皮使円〔用〕本文紙レンケルレイド布貼函入り
十一月三十日刊/三二、〇〇〇円

遠い百合――詩・小川国夫/画・司修
〔……〕
限定二十五部/小川国夫・司修署名入り
小川国夫によるオリジナル・エッチング一葉付
B5判変型二分冊/本冊「遠い百合」――本文アルシュ紙使用本書のための活版新組印刷司修オリジナル・リトグラフ十二葉入り表紙総革上製本山羊皮使用天金/別冊「星と砂丘」――小川国夫書下しエセイに画四点を印刷復原添付/併せて布貼函(司修オリジナル・リトグラフ二葉貼)入り/装釘・司修
十二月十日刊/定価一五〇、〇〇〇円

すなわち1980年10月時点で、大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)はラインナップに含まれていない。元版《春 少女に》(書肆山田、1978年12月5日)はすでに第7回無限賞を受賞しているから、上記の3冊とともに〈特装限定版詩集の御案内〉で予告されてもおかしくないのだが、まだ企画に上っていなかったか。

大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)のケースと函と表紙 大岡信詩集《春 少女に》の元版〔上〕と特装限定版〔下〕の本文ページ
大岡信詩集《春 少女に〔特装限定版〕》(書肆山田、1981年12月30日)のケースと函と表紙(左)と大岡信詩集《春 少女に》の元版〔上〕と特装限定版〔下〕の本文ページ(右)

以下に〈吉岡実の特装本〉の体裁に倣って、本書の奥付ページの記述(箱組)を転載する。

「 〔「山田」の印の体裁の凸版〕
詩集 春 少女に―特装限定版*著者大岡信*一九八一年一二月三〇日発行*装幀吉岡実*発行人鈴木一民発行所書肆山田横浜市西区高島二―一一―二―八〇九電話〇四五(四五三)三五九八/〇三(九八八)七四六七*印刷蓬莱屋印刷秀英社野崎勝一製本橋本保三*定価四八〇〇〇円*本冊は限定三十八部の 十 番」

本書の仕様は、本文二色刷(本文組は元版の90%サイズに相当)・二〇九×一三一ミリメートル・一一二ページ・上製総革装・貼函・段ボールケース(背に書名ほかを、平に記番ほかを記載した題箋貼)。限定38部。著者毛筆識語(「耳ヲ彩ルモノ/スナハチ言辞/彩ラレタル耳/スナハチ莞爾」)、毛筆署名入り、落款。
吉岡の《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》(装丁者のクレジットはない)とよく似たシンプルにして豪奢な装丁で、とりわけ革の赤色が美しい。ただ残念なことに、本文のインキ(スミ・特色とも)の乗りが悪く、というよりページによってはかすれ気味のところさえあるのは、最高の資材に最高の印刷に最高の製本、という特装限定版の原則から外れるものと言わざるを得ない(ただし、所蔵の「十番」本を見ただけなので、他の本がどうかはわからない)。それよりも注目したいのが、本文版面の刷り位置である。元版のノド空きはそうではないのだが、特装本はノド寄りの行がページをまたいで他の行間と同じに見えるくらい狭く配置されている(写真参照)。総革突きつけ表紙のノドは紙装丸背表紙のそれよりはるかに開きにくいから、この指定は過激である。通常ならノド寄りの1行は削って、現行ノンブル(ノド寄りの2行めに揃えた「隠しノンブル」)の上に合わせて配置するところだ。本書の〈解題〉を引く。

『春 少女に』
一九七八年十二月五日発行 発行者山田耕一 神奈川県横浜市西区高島二―一九スカイビル二階 書肆山田 二三〇_×一七五_ 一〇六頁 並製フランス装 表紙絵中西夏之 定価一六〇〇円 本文新字旧かな また本書には次の特装限定本が作られた。
特装本『春 少女に』
一九八一年十二月三十日発行 発行者鈴木一民 神奈川県横浜市西区高島二―一一―二―八〇九 書肆山田 二一六_×一四〇_ 一〇六頁 上製皮装 丸背 ビニールカバー付 クロス函入 ダンボール保護カバー付 装幀吉岡実 限定三十八部 定価四八〇〇〇円 本文新字旧かな。
(《大岡信全詩集》、思潮社、2002年11月16日、一七三七ページ)

吉岡実は第9回高見順賞の選評で「〔……〕事務局から、大岡信詩集《春 少女に》の発行日が、十二月五日になっているので、除外するとの報告を聞いた。今年は、五十代の人の詩集に、すぐれたものがいくつかあったが、私はひそかに、《春 少女に》を推す考えできたので、とまどってしまった」(〈感想〉、《現代詩手帖》1979年2月号、一六〇ページ)と元版に言及しており、高く評価していたことがうかがえる。吉岡は大岡のこの詩集に、無限賞ではなく高見順賞を取ってもらいたかったに違いない。そうした想いも籠めて、詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の装丁の余勢をかって本書の装丁に臨んだであろうことは、ほぼ確実である。集中では〈馬具をつけた美少女〉――なんと吉岡実的な題名だろう!――という詩篇が好ましい。


吉岡実の装丁作品(42)(2007年1月31日)

飯島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)は懐かしい本である。1970年代の末、私は早稲田大学のフランス文学科で村上菊一郎先生から卒業論文の指導を受けていた(村上訳のボードレール《悪の華》が進路を決定したようなものだ)。といっても先生はおおらかで、好きなようにお書きなさいという調子だったから、私は研究室にあった濃緑の総革装アポリネール全集を横目で見ながら、明治大学の飯島耕一さんのアポリネールの演習にもぐりこんだ。プレイヤード版のアポリネール集は詩集と散文集を参考程度に読んで、当時出たばかりの青土社版邦訳全集や、ピエール=マルセル・アデマのアポリネール伝、そしてもちろん飯島さんの《アポリネール》を手引きにして、詩集《アルコール》について卒論をまとめあげたのだった。
私が大学を出た年に刊行されたのが本書である。詩歌をめぐる一般書だけに、索引はついていない(もっとも、目次には「*「詩人の笑い」に登場する詩人たちを助けて順次登場する連衆」の名が小活字で掲げてあり、索引と似たような役割を果している)。初読時の私は自分用の索引を作っていて、ふたりの詩人の登場するページを紙片にメモ書きしてある。詩人のひとりはギヨーム・アポリネールであり(「9〜18、34、36〜37、40、77、88、103、140、143、176、180」)、もうひとりは言うまでもなく吉岡実である(「215、234、238〜240」)。

 吉岡実は一九一九年生れ。黒田三郎、中桐雅夫らと同年である。東京に生れた。十代の終りから詩作をはじめ、北園克衛に影響される。戦中は輜重兵の一兵士として満洲各地を転々とした。戦後、彼はほとんど一人で詩を書いていて、詩集『静物』を出し、さしたる反響もなく、詩作の放棄も考えていたときに、偶然のことにぼくは彼と出会った。以後彼は多くの詩集を刊行した。
 吉岡実の詩には終始異様な諧謔がつきまとう。エロチスムもつねにこれと同行している。ここでは「僧侶」のごくはじめの部分を引用しておこう。(本書、二三八ページ)

飯島さんは〈僧侶〉(C・8)から1と2を引いたあと、「黒田三郎の詩のユーモア、〔……〕吉岡実の詩の笑いの要素、みな種類が異る。しかし戦後の詩のすぐれた部分がみな笑いの要素と直結していることがわかると思う。吉岡実の三年前の『サフラン摘み』は、戦後詩三十年の棹尾を飾るような詩集だったが、全篇、蒼白な、凍りつくユーモアにみちていたと言って過言ではない」(本書、二四〇ページ)と書いている。角川書店の《短歌》に、上掲引用を含む第九章(終わりからふたつめの章)を書いたころ、本書を吉岡実の装丁で、という飯島さんの意向が固まったのだろうか。
本書の仕様は一八八×一二六ミリメートル・二六六ページ・上製紙装・ジャケット。装画のクレジットはない。ところで、このジャケットの文字の色使いが面白い。平は書名がスミ文字、著者名が色文字だが、背ではその逆の配色になっているのだ。本扉を見ると、文字はみな濃い灰色(スミではない)で、カット(鹿だろうか)は鮮やかなオレンジ色。ジャケットの平も、スミ文字・色文字・濃い灰色のカット・スミ文字と、本扉と同様の色使いを展開することで、心地好いリズムを醸している。

飯島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)の本扉とジャケット
飯島耕一《詩人の笑い》(角川書店、1980年6月30日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(41)(2006年12月31日)

西脇順三郎の詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)は、2000行の長篇詩《壌歌》(筑摩書房、1969)に続く、日本語による一二番めの単行詩集。帯に「現在を洞察し現実を超越して永遠を啓示する独得の諧謔と深い哀愁の世界。巨匠最新の詩作三十一篇に書下し十篇を収めた豪華版詩集」とある。瀧口修造に与えた〈テンゲンジ物語〉、村野四郎に与えた〈多摩人〉、森谷均を追悼した〈絶壁〉と並んで、「ヨシキリのヨシオカのような」という詩句のある〈ヨシキリ〉を含む1967年から70年までの詩篇を収める。だがここで引きたいのは、それらのいずれでもなく〈元旦〉である。

元旦|西脇順三郎

ああなんと
春ランの香る
はてしなくめぐる
この野原にさすらう
人間のために
あかつきの土の杯に
霜の濁酒をそそいで
今朝の天空の光りを祝う
なんという栄華か
豆のかゆをすすつて
あつい生命のほとばしる
みなもとをひそかに祝う
ああ遠くつるのなく音に
旅人はふるえる
ふるさとへ永遠の回帰か

新年を寿ぐ詩の美しさは、比類がない。私はかつて「春蘭のかをる栄華や粥すすり鶴の音とほく野辺をさすらふ」(歌集《通奏低音》、文藝空間、1985)なる一首を、本篇から創出したものだ。
本書の仕様は二〇八×一四一ミリメートル・一八二ページ・上製角背クロス装(背革の継表紙)・貼函。別丁本扉の前に、ペン書き署名用の薄紙一葉。限定1200部、奥付にナンバリングマシンによる記番、「順」の押印。本文は12ポで12行とゆったり組まれ、ひらがなは捨てがな(小字)を使用していないため、年ごとに眼の衰えを感じる者にとってはまことに心地よい組版である。筑摩書房在籍中の装丁だけに装丁者のクレジットはないが、吉岡実は〈西脇順三郎アラベスク 8 《人類》出現〉に「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が経っている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二三九ページ)と書いている。

西脇順三郎詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)の函と表紙
西脇順三郎詩集《鹿門》(筑摩書房、1970年7月10日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(40)(2006年11月30日)

森茉莉の《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の〈後記〉には「原稿紛失の記」なる副題がある。「このたび、この(記憶の絵)という本を出すについては、吉岡実氏のお協力をわずらわした。だが、協力をして載〔ママ〕いたのに、大変なお厄介をおかけする結果となった。私という人間に何ごとかでかかりあう人々は誰でも、大変な厄介なことを引きうけたことになるのである。今度の出版についてはどんな厄介ごとが起ったかというと、次の如くである。吉岡氏が暑い最中を何度か、私の部屋の近くの邪宗門という喫茶店にお出でになる内に、本の造りのことも定り、頁数が少し足りないのを補うための書き足し十篇(三十枚分)も出来上り、」(本書、二二三ページ)以下、吉岡実が〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉で引用しているように、森が完成した原稿(1966年2月17日から6月15日まで《熊本日日新聞》に100回連載した〈日々の想い〉に新稿を加えたもの)が入稿直前に失せ、苦心のすえ原稿を再生、ひと月遅れで入稿したのだった。吉岡が先に装丁を手がけた《父の帽子》(筑摩書房、1957)と《靴の音》(同、1958)には後記がないから、本書に〈後記〉が付されたのは初めの原稿がなくなったせいかもしれない。さて、本文から引くならやはり〈卵〉だ。

新鮮な卵の、ザラザラした真白な殻の色は、英吉利麺麭の表面の細かな、艶のある気泡や、透明な褐色の珈琲、白砂糖の結晶の輝き、なぞと同じように、楽しい朝の食卓への誘いを潜めているが、西班牙の街の家のような、フラジィルな(ごく弱い、薄い)代赭、大理石にあるような、おぼろげな白い星(斑点)のある、薔薇色をおびた代赭、なぞのチャボ卵の殻の色も、私を惹きつける。たべるのには代赭色のが美味しく、薔薇色をおびて、白い星のあるのはことに美味しいが、楽しむために、真白のも買ってくる。朝の食卓で、今咽喉に流れ入った濃い、黄色の卵の、重みのある美味しさを追憶する時、皿の上の卵の殻が、障子を閉めたほの明るい部屋のように透っているのを見るのは、朝の食卓の幸福である。(本書、四八〜四九ページ)

森茉莉は吉岡実が《ちくま》の編集長になった最初の第21号(1971年1月)に〈森の中の木の葉梟〉を寄せている(翌1972年8月にも〈マドゥモアゼル、ルウルウ〉を寄稿)。小島千加子による本書〈後記〉解題の「著者と近づきになった人で、何らかの当惑乃至困惑を味わった人もいると思うが、その頂点に立つのが吉岡実である。詩人の吉岡実が直面した津波のような災難の前には、他の人々は黙って脱帽するしかない。著者の珍らしく殊勝な感じの文章が、それをよく伝えている」(《森茉莉全集〔3〕》、筑摩書房、1993年9月20日、六九四〜六九五ページ)を考えあわせると、これは吉岡の原稿依頼に応える形で、森なりに返礼したものか。
本書の仕様は一八八×一二九ミリメートル・二三四ページ・上製紙装・貼函。装画・落合茂。森の本では《靴の音》以来一〇年ぶりの吉岡装丁だが、この間で書籍の印刷技術は大きく変化した。本書は本文こそ活字(活版)印刷だが、函は写植・平版印刷へと替わった。表紙の平のカット(テントウムシ)と背文字は金で箔押しが施してあり、資材面でも、単行本のある臨界を示している。

森茉莉《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の本扉と函
森茉莉《記憶の絵》(筑摩書房、1968年11月30日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(39)(2006年10月31日)

森茉莉の《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日)は、山田珠樹との離婚の経緯を小説ふうに書いた〈記憶の書物〉など、全10篇を収めた第二著作集。吉岡実は前作《父の帽子》(筑摩書房、1957)に続いて、造本・装丁を担当している。

 私にとつて、「森鴎外」といふものについて書くことはひどく難しい。私は「森鴎外」といふ人を、よく識らないからで、ある。鴎外について書くのには、私はあまりに何も識らない。私の知つてゐるのは、その膝に乗つて体を揺り、歓びに満ちて胸に寄りかかつた父で、あつた。公園のベンチに腰をかけ、微笑した顔を小刻みに肯かせて、私を側へ招ぶ父で、あつた。生温い親〔ママ〕衣の背中に私を寄りかからせた儘で、屈んで書物を読む父で、あつた。(本書、二七ページ)

吉岡が〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉で一部を引いている〈森鴎外――鴎外と獅子〉の冒頭の段落だ。一体に森茉莉には妙な処で読点を打つ癖があり、私はこの「で、あ」のような打ち方が好きでない。「私は「森鴎外」といふ人を、よく識らないからである。〔……〕私の知つてゐるのは、その膝に乗つて体を揺り、歓びに満ちて胸に寄りかかつた父であつた。公園のベンチに腰をかけ、微笑した顔を小刻みに肯かせて、私を側へ招ぶ父であつた。生温い襯衣の背中に私を寄りかからせた儘で、屈んで書物を読む父であつた」のほうが、よほどエレガントではなかろうか。
本書の仕様は一八〇×一二五ミリメートル・二一〇ページ・上製紙装・貼函。奥付は前作とは異なり、本文用紙に印刷されている。だがそれが、右ページで終わった本文後にまるまる一丁(表裏のページ)の白があって、本文の最終二〇二ページの対向にではなく二〇五ページめに配されているのはどうしたことだろう(二〇三ページめなら改丁で、なんの問題もない)。
本書の装丁は《父の帽子》を踏襲している。ところで、森茉莉は続く第三著作集の《濃灰色の魚》も筑摩書房から1959年12月15日に出している。毎年1冊刊行というハイペースだ。《濃灰色の魚》の装丁は栃折久美子だが、本扉の文字処理は吉岡の《父の帽子》《靴の音》と同じで、三部作を意図しているに違いない。一方、表紙のカット(吉岡装丁の2冊は表紙に書名だけ)には栃折らしい工夫がこらされている。濃灰色の横長不定形の色面に魚の形にも見える輪郭を描きこみ、中に「こいはい いろの/さかな」とひらがなで書いてあるのだ(線画・書き文字とも白ヌキ)。
《靴の音》の奥付裏には、吉岡がレイアウトしたものと思しい前作の広告が載っているので、掲げておく。吉岡は、この年11月20日に書肆ユリイカから《僧侶》を出しており、著者も吉岡を筑摩書房の社員であると同時に、詩人として認めたことだろう。なお本書は、林哲夫《文字力[もじりき]100》(みずのわ出版、2006)に、函・表紙の書影とともに掲載されている。

森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の本扉と函 森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の奥付裏広告
森茉莉《靴の音》(筑摩書房、1958年10月20日〔写真は同年11月30日発行の二刷〕)の本扉と函(左)と同・奥付裏広告(右)


吉岡実の装丁作品(38)(2006年9月30日)

森茉莉の《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日)は、文壇デビューのきっかけとなった随想集。小島千加子の〈解題〉に「与謝野寛・晶子の主宰する短歌雑誌「冬柏」に、著者は三十歳頃から随筆を寄せたり、鴎外選集の月報などに、鴎外にまつわる幼時の思い出を書いたりしていた。それらに未発表原稿を併せてまとめた一冊である」(《森茉莉全集〔1〕》(筑摩書房、1993年7月20日、六三五ページ)とある。同社から刊行されることになったのは、集中の一篇〈「半日」〉が《現代日本文学全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1953)月報に発表されたことがきっかけだったのだろうか。――わたしが〈父の帽子〉を現代国語の教科書で読んだとき、鴎外はむろん知っていたが茉莉は未知の書き手だった。以来、森茉莉の熱心な読者でないため、本書にまつわる著者の証言を詳らかにしないのは残念である。
吉岡実は「私は縁あって、処女出版の『父の帽子』と、二冊目の『靴の音』の造本・装幀を、手がけている。昭和三十二年ごろのことだから、思えば旧くからの知り合いということになる。常に親しくしていたわけではないが、身辺を飾らぬ人柄と創造精神には、心惹かれていた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三四八ページ)と、追悼の意をこめて〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉に書いている。
《父の帽子》の仕様は一八〇×一二四ミリメートル・二〇八ページ(奥付は後見返しの本文対向ページに貼付)・上製紙装・貼函。本書の装丁上のポイントは「・」(中黒[なかぐろ])の使い方にある。函の平には横書きで「父の帽子・森茉莉/〔果実のカット〕/筑摩書房・1957」、別丁本扉には縦書きで「森茉莉・父の帽子〔赤で印刷〕・筑摩書房1957」とある(最後の「筑摩書房1957」は、発行所と出版年を二行に割ってあるのが珍しい)。森茉莉、父の帽子、筑摩書房の三要素は欠かせないから(本体や函の背文字はそうなっている)、1957が入ってきたとき、これら四つを中黒で括ることで要素数を減らしてレイアウトしたものか。

 下の部屋部屋はいつも、静かだつた。夏の真昼、蝉の声に囲まれた家の中を歩いて、東の端の部屋へいくと、父が本を読んでゐた。白い縮の襯衣と、同じ洋袴下を着た父は膝を揃へて坐り、畳に肱をついてゐる。開いた本の頁の端を象牙色の手が軽く、抑へてゐる。余り深く截らない真白な爪をつけた指が、本の頁を持つてめくる。白い、ザラザラした紙の上には黒いかぶと蟲のやうな字が、蟲の喰つた跡のやうな模様を白く残してきつちりと、並んでゐる。薄緑や薔薇色に光る貝殻の灰皿の上には、白い灰の積つた葉巻が、載つてゐる。襯衣の背中に顔をつけると、洗つたばかりのやうな清潔な皮膚の匂ひがした。(本書、二三ページ。ルビは省略した)

この〈幼い日々〉に限らず、森茉莉の文章は旧字で読みたいところだが、新字に改めてもその香気が失せないのは見事というほかない(《森茉莉全集》に倣って、「蟲」を「虫」としなかった)。

森茉莉《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日〔写真は同年10月25日発行の四刷〕)の本扉と函
森茉莉《父の帽子》(筑摩書房、1957年2月15日〔写真は同年10月25日発行の四刷〕)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(37)(2006年8月31日)

保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)は、マルセル・プルーストの美学の萌芽を初期の美術批評に求め、思想と文体の成長過程をたどることで、大作《失われた時を求めて》誕生の秘密に迫る思索の書である。保苅氏は本書の続篇と言える《プルースト・夢の方法》(筑摩書房、1997年1月25日)の〈あとがき〉に「一九七三年に、はじめてわたしの小文が「ちくま」に掲載されたのも淡谷〔淳一〕さんからの依頼があったからで、当時編集長だった吉岡実氏がその小文について漏らされた感想をそっと教えてくれたことなども、いまだにはっきりと覚えている。昨日のことのようだといっても、嘘にはならない」(同書、二四九〜二五〇ページ)と書いている。その《ちくま》掲載の文章は〈プルーストの出発点〉(1973年11月号)で、保苅氏は自身訳した《プルースト全集13〔ジャン・サントュイユL〕》(筑摩書房、1985年7月30日)の〈解説――『ジャン・サントュイユ』のために〉で引用している。本書に結実する着想の、最も早い時点における表明だろう。

彼〔プルースト〕は尺度を以って存在を計量しない。無知の眼で外界や人間の心的現象を熟視して対象の無垢な生命を感得しようと決意する。(中略)/デカルト的と形容してもいいこの方法的決意は〔……〕対象との直接的接触にすべてを賭ける画家の仕事に惹きつけられてゆく必然をも明らかにしている。事実この方法の自覚は十八世紀の画家シャルダンの絵の秘密を分析することではじめて彼に与えられるのであって、『シャルダン』(一八九五年九月)を書き上げると彼は直ちに『ジャン・サントュイユ』に着手する。つまり方法の実践である。そしてこの小説の執筆の過程で叙述、構成、文体等の問題が具体的な形で現われてくるだろう。こうして彼の長い模索が始まる。プルースト二十四歳の秋である。(同書、三八六ページ)

天沢退二郎は「一時期筑摩書房の「ちくま」という小雑誌の編集を吉岡さんがされてましたが、編集者としてそこに集ってくる文章に対してひじょうに厳しい批評を持っていましたよね」(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991、四八ページ)と語っており、〈プルーストの出発点〉についての吉岡の感想は書き手を鼓舞する類のものだったに違いない(保苅氏は1978年2月にも、吉岡編集の《ちくま》に〈吉田健一氏追慕〉を寄せている)。かつての「小文」からほぼ十年後、筑摩書房を退いていた吉岡に本書の装丁を依頼したのは、担当編集者の淡谷さんだろう。
《プルースト・印象と隠喩》の仕様は一八七×一二九ミリメートル・三〇六ページ・上製クロス装・ジャケット。濃い青緑のクロスにグレイの背文字が静謐なたたずまいを見せる表紙は、吉岡実装丁のなかでも特筆に価する。それに較べると、紙ジャケットはあまりに簡素にすぎよう(仮にそれが、表紙をこそ観てほしいという装丁者の読者への目配せであったにしても)。本扉の図像は、ラスキンによるスケッチ(ボッティチェリ描くところのエテロの娘)を繰りかえしコピーしたためか、諧調のない版画のような仕上がりになっている。なお、1997年10月刊のちくま学芸文庫版《プルースト・印象と隠喩》のジャケットには、シャルダンの油彩〈野いちごの籠〉が掲載されている。

保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)のジャケットと表紙 保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)の本扉
保苅瑞穂《プルースト・印象と隠喩》(筑摩書房、1982年8月30日)のジャケットと表紙(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(36)(2006年7月31日)

大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)は吉岡実が装丁した初めての大岡信の著書である。そのあたりのことを本書の担当編集者・八木忠栄が次のように書いている。「大岡さんがおよそ一年間、フランスとアメリカで過ごす予定で日本を発たれる三日前、吉岡実と私は深大寺のお宅を訪ねた。出発までに『水府』の装幀プランを、どうしても大岡に見せておきたかった。この日の吉岡さんは装幀者として同行された。〔……〕装幀については、吉岡さんしかいないとひそかに決めていた。吉岡さんのかっちりとした装幀は定評がある。しかもお二人は古くからの親友だが、大岡さんの数ある著書のうち、まだ一冊も吉岡さんは装幀していなかった。/ブルーの花模様の輸入紙を思いきって表紙に使い、白の背クロス、グレイのさらりとしたスマートな函。スケッチと見本紙に見入り、大岡さんは真顔でうなずき、気に入ってくれた。/帰りに、吉岡さんとつつじヶ丘駅前の喫茶店に入った。「気に入ってくれて、ホッとしたよ。」眼をギョロつかせながら、装幀家は安堵感を素直にあらわして、コーヒーをすすった。/大岡さん滞仏中に『水府』はできあがった。詩集のできあがりには、著者も装幀家もともに満足してくださった」(《詩人漂流ノート》、書肆山田、1986年8月25日、一二〜一三ページ)。一方、大岡信は次のように記している。

 私はこうして五十になった。一種の中仕切りとしてこの詩集をまとめることに、結果としてなった。それで、畏友吉岡実に詩集の装幀を依頼した。彼は筑摩書房在勤中から装幀を手がけていて、退職後の今はその数もぐんとふえている。吉岡さんに装幀を、と願っている人々も少なくない。私は何かの意味で私にとって記念すべき本の時に彼に頼むつもりでいた。『水府』という詩集はそれに近い。/吉岡実は快諾してくれた。蒼い花模様の輸入紙の現物持参で、わざわざ拙宅に足を運んでくれ、装幀プランの図とともに、こうなるよという概略を示してくれた。いい本ができること疑いなしというプランだった。/「自分の本に使いたい案なんだよ。自分でやってみたいと思うものでなくちゃあさ」/吉岡実はそう言った。同感、共感。/私は今までも、加納光於、宇佐美圭司、中西夏之など、敬愛してやまぬ画家の友人たちに本を飾ってもらったことが多い。自装も何冊かしたことがある。吉岡実の装幀は、それらとはまた別の小宇宙だ。私は幸せを感じた。(《人麻呂の灰――折々雑記》〈友達の装幀〉、花神社、1982年11月25日、五五〜五六ページ)
本書の仕様は二一四×一四二ミリメートル・一六二ページ・上製紙装(背クロスの継表紙)・機械函に貼外題。佳篇〈螢火府〉の詩句「マルタもハヤも野の中央を縦横し」のマルタとハヤは、題辞に大岡信を引いた吉岡の〈円筒の内側〉(H・28)の本文にも登場する。

大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の函と表紙
大岡信詩集《水府 みえないまち》(思潮社、1981年7月1日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(35)(2006年6月30日)

前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)を最近まで見ることができなかった。吉岡家蔵の装丁作品記録(《現代詩読本――特装版 吉岡実》で年譜を編む際に、吉岡陽子さんからお借りした資料のひとつ)に、年号と版元名だけで書名不明の1冊があった。該当する年代の白玉書房の刊行図書を国会図書館で調べてみたものの、〈吉岡実書誌〉の〈装丁作品目録〉を編む時点ではつきとめられなかった。先日、インターネットの古書情報で本書の装丁が吉岡実によるものだと知り、さっそく購入した。ちなみに本書は国会図書館のNDL-OPACには見えず、《繩文紀》で検索すると、収録書として《前登志夫歌集》(小澤書店、1981)、《縄文紀〔短歌新聞社文庫〕》(短歌新聞社、1994)、《現代短歌全集〔第16巻〕》(筑摩書房、2002)の3冊が該当する。
吉岡実は、筑摩書房での業務を除けば、親しい詩人や作家から依頼されて装丁することが多かったわけだが、本書のように著者もしくは出版者(編集者)からの依頼でその一点だけ吉岡実装丁というケースも見うけられる。著者の〈あとがき〉は「この集に收めた歌五八八首は、昭和四十六年秋から、ことし春までの七年にわたる間に出來たものである。『子午線の繭』、『靈異記』に續く第三集である」(同書、二三六ページ)と始まり、「この集のために、裝幀の勞を施してくださつた詩人の吉岡實氏と、誠意をもつてこの本づくりに萬端の努力を惜しまれなかつた石川雄氏に、心から感謝申し上げる。/昭和五十二年九月盡日/吉野山中の茅舍にて/前 登志夫」(同書、二四四〜二四五ページ)と終わる。旧字・旧かなによる本文表記は、前登志夫の端正であると同時に猛猛しい詩情を盛るのにふさわしいと思われる(以下、漢字は新字に改めて引く)。

一茎の菜の花たちて天も地もしろく曇りき童蒙の日は
雪嶺の麓を行きてつゆふくむ鬣[たてがみ]ありきながき眠りに
わが額[ぬか]に嵌むべき星かみんなみの森の異形は暁に見つ
谷蟆[たにぐく]のさ渡る極みかなしみは春の岩間に滴りやまず
草の上をとびとびにくる夕ひかり夜の梯子となりゆくひかり

本書の仕様は二二一×一四二ミリメートル・二五八ページ・上製布装・貼函。短歌新聞社文庫版(1994年12月25日)の裏ジャケットに、函のモノクロ写真とともに「昭和52年11月10日白玉書房発行。A5変型判上製箱入246頁定価3500円。1頁3首組588首収録。装釘・吉岡 實」とあるが、装画(函・扉とも同じ絵柄)がだれによるものか、本書にも記されていない。太太とした明朝体の文字と拮抗する呪術的なカットは、落合茂さんの手になるものかもしれない。

前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)の函と表紙
前登志夫歌集《繩文紀》(白玉書房、1977年11月10日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(34)(2006年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)は、同年8月刊行の吉岡実の詩集《神秘的な時代の詩〔普及版〕》とほとんど同じ体裁で刊行された。飯島は前年に行なわれた吉岡との対話〈詩的青春の光芒〉で、こう口火を切っている。

 いつか、書肆山田でね、『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』という贅沢な詩集をつくったんだけれど、あれの、なんか普及版をつくりたいというんですよ。あれは百部つくったんだけど、ばか高い本だったから、ぼくもちょっとうれしい反面、がっかりしてね。立派な本でもあんまり高いとね、なんかケチョンとしちゃうんですよ。それに百部だったから、もう少したくさん適当な値段でというので、それはまあ賛成してね。ただ、おんなじ本をつくってもしかたがないから……思いついて、「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」っていう長い詩をいちばんラストにおいて、その前の詩をずーっと集めてみたらどうだろうかというんでね。ちょうど一九五六年から一九六六年までのほぼ十年間ね。その中心に「鰐」の時代があるんですけれど、そういう十年間の詩集というのにしたいんですよ。だから『何処へ』より前の詩から入るわけ。今まで詩集に入れてないのもあるんですよ。「鰐」の創刊号に出した詩とかね、そういうのを入れてぼくがちょうど二十代の半ばで五六年っていうと吉岡さんと初めて会ったときなんですよ。(《ユリイカ》1975年12月臨時増刊号、一九二〜一九三ページ)

限定版を見ていないので両者を比較できないのが残念だが、単に装丁を変えただけでなく内容も新しくなっているようだ。その間の事情を飯島は〈作品ノート〉に書いている。「詩集『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』は、一九七一年十月、山田耕一が社主だった頃の書肆山田(東京都台東区浅草一丁目)から初版が刊行された。最初、評論集『シュルレアリスムの彼方へ』に収めていた長詩「プロテ」は、改作ののち、さらにこの詩集に収め、それになおも手を入れてようやく本巻の形に定着した。/この詩集は最初は八〇部の限定で、のち一九七六年に装幀吉岡実により、『何処へ』や未刊の詩「騒がしい鎮魂歌」などとともに、増補版として目黒区自由が丘に移った書肆山田から再刊行となる。ここには「鰐」の頃の詩が多く入っている」(《飯島耕一・詩と散文 2》、みすず書房、2001年2月1日、三一八ページ)。本詩集には清岡卓行による《何処へ》の解説が再録され、巻末に大岡信と飯島の対話〈「鰐」とその周辺〉が添えられ、吉岡実の装丁、とかつての《鰐》の同人が(岩田宏を除いて)紙上で顔を揃えた。
装丁に関しては、臼田捷治が「飯島耕一の『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』(書肆山田、七六年)も徹底して明朝体が使われている。吉岡の好んだフランス装であるが、ここでの装飾要素は、瀟洒な囲みの飾りケイである。函は植物模様のケイであり、表紙は刺繍文様風のケイという違いはあるが、じつに垢抜けした、趣味のよい仕上がりとなっている」(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四ページ)と書いている。本書が縦長の変型判なのは、もしかすると書名が《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》とかなり長めなのと関係があるかもしれない(本扉は小口に寄せた縦一行ベタ組で、色刷の書名がスミ文字の著者名と出版社名にはさまれている)。仕様は二一九×一三〇ミリメートル・一七〇ページ・並製フランス装・機械函。《神秘的な時代の詩〔普及版〕》と比較するため、両者の違いを摘する。

本文ページの左右1mmの違いは製本上の誤差だろう。前者はノドの空きが10mmほどで、やや狭く感じる。それを改善したのだろうか、後者では約15mmと広くなっている。外装だけでなく本文組版まで吉岡の手になるものか定かでないが(おそらくそうだと思うが)、この措置は奏効している。

〔付記〕
《アメリカ》(思潮社、2004)は飯島さんの最新詩集だが、その一篇〈荻生徂徠 走る〉の後に「鴎外の『北條霞亭』をもその後読んでいて、少し驚いたことがあるので記しておきます。巣鴨の真性寺と言えば吉岡実の墓所ですが、霞亭の墓も同じ真性寺にあり、墓碣銘[ぼけつめい]は頼山陽によるという」(同書、一四三ページ)と見える。

飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)の函と表紙 吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔普及版〕》(書肆山田、1976年8月15日)の函と表紙
飯島耕一詩集《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》(書肆山田、1976年3月15日)の函と表紙(左)と吉岡実詩集《神秘的な時代の詩〔普及版〕》(同、同年8月15日)の函と表紙(右)

〔2006年6月30日追記〕
《ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩》の限定版について、《飯島耕一〔現代の詩人10〕》(中央公論社、1983年10月20日)の〈鑑賞〉で平出隆が書誌を記している。まだ本書を見ることができないので、該当箇所を引用させていただく。「詩集『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』は一九七一年十月、書肆山田から限定八十部で刊行された。「椅子の記憶」「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」の二章から成り、前者には「椅子の記憶」「飛ぶものの記憶」「都市歩行の意識」「この都市」「食器の予感」の五篇、後者には「ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩」「プロテ」の二篇が収められている」(同書、四七ページ)。「一九七八年に刊行された、その時点での全詩集というべき小沢書店版『飯島耕一詩集』では、〔……〕七一年版『ウイリアム・ブレイクを憶い出す詩』に収められた、タイトル・ポエムを除く全六篇が独立して『プロテ・椅子の記憶』なる章が詩集としてあらたに立てられている」(同書、四八ページ)。


吉岡実の装丁作品(33)(2006年4月30日)

入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)には想い出がある。〈吉岡実の話し方〉に「ここに明治大学詩人会の忘年会(1984年12月9日、東京・下北沢)でのスピーチの録音があるので、所蔵のテープから起こしてみよう。/司会者の「今日は明大詩人会のためわざわざおいでくださいまして、ありがとうございました。それでご来客の言ということで、入沢〔康夫〕先生と吉岡実さんにひとことずつお願いします」の口上のあと、拍手で迎えられた吉岡は一分三〇秒ほどスピーチをしている」とあるまさにその日、初めてお目にかかる入沢さんに署名していただくべく持参したのが、本書だった。私は卒業論文こそアポリネールだったが、ネルヴァルにも大いに関心があったから、当時は研究書として読んだように思う。今回本書を再読して、「ネルヴァル研究三十年の果実」(帯文)であるのはまぎれもないものの、詩人・入沢康夫の作品という思いを深くした。詩篇〈銅の海辺で〉(詩集《死者たちの群がる風景》では「――いま一人の死者のために」だった題辞が「――Gerard de Nervalに」という献辞に改められた)が序詩として掲げられており、巻頭から研究書とは微妙に調子が異なっている。著者が「番外の章」と呼び、「ネルヴァルとラフカディオ・ハーンとの間の因縁話を書き綴っ」(本書、二〇九ページ)た〈16――愛神の島にて〉の章は、それまでの各章を中空に引きあげている鈎のようで、とりわけ心に沁みた。だが私は、本書の別の一節に慄いた。

また、J・セヌリエ作製の詳しい『ネルヴァル書誌』(一九五九)でも、この詩〔〈シャルル六世の夢想〉〕の初出を、〔……〕一八四七〔……〕としており、その後、約十年ごとに出た二冊の『補遺』においても、この点の訂正はなされていない。しかしながら、すでに本書の2章で指摘しておいたように、一八四七は誤りで、一九四二[、、]とするのが正しいことを、私たちは現物からのコピーで確認している。〔……〕ピショワの場合も、せっかく註で日付を問題にしかけたのだから、今一歩進めて国立図書館にある現物に当ってみればよかったのにと思う。(本書、二三〇〜二三一ページ)

本書の仕様は一八九×一三〇ミリメートル・三〇〇ページ・上製クロス装・ジャケット・貼函(貼題簽)。別丁本扉のあとに、ナダール撮影の写真から画に起こしたネルヴァルの肖像が口絵として配されていて、帯と同じ薄紫色でジャケットに刷られた女性の肖像(ネルヴァルによる鉛筆デッサン〈アシーヌ〉)と対をなしている。巻末には〈ネルヴァル略年譜〉〈ネルヴァル関係邦文文献抄〉〈主要人名原綴一覧〉まであって、研究書としても遺漏がない。
〈あとがき〉に吉岡実の名は見えないが、入沢さんも編者の一人である《ネルヴァル全集〔全3巻〕》(筑摩書房、1975〜76)の刊行を吉岡が後押ししたこともあって、本書の装丁を依頼したのではあるまいか(《ネルヴァル全集》の装丁は渡辺一夫)。《ネルヴァル覚書》は、カンバス系のクロス(その色合いは、入沢さんが関わった同じ筑摩の全集でも、ネルヴァルの臙脂ではなく、吉岡が装丁した校本宮澤賢治の紺青を引いている)のかっちりとした、まことに好ましい装丁である。

入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)の函とジャケットと表紙
入沢康夫《ネルヴァル覚書》(花神社、1984年10月25日)の函とジャケットと表紙


吉岡実の装丁作品(32)(2006年3月31日)

岡崎清一郎(1900〜1986)には今日、簡便な詩集が見あたらず、ある程度まとめて作品を読もうとすると、吉岡実が装丁した《岡崎清一郎詩集》(思潮社、1970年7月1日)あたりに頼るしかないようだ。長詩で知られる岡崎だが、処女詩集《四月遊行》の短詩を引こう。

離別|岡崎清一郎

告別が掌[て]を揚げると
指の股で蝶が気絶する。

《岡崎清一郎詩集》の仕様は二二〇×一五〇ミリメートル・四六〇ページ・上製継表紙(背革・平紙)・貼函・段ボール函(貼題簽)、限定700部記番。表紙や函に見えるカットの絵柄は、詩集《白薔薇館》の〈大団円〉の一節「睡れるメジユウサでも見付てはと/私の恋人めは懼[おそ]るおそる去年の叢[くさむら]をのぞいてもゐますが はあてさてどんなものですかね。」(《岡崎清一郎詩集》、三六ページ)から採ったものかもしれない。本書に収録されているのは次の12詩集である。

  1. 白薔薇館(未刊) 鈔
  2. 四月遊行(噩〔ガク〕房所、1929) 鈔
  3. 神様と鉄砲(ボン書店、1934) 鈔
  4. 男絵袖珍版(未刊) 鈔
  5. 紫野管見(未刊) 鈔
  6. 悲心藁本(未刊) 鈔
  7. 火宅(自家版、1934) 鈔
  8. 肉体輝燿(文芸汎論社、1940) 鈔
  9. 奥方(未刊) 鈔
  10. 夏館(湯川弘文社、1943) 鈔
  11. 韜晦乃書(岩谷書店、1951) 鈔
  12. 新世界交響楽(造型出版社、1959)

一方、著者の〈後記、覚書〉に挙げられた詩集は上記の収録作品と同一ではなく、未刊詩集《天鵞絨服の紳士》に始まり最新詩集《古妖》(落合書店、1969)に至る30冊に及ぶ。すなわち《岡崎清一郎詩集》は戦前の未刊詩集を数多く含む、選詩集だったのである。1970年の時点で30タイトルとはなんとも多産な詩人だが、歿後には全5巻・3000ページになんなんとする《岡崎清一郎全詩集》(沖積舎、1987〜1989)が出ているのだから、驚くにはあたらない。吉岡実が岡崎清一郎の詩をどう読んだか知るすべがないのは残念だと思っていたら、同書の〈来簡集〉に貴重な証言があった。

 岡崎様の詩は戦前から愛読し、『四月遊行』からほとんどの詩集を持っております。この全詩集(『岡崎清一郎詩集』のこと・編集部注)によって、岡崎様の詩のよさが、広く若い人々にもわかるように願うものです。出版社の手落で、小生の名が装幀者としてないのが、残念です。よい記念なのに。(《岡崎清一郎全詩集〔第5巻〕》、沖積舎、1989年7月1日、七八七ページ)

そう、《岡崎清一郎詩集》には装丁者のクレジットがないのである。ところで、webページ〈玉英堂書店 僧侶〉に吉岡が岡崎に宛てた署名入の詩集《僧侶》が掲載されている(価格は130,000円)。日付の記載はないが、見返しの筆跡を見るかぎり、刊行して間もない献本と思しい。吉岡は私宛ての最後のハガキに「岡崎清一郎の詩誌「近代詩猟」の昭和三十四、五年に詩を発表しています」(1990年4月17日付)と書いており、自作〈夜曲〉(未刊詩篇・8)の存在は記憶にあった(初出《近代詩猟》27号の末尾「一九五八・八・四」の年は、陽子夫人によれば「一九五九」の誤り)。それらや本書の装丁のことを考えると、岡崎清一郎は吉岡実が敬愛する詩人の一人だったと思われる。

《岡崎清一郎詩集》(思潮社、1970年7月1日)の函と表紙
《岡崎清一郎詩集》(思潮社、1970年7月1日)の函と表紙


吉岡実のレイアウト(3)(2006年2月28日)

吉岡実は詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)で第7回高見順賞を受賞した。そのためだけではないだろうが、高見秋子による《樹木》送付状に「このほど「高見順賞」が思潮社の手を離れてひとり歩きをすることになったのをしおに、高見順文学振興会の会報として、同封のような小冊子「樹木」を創刊いたしました」とある第13回の同賞授賞を告知する《樹木――高見順文学振興会会報》創刊号(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙を担当している。

《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.J(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙 
《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.J(高見順文学振興会、1983年3月10日)の表紙

創刊号の仕様はA5判・四〇ページ・平綴じ。表紙は全面写真で、文字白ヌキ。副題は背後が白くとんでいるため読みにくい。目次項目とクレジット(同誌、〔一ページ〕)を引く。

第13回「高見順賞」決定
受賞詩集『死者たちの群がる風景』より
入沢康夫 受賞の言葉
――選評――
 吉岡実 詩へ希望が持てた……/中村稔 豊饒な死の世界
 篠田一士 艶なる返し歌/吉増剛造 詩のあたらしい炉に
 長谷川龍生 鳥髪は新しい光である

大岡信 高見順/高見順賞

――高見賞の詩人たち――
吉増剛造 巨大な海壁に向けて歩いて行った
三木卓 腰は痛く心は軽く
粕谷栄市 奇妙な荷物
中江俊夫 左から右へ
吉原幸子 式と法事とお酉様

寺田透 告別――追悼・鷲巣繁男

中村真一郎 vs 高見秋子 対談・現代詩の未来を拓くために

中島和夫 三国「高見順書斎」の前で

 振興会ニュース
 編集後記

表紙装幀 吉岡実
写真―表紙・本文― 今泉治身
題字―高見賞の詩人たち― 中村真一郎

〈振興会ニュース〉に「第十三回の選考をもって任期五年を了えた吉岡実氏」(同誌、三五ページ)とあるように、吉岡はこの回を最後に1979年の第9回以降務めた選考委員を退いている。
翌年の第14回は、三好豊一郎詩集《夏の淵》が受賞した。《樹木》第2号(1984年3月5日)には写真・題字・カットのクレジットしかなくて、「表紙装幀」がだれかわからない(創刊号を基に、編集部が行なったのだろうか)。この号の〈高見賞の詩人たち〉は飯島耕一、吉岡実、粒来哲蔵の3人。吉岡執筆の〈「受賞前後」の想い出〉は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収められた。吉岡の写真(下図参照)を含め、詩人の肖像は今泉治身による撮りおろしで、尾花珠樹の〈編集後記〉が撮影の様子を伝えている。

一方、吉岡実氏は「写真はいちばん厭。しばらく考えさせてよ」。それはほとんど撮影拒否に近い声。三ヵ月後、「あなたがたの熱意に負けた」と姿を現わしてくださった吉岡さん、「こうなったらどこにでも立つし、どこでも歩くよ。ただし俺が自分からカメラの前に身をさらすのは、おそらくこれが最後だ」と。人混みを縫い坂をのぼり、終着は閑静な公園のベンチ。別れぎわ、詩人は「詩は謎」の言葉をのこし、〈時空と謎とに身をまかせ〉るかのように、ふたたび都市の雑踏のなかに……。(同誌、四〇ページ)

このとき撮影した写真が、《現代詩手帖》1990年7月号〈特集 追悼、吉岡実〉の〈吉岡実、渋谷を行く〉という6点の写真から成るページになったようだ。その最初の1点は《樹木》と同じカットで、「@道玄坂「トップ」横の小路」(同誌、〔一〇ページ〕)というキャプションが付いている。

《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.K(高見順文学振興会、1984年3月5日)の表紙 《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.K(高見順文学振興会、1984年3月5日)の中面
《樹木――高見順文学振興会会報》Vol.K(高見順文学振興会、1984年3月5日)の表紙(左)と同・中面(右)

ところで吉岡実は、詩集《静物》(私家版、1955)を高見順に献呈している(同書は現在、日本近代文学館所蔵)。高見順が吉岡について書いた文章で最も重要なものは〈詩に関するメモ〉(《文學界》1959年11月号)で、それはこう始まっている(漢字は新字に統一した)。

 「ユリイカ」の伊達得夫に会つて私が、何かめざましい詩集を読みたいが何かないかと問うたら、吉岡実の「僧侶」をすすめられたのは、今年のはじめのことであつた。私はそれを読んでみた。それはまことにめざましい詩集であつた。私にとつてこの詩集を知つたことは、めざましい体験であつた。(同誌、一一四ページ)
高見順の「めざましい」ありようが伝わってくる。吉岡も《サフラン摘み》で受賞して本望だったろう。「――もし選考会で『サフラン摘み』に高見順賞をあげようということになったら、よろこんでお受けするよ。だって私は高見さんを敬愛しているし、高見賞の選考委員も信頼してるから、拒むなんてとんでもない」(《樹木》Vol.21、2003、三三ページ)と小田久郎さんが吉岡の対応を書いている。


吉岡実の装丁作品(31)(2006年1月31日)

井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)は、実質的には最初の詩集である《井手文雄詩集》(思潮社、1975)以降の詩六八篇を収める。「湯西川秘境の平家落人集落で酒を飲んだ/銚子代りの竹筒をいろりの灰につきさしてあたためた酒だ」と始まる随想風の〈平家落人集落〉のような詩も捨てがたいが、必ずしも本詩集の特徴的な作風でないため、ここでは吉岡実との関連で次の二篇を引こう。

ノーベル賞作家|井手文雄

外人墓地の近くのレストランで
ひとりコーヒーを飲んだ
すこし離れたテーブルで
少女が三人食事をしていた
その一人の
この世ならぬ美しさに惹かれた
死ぬまで美少女を愛しつづけたノーベル賞作家をふと思った
人間の悲しみ
のようなものが心にふれた
それから丘をおりて
海に近い大通りを歩いた
立ちならぶ公孫樹の
ドイツ的な太い幹と深い茂みが
気分をおちつかせてくれる
白いホテルを通りすぎてから
港に沿った公園に入った
波止場に巨きな船がよこたわっていた
いまにも銅鑼が鳴るような気がした
「永劫の旅人は帰らず」
老詩人の詩句が口をついて出た
別に意味はない――
かるく頭をふって
紅煉瓦とガス灯の街の方へ向った

鎌倉即興――瑞泉寺|井手文雄

ああ 何という
しずかな人群れだろう
老夫婦がいる
恋人同士がいる
子供づれの一家だんらん組がいる
みんな だまって
梅林をそぞろ歩いている
アンリー・ルソーの絵のように
大人も子供も
夢みるような
あどけない顔をしている
遠い明治のように
しっとりと落ちついた光景であった

〈ノーベル賞作家〉の「永劫の旅人は帰らず」は言うまでもなく西脇順三郎の詩句。「死ぬまで美少女を愛しつづけたノーベル賞作家」は川端康成以外、考えられない。財政学者としても知られた井手氏は1991年に亡くなったが、本書奥付記載の現住所は横浜市磯子区…となっている。外人墓地や山下公園は氏のホームグラウンドだったろう。〈鎌倉即興〉の瑞泉寺もたびたび訪れたのだろうか。井手氏の筆にかかると、この地もまた川上澄夫ふうの異国情緒に満ちた場所となる。ちなみに、吉岡実は1949年1月30日、梅の瑞泉寺へ吟行している。
1983年5月の日付をもつ〈あとがき〉は「終りになったが、本集刊行に当り御厚配を戴いた中島可一郎氏および装幀の労を採られた吉岡実氏に対して、深く感謝する次第である。」と結ばれている。本書の仕様は、二一〇×一四七ミリメートル・一六六ページ・上製クロス装・貼函。函・表紙の魚のカットは《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982)のカットを思わせる。
函の著者名が隠れるのを嫌ったためだろうが、帯の幅がやや狭いように感じる。帯文「孤高の学究生活者の厳しく深き内部に湧き出づる清冽の抒情。いま、勁く光り輝く詩的空間が手を差しのべる。」の冒頭一字下げにも違和感を覚える。ここはどうしたって天ツキだろう。見返しの用紙は詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)と同じ銘柄、シマメの古染(ただし斤量はワンランク下の四六〈100〉)。吉岡の同資材(現在は廃品)への愛着のほどを偲ばせる。

井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)の函と表紙
井手文雄詩集《ガラスの魚》(勁草書房、1983年7月15日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(30)(2005年12月31日)

年末年始は温泉に行くこともままならず、こたつに入ってミカンでもむきながら、種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)を開く。帯文に曰く「江戸といま 自在に駆ける 博学者/旅ゆけば 到るところに 奇談あり/酒に酔い 湯の香に誘われ 迷う道」。目次を引こう。

一 箱根七湯早まわり
二 秋葉路気まぐれ旅
三 北陸こわいものみたさ
四 佐渡めぐり狸道中
五 石見銀山埋蔵金さがし
六 旅芸人東北色修業
七 東海道こじき道中記
八 エキゾティック瀬戸内海紀行
九 伊豆八島ちんたら漂流記
十 山陰道温泉八艘とび
十一 果報は寝て待て奥州温泉記
十二 薩摩入国見たい放題
十三 江戸の道ゆきあたりばったり
〈佐渡めぐり狸道中〉の終わり近くに「その夜は両津に一泊、翌日は新潟、長岡を経て、寺泊に向かった。川路聖謨はここの、いまは公園になっている聚感[しゆうかん]園の宿で何日も何日も風まちをしたのだった。順徳天皇も日蓮も同じことをした。ここから佐渡の赤泊までの十一里半。その手に取るように見えるはずの島は雪もよいでかすんでいた」(本書、七二ページ)とあるのが嬉しい(私はこの赤泊の産なのである)。本書を読みながら、刊行に先立つこの年の春、吉岡実が念願の佐渡を訪れたことを思い出した。
〈あとがき〉にもあるように、本書は《温泉漫遊記》であってちっともおかしくないほど、各章に温泉が登場する(ちなみに佐渡では、両津の住吉温泉、椎崎[しいざき]温泉、潟上[かたがみ]温泉、新穂[にいほ〔亡母は「にいぼ」と言っていたが〕]の仙道[せんどう]温泉、尖閣湾の先の平根先温泉が見える)。その〈あとがき〉は「単行本編集に際しては、初代「書物漫遊記」以来の漫遊記編集者、松田哲夫氏の手を今回もわずらわした。挿絵装本、南伸坊氏と吉岡実氏というのがまたたのしい。以上の方がたに記して感謝する次第である」(同書、二三六ページ)と結ばれている。
漫遊記シリーズは《書物漫遊記》(1979)に始まり、《食物漫遊記》(1981)、《贋物漫遊記》(1983)、《好物漫遊記》(1985)と続いたが、この《日本漫遊記》で終わっている。吉岡が「最近出た《書物漫遊記》が送られてきた。これはユニークな読書遍歴であり、自伝小説とも考えられる。私はかねがね、種村季弘に小説を書くことをすすめてきたが、その試みがはじまったように思えた」と推薦文〈逸楽的刺戟と恩恵と〉に書いているのは、種村が「おそらく吉岡さんは、今後小説も書かれることになるのではないか」(《壺中天奇聞》、青土社、1976、二四六ページ)とその卓抜な吉岡実論〈吉岡実のための覚え書〉に書いているのと好一対をなす。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・二四六ページ・上製紙装・ジャケット。「装画・挿画」は南伸坊。吉岡実最後の装丁作品となった巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990)の前年(1989年)唯一のこの装丁は、それと対照的な生成りの和風な仕上がりである。

種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)の本扉とジャケット
種村季弘《日本漫遊記》(筑摩書房、1989年6月20日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(29)(2005年11月30日〔2009年3月31日追記〕)

吉岡実装丁の四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)は長篇の中上健次論であり、四方田氏の最初の文芸批評書である。刊行の9年後、増補改訂版《貴種と転生・中上健次》(新潮社、1996年8月30日)が出ており、その間の事情を著者は〈増補改訂版への序〉でこう書く。「本書は、一九八七年八月に新潮社より刊行された『貴種と転生』に、新たに第五章後半以下補遺までを加え、本文、註、索引の全体にわたって改訂を施し、題名をあらためたものである。先行する書物と本書の間には、二つの出来事、すなわち作家中上健次の夭折とその個人全集の完結が横たわっている」(《貴種と転生・中上健次》、〔一ページ〕)。《貴種と転生・中上健次》は初刊の《貴種と転生》を大幅に増補しており、《貴種と転生・中上健次〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001)にいたっては、組体裁が異なるとはいえ、初刊のほぼ倍に近いページ数になっている。

中上健次は全体を構成しない。ただ、強度の噴きこぼれんばかりの過剰だけを信じている。だから、ダブリンに住まう陰鬱な市民たちを素描する短編に始まって、『ユリシーズ』へと不可逆的な変容をとげたジェイムズ・ジョイス。あるいは、陳腐なミュージカルの小曲『マイ・フェイヴァリット・シングス』を素材に、演奏のたびごとに際限のない再解釈を加え、ついには原曲の数十倍の時間をもった即興行為を行なうにいたったジョン・コルトレーン。『夢の力』に収録されたエッセイのなかで、中上が両者を比べていることは興味深い。物語とは旋律[メロディ]に似ている。いくたびとなく反復し、解釈に解釈を重ねて、まったく別の作品を創造することが問題なのだ。(《貴種と転生》、一五〇〜一五一ページ)

断言とそれに正確に対応する例証の数数。それが四方田批評の最大の魅力である。私は四方田氏の〈内部の貝と外部の袋――吉岡実の海洋生物学〉(《現代詩手帖》1980年10月号〔特集・吉岡実〕)を読んだときの衝撃が忘れられない。吉岡実は四方田氏の〈吉田文憲への手紙――物語の南北について〉の「書く者は衰退し、死者にかぎりなく近付くことで、いったい何を受けとるのだろうか」(四方田犬彦《哲学書簡》、哲学書房、1987年4月20日、六五ページ)という章句から得た

「書く者は衰弱し
 死者にかぎりなく近付く」

という詩句を〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)に書きとどめている。本書の仕様は一九二×一三二ミリメートル・二三〇ページ・上製紙装・ジャケット。難波淳郎の装画は、表紙とジャケットの表1が鶴を、本扉とジャケットの表4が紅葉をモチーフにしたもの。増補改訂版(装丁は新潮社装幀室)と文庫版(ジャケットデザインは加藤光太郎)の図版は、タイの仏教寺院 Wat Khongkharam の壁画で、その採用は四方田氏が増補改訂版を別の新しい書物として世に送りだそうとしたことの証である。

四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)と《貴種と転生・中上健次》(同、1996年8月30日)、《同〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年7月10日)のジャケット
四方田犬彦《貴種と転生》(新潮社、1987年8月20日)と《貴種と転生・中上健次》(同、1996年8月30日)、《同〔ちくま学芸文庫〕》(筑摩書房、2001年7月10日)のジャケット

〔2009年3月31日追記〕
四方田犬彦《濃縮四方田――The Greatest Hits of Yomota Inuhiko》(彩流社、2009年2月10日)の著者による書きおろしのコメントに「中上健次について一年に一章ずつ、毎回百枚の作家論を執筆する。〔……〕そこで一九八三年から発表してきた中上論を纏めたのが、本書である。装丁を吉岡実さんにお願いしたところ、二つ返事で引き受けてくださった」(〈[貴種と転生]〉、同書、九四〜九五ページ)、「表紙にはタイの寺院の壁画を用いた。バンコクの出版者に許可をとろうと連絡をしたところ、仏教関係の書物なら使用料はいらないと、気前のいい返事が戻ってきた」(〈[貴種と転生・中上健次]〉、同前、二四九ページ)とある。《濃縮四方田》は、四方田氏が100冊めの著書としてそれまでの99冊の名場面を自ら選びだした「ポータブル・ヨモタ」だが、同書に上掲「中上健次は全体を構成しない。〔……〕いくたびとなく反復し、解釈に解釈を重ねて、まったく別の作品を創造することが問題なのだ」を含む一節が収録されていたのには、わが意を得た想いだった。


吉岡実の装丁作品(28)(2005年10月31日)

尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広の《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)は鼎談という形式ながら、宗祇(1421-1502)の畳字(漢字二字の熟語)をめぐる専門書の趣がある。「宗祇が独吟した畳字(漢語)折込みの連歌百韻を、連歌の面白さを味わいながら読む。和語を漢語に置きかえる翻訳者宗祇の像を時代の中に眺め、和語と漢語の関係を考える」(帯文)。本書の目次を引いておこう。

  1. 和語と漢語 はじめに
  2. 百韻を読む 初折表八句
  3. 畳字と賦物 初折裏十四句
  4. 俳諧と俳諧歌 二の折表十四句
  5. 俳諧師宗祇 二の折裏十四句
  6. 連歌の運び 三の折表十四句
  7. 須磨の月 三の折裏十四句
  8. 雪月花 名残の折表十四句
  9. 百韻を終る 名残の折裏八句
  10. 近代へ おわりに

「和歌ではとくに漢語が忌避され、確立した連歌もやまとことばで詠むという和歌の伝統をうけついでいるものですから、そこで漢語を使うというようなことは、まさに外道の沙汰ですけれども、その外道の沙汰をあえてやってみるというところに、遊びとしての連歌、俳諧としての連歌がある」(佐竹昭広の発言、同書、八ページ)というあたり、詩作における吉岡実の漢語に対する姿勢と重なるものがある(〈苦力〉の詩句「餌食する」に触れた〈わたしの作詩法?〉を想起せよ)。
佐竹氏の〈あとがき〉には「終始、会議に立ち合い、傾聴して下さった編集部の柏原成光氏、川口澄子氏、祝部陸大氏〔……〕」(同書、二七三ページ)と見え、吉岡にはこれらの編集者から装丁の依頼があったのだろう(のちに筑摩書房の社長を務めることになる柏原氏は、PR誌《ちくま》の編集長時代、編集後記で《吉岡実全詩集》の回収に触れている)。
《和語と漢語のあいだ》の仕様は一八九×一二九ミリメートル・三〇〇ページ・上製布装・ジャケット。ジャケットと本扉のヴィジュアルが写真版なのは、吉岡の装丁ではわりあい珍しい。表紙のくすんだ青の布地と銀の箔押しは、同じ筑摩書房のシリーズ〈日本詩人選〉によく似ている(もっとも〈日本詩人選〉が吉岡の装丁である確証はない)。表紙を除く帯・ジャケット・見返し・本扉の流れは、のちの谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)を思わせるものがある。同書の編集・製作の実務は《和語と漢語のあいだ》の祝部氏が担当している。

尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)の本扉とジャケット
尾崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広《和語と漢語のあいだ――宗祇畳字百韻会読》(筑摩書房、1985年6月10日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(27)(2005年9月30日)

吉岡実は何点か全詩集の装丁をしている(《清岡卓行詩集》、《定本那珂太郎詩集》などが思いうかぶ)。《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)もその一冊で、〈初期詩篇 1950〜1956〉〈道道 1956〜1957〉〈道道補遺 1957〜1959〉〈朝の河 1959〜1961〉〈夜中から朝まで 1961〜1962〉〈時間錯誤 1962〜1965〉〈血と野菜 1966〜1969〉を収めた五一四ページのフランス装は壮観といっていい。前回紹介した〈日本風景論〉シリーズのフランス装が、表紙用紙の背になる部分の天と地に切りこみを入れたうえグラシン掛けをしていないのに対して、本書は切りこみを入れずにグラシンを掛けている。折りかえした表紙の小口だけを見返しに被せてあるので、表紙と見返しのなじみはよい。本文と表紙の背での接着も、束が約二八ミリメートルあるため、まず問題はない。繰りかえし読むと背の直角が保たれないのは如何ともしがたいが。仕様は二一〇×一四一ミリメートルのA5変型判・機械函(生地のままの灰色のボール紙が印象的だ)。
吉岡実は一九六七年、大岡信・長谷川龍生・清岡卓行・長田弘との合著詩集《現代詩大系3》に詩篇を抄録するに際して、作品の選定を天澤退二郎に委ねている。吉岡の〈自作を語る〉は「私は過去二十年間に四冊の詩集を刊行した。いずれも自己の選択によるものである。こんど、私の信頼する若き友・天沢退二郎が心をこめて編んでくれた。詩篇〈僧侶〉と〈死児〉を入れることが唯一の注文である。果していかなる作品が採られ、いかなる配列を試みるのか、わからない。新鮮な不安とたのしみがある」(《現代詩大系3》、思潮社、1967年3月1日、一二四ページ)というのが全文である。もしかすると《天澤退二郎詩集》の装丁は、このときの返礼かもしれない。
本書から「中嶋夏に」と献辞のある〈姫づくし〉(詩集《血と野菜 1965-1969》所収)を引こう。

まっしろけ姫の人面ゆるぎ
降りちる壁にカギばしごのかたちして
相手の言葉はとがりにとがる
ゆるすな姫御 指踊りにわが指をとがらせ
うひうひとあらゆる水を笑わせよ
私めはとび跳ねる青汁ながしの極意
私めは機動汁すすりに跳ねますぞ
流しには植物のしわ[、、]するどく
彫りものに映る塩辛は
鳴物入りのてんぐす印[じるし]

なにしろ姫つぶしは朝のひと走り
これくらい気のいく太陽いじめは
他にありゃせんて!
蜜も濡らせぬ白指ぢごく[、、、]
ツバメのなますを地平線に
べったりぬたくって風が吹く
われらが姫の紅い裏地には
青虫どもの泡をブツブツ弾かせ
風が吹く吹く青年現場監督の
ゆうれい蕩[たら]しめが! きっと
函つぶし出水もどきで運びますぞ
ゆるゆると血こごりをいぶす姫いぶし
ゆるすぎることのない独騎行なれば
ケム出し穴はいつも新鮮でやわらかだわい
いぶし姫の横から出る手はスゴイ!
わが青空はがしてもくるむ手はないのだ
くみしいてさて映る鏡は
肉厚の女ッ葉
姫ながら特任教師のつかみ取り
ケッ体ながら私めの言葉が
記録かたがた貼りつきますぞ
そこで泣け金時姫ごろし

弓ひいてはてこれは日曜でござったか
ひとけのない殺人の髪毛現場
歩いても歩いても小舟のように
揺れて私めは姫の中
かくなれば死臭着て寝るマリリン様や
ながし目タイツのゲバルト姫や
すべて食いたまえ姫かぶらも
私めは姫につくす身であれば
これからひとり姫やぐらのてっぺんで
さて最初の解放区放送をひとくさり

この〈姫づくし〉一篇、同じような時期の執筆(詩集《血と野菜》の〈おぼえがき〉では、1966年から69年にかけてとしかわからない)ということもあって、天澤退二郎における〈青い柱はどこにあるか?〉(F・6)のように思えるが、いかがだろうか。

《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)の函と表紙
《天澤退二郎詩集》(青土社、1972年2月5日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(26)(2005年8月31日〔2005年9月30日追記〕)

塚本邦雄が亡くなって、まず手にしたのが自選歌集《寵歌》(花曜社、1987)と吉岡実装丁の《半島――成り剰れるものの悲劇》(白水社、1981)だった。《半島》の装丁については、臼田捷治氏がつとに詳しく書いている。

 この飾りケイを使った装幀は、白水社から刊行されたフランス装の〈日本風景論〉シリーズでも効果的に試みられている。私の手元には、このなかの塚本邦雄著『半島』(八一年)があるが、外函は別紙に題簽(ここでもすべて明朝活字体)が刷られており、それを、表紙、背、裏表紙とくるんでラベル貼りしている。この題簽の四周を植物文様の優美な飾りケイがやさしく囲んでいる。ついで、表紙は、明朝活字の書名と著者名のあいだに、一センチほどの幅の子持ちケイが入り、そのなかを白抜きで三頭の獣頭と植物文様を組み合わせた西欧風の特異な絵柄が埋めている。この絵柄はたぶん画集から採られたものであろう。飾りケイは、さらに、扉においても別の植物をモチーフとしたものが書名の『半島』を包むように使われている。明朝活字と飾りケイによる三様の変奏がじつにエレガントだ。(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、六四〜六六ページ)

これに《半島》を収録した《塚本邦雄全集 第十三巻 評論O》(ゆまに書房、2001年2月15日)の北嶋廣敏・堀越洋一郎〈解題〉の「昭和五十六(一九八一)年十二月十日 白水社 四六判変型(フランス装) 貼函附(帯附) 百九十四頁 装幀・吉岡実 定価・千五百円 本文組・三十八字×十三行」という仕様関連の記述を補えば、私としてはこれに加えて書くことはほとんどない(サイズは一八八×一二〇ミリメートル)。
以下では白水社の〈日本風景論〉シリーズを総覧しよう。刊行順に挙げる。

@飯島耕一《港町――魂の皮膚の破れるところ》(1981年9月10日)
A中井英夫《墓地――終りなき死者の旅》(1981年10月8日)
B澁澤龍彦《城――夢想と現実のモニュメント》(1981年11月9日)
C塚本邦雄《半島――成り剰れるものの悲劇》(1981年12月10日)
D池内紀《温泉――湯の神の里をめぐる》(1982年10月25日)
E赤江瀑《海峡――この水の無明の真秀ろば》(1983年8月10日)
F岡谷公二《島――水平線に棲む幻たち》(1984年8月23日)
G皆川博子《壁――旅芝居殺人事件》(1984年9月25日)
H井出孫六《峠――はるかなる語り部》(1984年11月22日)

全9冊のラインナップが最初の《港町》刊行の時点で確定していたか不明だが、4冊めの《半島》までは第一期刊行として一連の装丁を依頼されたであろう。著者の飯島耕一・中井英夫・澁澤龍彦・塚本邦雄は、いずれも吉岡実にとって旧知の書き手、というよりも知友である。これら各冊の装丁の差異がいちばんはっきりわかるのが、臼田氏の言う表紙の「明朝活字の書名と著者名のあいだに」入る「一センチほどの幅の子持ちケイ」を埋める絵柄と扉の飾りケイの配色だ。

飯島耕一《港町》(1981) 表紙〔部分〕 飯島耕一《港町》(1981) 扉〔部分〕
飯島耕一《港町》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

中井英夫《墓地》(1981) 表紙〔部分〕 中井英夫《墓地》(1981) 扉〔部分〕
中井英夫《墓地》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

澁澤龍彦《城》(1981) 表紙〔部分〕 澁澤龍彦《城》(1981) 扉〔部分〕
澁澤龍彦《城》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

塚本邦雄《半島》(1981) 表紙〔部分〕 塚本邦雄《半島》(1981) 扉〔部分〕
塚本邦雄《半島》(1981) 表紙と扉〔いずれも部分〕

池内紀《温泉》(1982) 表紙〔部分〕 池内紀《温泉》(1982) 扉〔部分〕
池内紀《温泉》(1982) 表紙と扉〔いずれも部分〕

赤江瀑《海峡》(1983) 表紙〔部分〕 赤江瀑《海峡》(1983) 扉〔部分〕
赤江瀑《海峡》(1983) 表紙と扉〔いずれも部分〕

岡谷公二《島》(1984) 表紙〔部分〕 岡谷公二《島》(1984) 扉〔部分〕
岡谷公二《島》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

皆川博子《壁》(1984) 表紙〔部分〕 皆川博子《壁》(1984) 扉〔部分〕
皆川博子《壁》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

井出孫六《峠》(1984) 表紙〔部分〕 井出孫六《峠》(1984) 扉〔部分〕
井出孫六《峠》(1984) 表紙と扉〔いずれも部分〕

このフランス装だが、吉岡がなぜこれを多用したのか確たることはわからない。もっとも〈日本風景論〉シリーズ版元の白水社は人も知るフランス語・フランス文学の専門出版社だから、編集担当の和気元さんが吉岡に「装丁はフランス装で……」と依頼したことは大いにありうる。吉岡が業務で装丁した筑摩書房の出版物は全集や叢書が多く、上製・丸背のハードカヴァーが主流だった。ふつう上製本の指定には束見本を作製したり箔押しの素材を検討したりと、本文の指定とは別様の作業をする必要があるが、フランス装なら紙と鉛筆さえあればできる。本来、三次元の本を二次元として扱うことができ、実際に使用する表紙の紙が入手できれば、それを折ってダミーが作れるのだ。詩集など、比較的ページ数の少ない本に用いられるのもフランス装の特徴である。〈日本風景論〉シリーズ全9冊のページ数は平均184ページ(11.5台)で、フランス装としては束のある部類だが、それほど問題にはならない。難点を挙げれば、本文と表紙が背で糊づけされているものの、薄めの見返しに被せた厚めの表紙(本文側に折った表紙は天と地の背ぎりぎりに切りこみが入り、本を開閉するたびに見返しがスライドする)のなじみが悪く、表紙を開け閉めしすぎると元に戻らなくなることである。数物製本ではまずないが、薄い表紙と厚い見返しの組みあわせのほうが復元性に勝る(表紙のほうがスライドする)。いずれにしても耐久性に優れた様式でないため、繰りかえしひもとく書物には適さない。表紙全面にグラシンを被せてそのまま折りや周囲の糊づけなど下拵えをして本文の背に接着すると、グラシンを介している分だけ天や地の接合部分が弱くなるのも問題である。むろん〈日本風景論〉シリーズにグラシンは貼られていない。

〔2005年9月30日追記〕
《出版ダイジェスト》第1177号(出版梓会出版ダイジェスト社、1986年9月11日)の《白水社の本棚》の〈営業部だより〉に(S)という署名でこんな記事があった。「見慣れたはずの倉庫の中で妙に気にかかるというか、きっかいな吸引力を漂よわせている本が、ある。『日本風景論』シリーズなどはその最たるものだ。〔……〕じつに錚々たる執筆陣。『墓地』『島』といった愛想のないタイトル。おそ〔ろ〕しく地味な装丁。まだごらんになっていない方は、ここまでの説明だけで奇異な印象を持たれるだろう。もうひとつ変な特徴がある。サブタイトルがやたらに凝っているのだ。ひとつだけ紹介すると」(同紙、六ページ)と、例に挙げられているのが塚本邦雄の《半島》である。それにしても「きっかいな吸引力を漂よわせている本」という評は、吉岡実を大いに喜ばせたことだろう。


吉岡実の装丁作品(25)(2005年7月31日)

岡田史乃句集《浮いてこい〔琅玕叢書〕》は1983年8月25日、岡山市の手帖舎から刊行。岸田稚魚の〈序〉はこう始まっている。「先日、井本農一先生の古稀のお祝の会に参じた。その席でたまたま大岡信さん、川崎展宏さんと顔を合せた。短い挨拶のうちに話が史乃さんの句集のことに及んだ。「私は腰巻を書かされるんですよ」と大岡さん。「私は跋」と川崎さん。そういってお二人ともうれしそうな顔されている。それに装幀は吉岡実さんという豪華メンバー。こんなめぐまれた作家はまず居らぬだろう」。本書は、昭和46年から昭和58年までの230句を収めた著者の第一句集である(その後、第二句集《彌勒》(牧羊社、1987)と第三句集《ぽつぺん》(角川書店、1998)がある)。

  暮るるほど暮れ残りたる花ミモザ
  紙を切る啓蟄の午後明るくて
  明易し一度は閉ぢて本開く
  夏燕もつとも低きとき光り
  霧よりも上で朝餉の菜を洗ふ
  積みあげて一色[ひといろ]にして林檎売る
  三万の鴨を見て来し眼鏡拭く
  降りに降る真晝の雪や皿小鉢
  去年今年詩人籠れる鍵の内

「単帯高く結びて酔ひにけり」も悪くないが、私は掲載句のような作が好きだ。ところで、吉岡が装丁した単行句集は想いのほか少なくて、《浮いてこい》以外では三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976) があるくらいだ。その晩年、句集を開かない日はなかったという吉岡陽子夫人の証言からすると意外だが、装丁という作業で句集の制作に関わるよりも純然たる読者の立場に終始したかった、と考えるべきか。吉岡は永田耕衣の単行句集すら装丁していないのだ。
〈琅玕叢書〉は本阿弥書店や東門書屋などから、合せて40篇以上出ている。《浮いてこい》は何篇めか記載がないものの、刊行順からすると第6篇に当たるようだ。本書の仕様は、一八九×一一八ミリメートル・一六四ページ・上製布装・貼函。表紙の煉瓦色、函のクリーム色、帯の緑色の組み合わせからは《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979)が想起される。
吉岡は本書刊行の1983年、《琅玕》5月号に〈五月の句――耕衣の句から〉と題して巻頭エッセイを寄せている。「五月の句」は連載タイトルだから、吉岡が付けた標題は「耕衣の句から」だろう。吉岡自身の編んだ《耕衣百句》(コーベブックス、1976)、「この一冊から、私は「春の句」を抽出してみよう」(同誌、二ページ)と、永田耕衣の句16を400字詰原稿用紙3枚強に鏤めた俳句=書物随想である。本篇は吉岡実の未刊行散文だが、つい先頃まで未見だった逸文である。

岡田史乃句集《浮いてこい》(手帖舎、1983年8月25日)の本扉と函
岡田史乃句集《浮いてこい〔琅玕叢書〕》(手帖舎、1983年8月25日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(24)(2005年6月30日)

伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活》(麦書房、1971年11月30日)は副題のとおり、萩原朔太郎のミュージックライフを通じてその詩の生成の秘密に迫る書きおろし評伝(吉岡実の《土方巽頌》が想起される)。限定350部で、A版とB版の2種の刊本がある。奥付対向ページに次の記載が見える。「全冊本文デカンコットン紙使用//A版70部 印度産総バクスキン装/著者本(A〜F) 市販本(1〜64)/本冊はその2番本//B版280部 アートキャンバス装/著者本(A〜T) 市販本(1〜260)/本冊はその 番本」。本書には一葉の〈麦書房製作御案内〉が挟みこまれているので、仕様を中心に引用しよう(なお、本書の用紙サイズは191×146ミリメートル)。

伊藤信吉著 書き下ろし評伝
ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活
装幀・吉岡実 A5判変型五号組164頁 本文デカンコットン紙 署名入
A版七〇部(市販1〜64)特染バクスキン総革装・丸背・天金・表紙純金箔押・夫婦函入・自筆俳句入(頒布明年一月) 6500円〒100
B版二八〇部(市販1〜260)濃赤色アートキャンバス装・表紙ドイツ金箔押・小豆色荒目紙貼箱入・口絵朔太郎楽譜一葉 3000円〒100
〔……〕本書は伊藤信吉氏の重厚、かつ円熟した筆による「音楽の中の詩人」師朔太郎への鎮魂第一作品で、詩人吉岡実氏の装幀になる軽く高雅な純粋造本です。

伊藤信吉と共に萩原朔太郎全集を編んだ那珂太郎は〈音楽の詩人・萩原朔太郎〉で「彼〔朔太郎〕はのちのエッセイ「音楽について」(昭和十年三月)の中で、「僕の青年期のすべての歴史は、全く音楽のために空費したやうなものであつた。特殊の天分なくして音楽の稽古に熱中するほど、青年期における最大の時間的浪費はない、とニイチェは賢しくも言つてゐるが、僕の場合が丁度その通りの浪費であつた。」と書いたが、彼は“A WEAVING GIRL”(機織る少女)の作曲のほか、数多くの編曲やアレンジ曲を残してをり、その演奏も並の素人の域を脱してゐたといふ」(《日本の詩 第7巻 萩原朔太郎集》、集英社、1978年10月25日、二四八〜二四九ページ)と書いている。
本書の口絵には朔太郎自筆の楽譜(A Weaving Girl)が写真版で掲載されており、吉岡実は別丁本扉の地にもこれを敷いている(表紙のカットは朔太郎が組織したゴンドラ洋楽会のマーク)。
吉岡は《北園克衛全詩集》栞の〈断章三つと一篇の詩〉(沖積舎、1983年4月3日)にこう書いている。「わたしが何故、《固い卵》をそのテキスト〔〈詩人の白き肖像〉〕に選んだかは、一つの思い出があったからだ。だぶん、四十五、六才の誕生日の時であったろうと思う。妻から贈られたのが、この《固い卵》であった。家にあった古書目録のなかで、この詩集に私が赤い印をつけておいたのを、妻は見つけて買い求めたのである。世田谷梅ヶ丘の古書肆〈麦書房〉は、仕舞屋風で若い主人が応待してくれたそうだ。その人は、後で書誌研究家として知られる、堀内達夫である」。
吉岡は46歳の1965年に詩をわずか3篇しか発表していない。このとき陽子夫人から贈られた北園克衛の詩集を扱ったのが、本書の刊行者・堀内達夫氏だったわけである。

伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活〔A版〕》(麦書房、1971年11月30日)の函と表紙
伊藤信吉《ぎたる弾くひと――萩原朔太郎の音楽生活〔A版〕》(麦書房、1971年11月30日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(23)(2005年5月31日)

光明寺(奈良・西吉野村)の前住職で詩人の村岡空氏が2005年3月16日、69歳で亡くなった。村岡氏は密教学者でもあり、仏教的観点からの詩人として活躍した。NDL-OPACで調べると、著作のほとんどは密教や弘法大師、折口信夫に関する研究書で、詩集の数は多くない。吉岡実は村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日)を装丁している。詩集は8篇から成る〈J 命うります〉と〈K マリアの歌〔全40篇〕〉〈L コスモス〔全9篇〕〉の3部構成。巻頭の〈欲〉が優れている。

欲|村岡空


マニキュアした手が
食卓にならべられた
男は生唾をのみこみ
はげしくひきつったピストルをにぎりしめた
この顔は はてしなくうずく石
無口な初夜のサンプルだ とおもった
やがて ウインナソーセージににた
トルソの切口をみせつけられ
あ ピストルはむなしく
女の時間を立体化した

巻末のあとがきには「詩集《あいうえお》とは〈愛にうえた男〉つまり、村岡空の意であります。/だから〈かきくけこ……〉と、つづくのだとは、わたくしのさびしいわらいです。/〔……〕/いまとりあえず、この詩集のために、木原孝一、吉岡実、小田久郎、上野清次郎の各氏に、あつくお礼もうしあげるしだいであります」(〈NOTE〉、同書、九八〜九九ページ)とある(版元の世代社は、発行者の小田久郎氏が《世代》の継続後誌として《現代詩手帖》を創刊した出版社でもある)。
本書の仕様は一六七×一四二ミリメートル・一〇二ページ・上製クロス装・機械函。注目すべきは、書名の「あいうえお」の左脇に同じ書体で「かきくけこ」と黄色く地に刷ってある本扉だ。これなど、発案者が吉岡か小田氏か判断の難しいところだ。貼り外題の背文字「村岡空詩集・あいうえお」がゴチックなのも、吉岡装丁では珍しい(貼り外題の表1では明朝を使用している)。

村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本体と函 村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本扉
村岡空詩集《あいうえお》(世代社、1960年5月1日) の本体と函(左)と同・本扉(右)


吉岡実の装丁作品(22)(2005年4月30日)

《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)は、巖谷國士が澁澤龍彦について書いた一四篇の文章を収めている。本書から吉岡実に言及している箇所を引く。

 その後、一九六〇年代を通じて、彼〔澁澤龍彦〕と出会う機会は多かった。たいていは舞踏や芝居のはねたあとの、酒宴の席であったように思う。松山俊太郎さん、加藤郁乎さん、土方巽さん、吉岡実さん、種村季弘さん、唐十郎さん、その他もろもろの怪人、天才、モラリストの種族と、すこしずつ知りあうようになった。そんななかで、澁澤さんはなんとなく中心に居すわっているという感じもあって、それが、のちにいわゆる、六〇年代の一光景でもあったのだろう。(同書、一七ページ)

 早すぎる本の感はあったが、これをまとめる作業はゆっくりと進んだ。その間に、私のもっとも敬愛する詩人・吉岡実氏の助言を得ることができたのは、思いのほかの喜びであった。氏は装幀をもお引きうけになり、いくぶん私的な趣の書物にしたいというひそやかな希望を容れたうえで、むしろ古典的ともいえる澁澤龍彦のイメージをまとわせてくださった。そのことについて、ここに感謝をささげておきたい。(〈あとがき〉、同前、二三九ページ)

本書巻末には、八ページにわたる〈澁澤龍彦著作目録・索引〉が付されている。これは、後に巖谷國士も編集委員のひとりとなった《澁澤龍彦全集〔全22巻・別巻2〕》(河出書房新社、1993〜1995)の編集担当者・内藤憲吾氏の作成になるもので、凡例にあたる文章はぜひ引いておきたい。

 ここには澁澤龍彦の著書・訳書・編著,およびその作品を一部にふくむ書物を五十音順にリストアップし,それら個々について言及している本書中のページをすべて示した.なお見出し項目のつぎには初版単行本のジャンル,発行年,出版元などを記し,さらに,その後に刊行された同書のヴァリエーションを年代順にまとめてある./はある程度もとの内容とタイトルのままで再刊あるいは再録されている場合,//は一部あるいは全体が選集などに再録されている場合を意味する.(同前、iページ)

吉岡は《澁澤龍彦考》のジャケットや表紙・見返し・本扉を薄茶系でまとめている。その色使いは谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988)に近いが、変形判(A5判の天地をカット)のため一般的な文芸書とは違った軽快な感じがする。仕様は一九五×一四八ミリメートル・二五四ページ・上製紙装・ジャケット。見返し用紙は吉岡の最後の詩集《ムーンドロップ》(書肆山田、1988)と同一である。吉岡実は本書刊行後三箇月あまりで亡くなっており、《澁澤龍彦考》はその最後の装丁作品であると同時に、吉岡装丁におけるジャケット装・ハードカヴァー本の到達点でもある。

巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)の本扉とジャケット
巖谷國士《澁澤龍彦考》(河出書房新社、1990年2月20日)の本扉とジャケット


吉岡実の装丁作品(21)(2005年3月31日)

《続・入沢康夫詩集〔現代詩文庫〕》(思潮社、2005年1月25日)が出た。〈わが出雲〉と〈わが鎮魂〉を同一ページに布置した、かつてない組方が新鮮だ。吉岡実は入沢康夫のそのときどきの「全詩集」を二度、装丁している。《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)とその増補改訂版ともいえる《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》(青土社、1979年5月1日)だ。
《1951〜1970》は3部構成で、Jに《夏至の火》(書肆ユリイカ、1958)、《古い土地》(梁山泊、1961)*、《季節についての試論》(錬金社、1965)、《声なき木鼠の唄》(青土社、1971)、Kに《倖せ それとも不倖せ》(書肆ユリイカ、1955)、《倖せ それとも不倖せ・続》(書肆山田、1971)、Lに《ランゲルハンス氏の島》(私家版、1962)、《わが出雲・わが鎮魂》(思潮社、1968)、《詩の構造についての覚え書――ぼくの詩作品入門》(思潮社、1968)を収めるが、なんといっても《詩の構造についての覚え書》の存在が異彩を放つ。これさえも〈詩〉とするのが入沢康夫の世界なのだ。《1951〜1978》も3部構成だが、Jには《「月」そのほかの詩》(思潮社、1977)*を加え、Lから《詩の構造についての覚え書》を省き、かわりに《かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩》(青土社、1978)を加えている(以上のうち、*印の単行詩集は吉岡実の装丁である)。吉岡はその後も、入沢の詩集《死者たちの群がる風景》(河出書房新社、限定版1982・新装版1983)や《ネルヴァル覚書》(花神社、1984)などの単行本の装丁をしている。いずれも著者の依頼によるものであろう。
仕様は《1951〜1970》が二〇九×一四八ミリメートル・七三八ページ・上製布装(濃紺)・貼函(空色)。《1951〜1978》が二〇九×一四八ミリメートル・七二二ページ・上製布装(茶色)・貼函(クリーム色)、限定1000部。両方とも函・表紙・本扉に、鼬のような動物のカットをエンブレムのごとく配している。本文用紙が異なることもあって、16ページというページ数の違い以上に《1951〜1970》が《1951〜1978》よりも束がある。すなわち「増補改訂版」の方が束がないのだ。
経年変化のためにわかりにくいが、《1951〜1978》の表紙布は吉岡の《「死児」という絵》(思潮社、1980)と同じ銘柄に見える。入沢の本は束が45mmほどあって表紙布の粗い織が気にならないが、《「死児」という絵》は約26mmしかなく、やや大味な感じがするのは否めない(私がふだん読む《「死児」という絵》の箔押しの背文字が消えかかっているのも、表紙布が原因か)。これらと並べると、同じ茶系でも中村稔《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976)の方が濃い茶色である。

《入沢康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)と同じく《1951〜1978》(青土社、1979年5月1日) の函と本体 《入沢康夫〈詩〉集成――1951〜1978》、《「死児」という絵》、《詩・日常のさいはての領域》、《1951〜1970》の背
《入沢康夫〈詩〉集成――1951〜1970》(青土社、1973年3月30日)と同じく《1951〜1978》(同、1979年5月1日)の函と本体(左)と《1951〜1978》、《「死児」という絵》、《詩・日常のさいはての領域》、《1951〜1970》の背(右)

入沢康夫は《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1978》以降も多くの詩集を出しており、刊行年次順に当時のすべての詩集を収録した《入澤康夫〈詩〉集成――1951〜1994》(青土社、1996)上巻・下巻の二冊本が、高麗隆彦装丁で刊行されている(《1951〜1978》に増補されたのは《牛の首のある三十の情景》(書肆山田、1979)、《駱駝譜》(花神社、1981)、《春の散歩》(青土社、1982)、《死者たちの群がる風景》(前出)、《水辺逆旅歌》(書肆山田、1988)、《歌――耐へる夜の》(書肆山田、1988)、《夢の佐比》(書肆山田、1989)、《漂ふ舟》(思潮社、1994)の8詩集)。圧巻である。


吉岡実の装丁作品(20)(2005年2月28日)

現在、中村稔の著作集(全6巻)が青土社から刊行中だが、吉岡実は中村が現代詩について論じた《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30日)を装丁している。本書には〈L 若干の詩人たちと若干の詩集〉の章のもとに《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)の書評が収められている。ここで少し註すれば、中村の〈後記〉に「発表した誌名時期等は一々の文章の末尾に付記したとおりである」(《詩・日常のさいはての領域》、三〇四ページ)とあるように、初出がわかりやすい記載になっているのはいいのだが、なぜかこの〈『吉岡実詩集』〉はそれが漏れている。念のために掲げておけば、初出は季刊誌《聲》6号(1960年1月)である。さて、私がこの書評でアンダーラインしたいのは次のような箇所だ。

「吉岡の二十二歳の処女詩集『液体』は、『僧侶』の詩人を考える時、恐ろしく貧しい出発ではなかったかと思われる。」
「〔〈苦力〉の〕こうした詩的体験は、読者にとっては探検家の記録をひもとくような昂奮を覚えさせる。しかし、あまりに冒険譚じみてはいないだろうか。ひょっとすると、この詩人は、ある種の探検家がそうであるように、恐ろしく意識的に無思想、無秩序なのではないか。」
「『液体』から『静物』へ、『静物』の閉じこめられた世界から『僧侶』の運動する世界へ、この詩人は出口をみつけてきた。はたして今度どういう出口をみつけるか、私は最大の関心をもって注目する。」(同書、一四三〜一五〇ページ)

吉岡実の詩業を充分認めたうえでの、辛口の評価といっていいだろう。詩篇の引用(〈風景〉〈液体J〉〈静物〉〈或る世界〉は全篇、〈喜劇〉〈僧侶〉〈苦力〉は部分)が的確なだけに、これらの発言には説得力がある。本書の装丁を中村の方から吉岡に依頼したのなら(前掲〈後記〉にそうした記述はないのだが)、この書評には自信があったのだろう。
本書の仕様は、一八八×一二八ミリメートル・三一〇ページ・上製布装・貼函。粗い織の表紙布は濃い焦茶色で、手触りといい、背文字の金箔押しといい、のちの吉岡自身の《「死児」という絵》(思潮社、1980)の装丁を彷彿させる。ところで、中村の処女詩集《無言歌》は1950年9月30日に書肆ユリイカから出ているが、この四六倍判並製本の冊子が吉岡装丁の《異霊祭》の特装版の綴じかたとまったく同じなのである(平らな紐は《無言歌》の方がやや薄い)。吉岡実が伊達得夫の手がけた《無言歌》の造本を研究したであろうことは、きわめて高い確度で断言できる。

中村稔の評論集《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30日)の本扉と函
中村稔の評論集《詩・日常のさいはての領域》(創樹社、1976年8月30日)の本扉と函


吉岡実の装丁作品(19)(2005年1月31日〔2006年8月31日追記〕)

〈詩《異霊祭》解題〉でも触れたように、天沢退二郎の詩集《「評伝オルフェ」の試み〔書下ろしによる叢書 草子2〕》は、1973年10月10日の初刊のあと、吉岡実の装丁による特装版が吉岡の《異霊祭》特装版(1974年7月1日)と同様の仕様で1974年9月1日に刊行されている。通常版は《「評伝オルフェ」の試み》のほうが《異霊祭〔書下ろしによる叢書 草子3〕》よりも先に刊行されているから、特装版は吉岡の詩の企画で進行したものとみえる。ときに〈書下ろしによる叢書 草子1〉の瀧口修造《星と砂と――日録抄》には限定35部特装版(革表紙・和紙刷り・署名入り・袋入り)があるそうだが、吉岡の装丁ではないようだ(通常版の装丁者でもある瀧口自身の気がする)。
《「評伝オルフェ」の試み》と《異霊祭》の特装版は、袋の紙質こそ若干異なるものの、大きさ・ページ数とも同じ仕様で、双生児のようによく似ている。両者のいちばんの相違は表紙の絵柄で、クレジットはないが天沢の双頭獣、吉岡の鹿の幻獣ともに落合茂のサインがある。興味深いことに、《異霊祭》の「鹿」はこれより早く、吉岡が編集していた《ちくま》1973年6月号に掲載されている(宮川淳〈スタロバンスキーの余白に〉の本文カットとして)。吉岡は《ちくま》用に描いてもらった「鹿」が気に入ったので、自身の《異霊祭》特装版に転用したのかもしれない。
《「評伝オルフェ」の試み》の特装版は、表紙・本文とも青緑とスミの二色刷(奥付の限定番号のみ朱色で印刷)。耳付アンカットの本文(天地228×左右150mm)よりもかなり大振りの表紙は和帖仕立で(天地260×左右165mm)、原紙の天地を内側に折りこんでから小口も内側に折りこみ、ために軽快でありながら堅牢さを併せもつ。この装本の呼び名を知らないが、和風のフランス装、とでも言えばいいだろうか。本文を三穴で中綴じした茶色の平紐は、背の中央で固結びして外から見えるようにしてある。巻頭ページには「天沢退二郎」と細身のサインペンで署名してあり、表紙の双頭獣の緻密なタッチと合っている。本文用紙蔵王紙雪晒し遠藤忠雄、限定101部記番。
吉岡はどこかで(いま原文が見あたらず、正確な引用ができない)――晩年は悠悠自適、好きな作家の好きな作品を出す限定本屋をやりたい――と語っていたが、それが実現していたら、この草子特装版のようなオリジナルの本がいくつも生まれたことだろう。

〔2006年8月31日追記〕
吉岡実が編集長を務めていた《ちくま》を国会図書館で繰っていたら、《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》の表紙と同じ絵柄を見つけた。《異霊祭〔特装版〕》の「鹿」と同年、1973年2月号の本文カット・落合茂として掲載されているから(本文記事は宇佐見英治〈谷崎潤一郎の触覚的文体――『春琴抄』再読〉)、本書もまた《ちくま》用の画稿を転用したものと思しい。ちなみに執筆者の宇佐見氏は、わが文藝空間の同人・宇佐見森吉の父君である。

天沢退二郎詩集《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974年9月1日)の袋と表紙
天沢退二郎詩集《「評伝オルフェ」の試み〔特装版〕》(書肆山田、1974年9月1日)の袋と表紙


吉岡実の装丁作品(18)(2004年12月31日)

吉岡実が太宰治をどう読んだのか、実のところよくわからない。その文学についてなにも書きのこしていないからだ。ただ、太宰の遺体が発見された1948年6月19日の翌日の日記(〈日歴(一九四八年・夏暦)〉)に、次のようにあるのが注目される。
「〈昼〉/午後になっても雨がつづく/ふっている雨はすなおに美しい/だけど便所のそばに溜った水はうっとうしい/太宰治の情死体が見つかった(この記事のある朝刊もぬれている)/痛ましい魂よ/晴れた天へ昇らず/雨しぶく空へ昇る/合掌」(《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》、書肆山田、1996、九ページ)。
この記述から、人物に対する哀悼の念以外のものを読みとることは難しい。ちなみに吉岡は、この日の夜、西脇順三郎の詩集《旅人かへらず》を読み、朝に続いて詩作を試みている。吉岡の頭には、ただ「詩」のことしかなかったのかもしれない。
《太宰治全集》は今日までにさまざまな版で出ている。手近な《新潮日本文学辞典〔増補改訂〕》に依れば、八雲書店版(1948〜1949、全18巻だが15巻で中絶)、創芸社版(1952〜1955、全16巻)、筑摩書房版(1955〜1957、全12巻・別巻1)、同(1959〜1960、全16巻)があり、《定本太宰治全集》として筑摩書房版(1962〜1963、全12巻・別巻1)がある。同じ筑摩の太宰治全集だけでも、上記のほかに筑摩全集類聚版やちくま文庫版やなにやかやがあって、門外漢にはそれぞれどんな特色があるのかよくわからない。同じ「筑摩書房版太宰治全集第何巻」であっても、数種類のシリーズが存在していて、刊行年などを併記しないと本文を特定できないのだ。
ここにとりあげる《太宰治全集》は全12巻・別巻1で、1967年から1968年にかけて筑摩書房から刊行されたもの(前掲《新潮日本文学辞典》には記載されておらず、それ以前の太宰治全集の新装版といったところか)。社内装の常として、装丁者名はクレジットされていないが、まず間違いなく吉岡の手になるものだろう。函の天にぴったり合わせて、背・裏へと回した貼外題の処理が新鮮だ(桜桃のカット――ジャケットにも同じ絵柄が見える――はストレートにすぎるきらいもあるが)。仕様は一九〇×一三〇ミリメートル・各巻約396ページ・上製布装・ジャケット・機械函。函まわりは貼外題(スミと水色の2色刷)を含めて、すべて凸版(活字)で印刷されている。
ちなみに、上に挙げた筑摩書房の太宰治全集(定本全集も)は、ちくま文庫版以外みな吉岡実の装丁のように思えるが、にわかに断言できない。

《太宰治全集〔第6巻〕》(筑摩書房、1967年9月2日)の函とジャケット
《太宰治全集〔第6巻〕》(筑摩書房、1967年9月2日)の函とジャケット


吉岡実の装丁作品(17)(2004年11月30日〔2006年1月31日追記〕)

石垣りんの詩に〈松尾寺〉(《朝日新聞(夕刊)》1994年5月6日)がある。前半の節はこうだ。

東京・渋谷の駅ビル構内に
改札口と商店街を結ぶ殺風景な通路がある。
混み合うときは片側一車線のトンネルのように
人の群れは二つの流れとなって行き違う。
いつであったか、あの波立つ顔の中に
詩人の吉岡実さんを見かけた。
声をかける間もなかった
向こうが私を見かけたとも思えなかった。
ほどなく吉岡さんの訃報をきく。
以来おなじ通路で
ことに吉岡さんの歩いて来た方向をたどるとき
私はみょうな気持になる。

この場所が、わかりそうでわからない。具体的に特定しにくいように書いてあるとさえ見える。いずれにしても、詩人が現実の一シーンを切りとる手つきは鮮やかである――と思っていると、詩は一行空けて後半の節に入る。

京都・舞鶴市にある松尾寺では
五月八日の法要に長い石段をのぼってゆくと
すれ違う群れの中に故人によく似た顔があるという
山陰線の車中で耳にした話。
そのとき同行した若い女性と
いつか噂の寺に参りましょう、と約束した。
あれから何年たったろう
久しぶりで会った友は寺の話を覚えていて
こんど行ってみませんか、という。
そうね
あなたが石段を上って来るとき
私が反対側から下りて来たりして、というと
まだまだ若い彼女はキャッと小さく叫んだ。

石垣氏は寡作な詩人で、吉岡実と同年輩ながら、オリジナルの単行詩集は四冊と吉岡の三分の一に満たない。吉岡はそのうちの三冊、《表札など》(思潮社、1968)、《略歴》(花神社、1979)、《やさしい言葉》(花神社、1984)と散文集《焔に手をかざして》(筑摩書房、1980)を装丁している。

石垣りん詩集《表札など》(思潮社、1969年5月1日刊の再版〔初版は1968年12月25日刊〕)の本扉とジャケット
石垣りん詩集《表札など》(思潮社、1969年5月1日刊の再版〔初版は1968年12月25日刊〕)の本扉とジャケット

詩集の〈あとがき〉にはこうある。「『表札など』の装幀を引き受けて下さった吉岡さんは、ふだん往き来もない私の願いをこの度も聞き入れて下さいました」(《略歴》、一二九ページ)。「造本に際して吉岡実さんが「いい着物をきせましょう」と言って下さいましたが、暮らしの上で、身を包むことはしても飾ること乏しかった歳月を、思わず振り返りました」(《やさしい言葉》、一一五ページ)。
詩集《表札など》は、ジャケットや見返しが茶褐色系のなかで、朱がひときわ鮮やかだ。仕様は二一〇×一四八ミリメートル・一三〇ページ・上製紙装・ジャケット。印刷・若葉印刷、製本・岩佐製本は、やはり一九六八年思潮社刊の吉岡の詩集《静かな家》と同じである。石垣氏は本詩集で詩壇の新人賞であるH氏賞を、吉岡が受賞した一〇年後に受賞している。

〔2006年1月31日追記〕
前掲〈松尾寺〉は、その後《現代詩手帖特集版 石垣りん》(思潮社、2005年5月20日)の〈詩集未収録詩篇――『やさしい言葉』以後〉に収録された。


吉岡実の装丁作品(16)(2004年10月31日)

勅使河原蒼風《花伝書》初版は、蒼風の歿後まもない一九七九年一一月一〇日、草月出版から刊行された。勅使河原宏による〈あとがき〉には「構成は二部にし、第一部には一九六六年刊の『私の花』(講談社インターナショナル)に収めた書き下しの「花伝書」を、第二部には、一九三三年発行の『瓶裏』以降、すべての機関誌、単行本、指導講義から厳選したことばを、それぞれ収録している」(同書、一五三ページ)とあり、《犬の静脈に嫉妬することから》(湯川書房、1976)を巻頭に据えた土方巽の遺著《美貌の青空》(筑摩書房、1987)の構成が思いだされる。
「いけばなを見る人は腰掛けて見る、立って見る。さまざまな角度から自由に視線をあてるから、いけばなが見てもらいたいいちばん重要なポイントはひとつかも知れないが、もっとほかにもいろいろの視線を意識しなければならない。したがって、われわれがいけるとき、坐っていけず、立って体を自由に動かし、その花に対していろいろの出発点を持った視線をあてねばならない」(《花伝書》、八四ページ)という蒼風のことばからは、吉岡実の〈わたしの作詩法?〉が想起される。
吉岡実の装丁は、著者の作品〈寒山詩によせて〉や前掲《私の花》に見える「花伝書」という題字を函(吉岡にしては珍しくグラフィカルな処理が施されている)、表紙(金箔押しが効果的である)、本扉(著者名・書名・出版社名が、微妙にセンター合わせでないように見える)に配することで、蒼風の「手」を顕彰している。

勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の函と表紙 勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の本扉
勅使河原蒼風《花伝書》(草月出版、1979年11月10日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

仕様は二一〇×一三七ミリメートル・一五八ページ・上製紙装・機械函入(本書には一九八〇年二月二一日刊の五三五部限定版がある)。なお吉岡は、草月出版部の《いけばな草月》に詩篇〈花・変形〉(I・14、1966年5月)と随想〈阿修羅像〉(1977年6月)の二篇を寄せている。

勅使河原蒼風《花伝書〔限定版〕》(草月出版、1980年2月21日)の函と表紙 
勅使河原蒼風《花伝書〔限定版〕》(草月出版、1980年2月21日)の函と表紙


吉岡実の装丁作品(15)(2004年9月30日)

《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の著者谷田昌平は、元新潮社出版部長・《新潮》編集長で、同社の〈純文学書下ろし特別作品〉の企画者にして、堀辰雄の研究者でもある(編集者としては《流れる》《杏っ子》《氾濫》《森と湖のまつり》《梨の花》《砂の女》《沈黙》など、文学史に残る小説の単行本を手掛けている)。一九二二年生まれというから、吉岡実と同世代と言っていい。〈あとがき〉の末尾に編集者らしい細やかな記載が見える。

 本書執筆の機会を与え、終止〔ママ〕励まして下さった石田健夫氏、『東京新聞』文化部の担当記者として毎回原稿を詳細にチェックした下さった棚橋弘氏、連載中に本書出版を確約して、時々読後感を伝えて下さった川口澄子さん、編集・製作の実務に携って骨折って下さった祝部睦大氏と、装幀をしていただいた吉岡実氏に心からお礼申上げる。(同書、二二五ページ)

本書付録の〈しおり〉には、遠藤周作・吉行淳之介・中村真一郎の小文が収められている。小説家が親しい編集者の著書に寄せる文章の見本である。著者の本意ではないかもしれないが(この手のものは、出版側が「編集者権限」で依頼することが多いと聞く)、読者にはありがたい計らいだ。その結果、帯文は本書の内容紹介に専念できる。

人びとの息づかいがきこえる〈現場感覚〉ゆたなか文学史
堀辰雄 福永武彦 武者小路実篤 野間宏 柴田錬三郎 石川淳 幸田文 丸山明 原民喜 伊藤整 室生犀星 武田泰淳 中野重治 大江健三郎 新田次郎 司馬遼太郎 安部公房 有吉佐和子 遠藤周作 島村利正 堀田善衞 丹羽文雄 中村真一郎 吉行淳之介 佐多稲子 菊村到 小島信夫 円地文子 津村節子 吉村昭 結城信一 山本健吉……

谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の本扉とジャケット
谷田昌平《回想 戦後の文学》(筑摩書房、1988年4月25日)の本扉とジャケット

《回想 戦後の文学》は、文芸書としてオーソドックスな四六判上製ジャケット装。こういう定番的な本ほど、装丁で特徴を出すのは難しかろう。吉岡は茶色をメインカラーに、本書を手堅くまとめている。ジャケットと本扉のワンポイントのカットは鹿だが、作者の名は記されていない。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004)に「素朴極まりないが、彼の手になる本は、実に本らしい面構えをしている。また、時折用いられる鳥や竜などの簡略化された模様のようなものは、御自分で描いたのではなく、中国の古い図案から選ばれたものだと聞いた」(同書、五五〜五六ページ)とあるが、この鹿の場合は「簡略化された模様のようなもの」というよりもカットだろう。本書の仕様は一八八×一二八ミリメートル・上製・ジャケット装、二三六ページ。
なお吉岡は、谷田氏が編集長時代の《新潮》に、詩篇〈部屋〉(H・2)と追悼文〈和田芳恵追想〉の二篇を寄せている。


吉岡実の装丁作品(14)(2004年8月31日)

三〇年ほどまえ、大学に入ってすぐに試みたことがふたつある。ひとつはプルーストの《失われた時を求めて》を邦訳で通読すること、もうひとつは《西脇順三郎全集》で西脇詩集を読破すること、である。学部の図書室から借りだして、夏休み中もかわるがわる読んだ憶えがある。そんな読み方をしたせいだろうか、《近代の寓話》以降の西脇の詩は奇妙に連続した印象を残した(どの詩篇がどの詩集のものかわからなくなり、長大な〈西脇詩〉と呼ぶしかないものになった、と言っても同じことだ)。その後《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981)を入手するに及んで(西脇詩はふだんもっぱらこれで読む)、西脇の単行詩集はいっこう書架に増えず、《あむばるわりあ》と《旅人かへらず》を除けば、吉岡が装丁した数冊以外ほとんど手許にないありさまだ。
吉岡実が装丁した西脇順三郎詩集のなかから、今回は《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)を取りあげる。一九六二(昭和三七)年、六八歳の西脇は「六月十九日から七月四日まで、アリタリア航空の招きでイタリアに旅行、ロオマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを周遊し、ウンガレッティらと会う」(那珂太郎編〈年譜〉、《西脇順三郎詩集〔岩波文庫〕》、岩波書店、1991、四七七ページ)が、《宝石の眠り》はこのイタリア旅行の産物の面がある。
新倉俊一編〈書誌〉には「これらの作品〔『宝石の眠り』〕は昭和三十八年三月三十日刊行の筑摩書房版『西脇順三郎全詩集』の末尾に単行本詩集の扱いで収録されているので、本全詩集でもその初出年代に従った」(《定本 西脇順三郎全詩集》、一二七四〜一二七五ページ)とある。吉岡を含む西脇詩の読者は、単行詩集《宝石の眠り》以前に《西脇順三郎全詩集》で〈詩集 宝石の眠り〉に触れることができたわけだ。《吉岡実詩集》と《静かな家》の関係もそうだったが、こういう場合、はたして装丁しやすいのかしにくいのか、私にはよくわからない。

西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の函と表紙 西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の本扉と見返し
西脇順三郎詩集《宝石の眠り》(花曜社、1979年11月30日)の函と表紙(左)と同・本扉と見返し(右)

《宝石の眠り》の仕様は一八八×一二八ミリメートル・一〇八ページ・上製布装・貼函入。吉岡は本詩集の色遣いを紫・藤色系で統一している。まず帯は淡紫の色紙にスミ文字。貼函は紫の模様とスミ文字の二色刷り。表紙は絹のような光沢の濃紫の布に金箔押し。見返し用紙は水玉地模様の「玉敷」で、色は藤紫。別丁本扉は紫とスミの二色刷りで、表紙と本扉の線画カットは(クレジットはないが)西脇の手になる。そして、著者描くところの口絵一葉(〈サン・マルコの朝〉)が続く。
ここで吉岡実における紫について考えてみたい。すぐに想いうかぶのが「サフランの花の淡い紫」(〈サフラン摘み〉G・1)という詩句である。この詩を収めた詩集が《サフラン摘み》と題されて「淡い紫」の布で装丁されたのは、人も知るところだ。城戸朱理《吉岡実の肖像》(ジャプラン、2004)に装丁と紫色をめぐる記述がある。「しかし、吉岡さんが特上シュランクを自著の装幀に用いたのは『ムーンドロップ』が初めてではない。『薬玉』にも部分的に使われていて、イタリア製の深みのある色合いの紫色の表紙と美しい対比を成す継背の白い布がそれである」(〈本〉、同書、五四ページ)。
西脇の〈サン・マルコの朝〉は、寺院らしい建物を煙るような筆致で描いた作品で、まさに色彩を駆使した水墨画である。口絵で右端のオレンジがかった茶の色面に次いで眼を引くのが、淡い紫の色だ。吉岡が紫・藤色を《宝石の眠り》のメインカラーに選んだ最大の要因が、これだろう。ただ、上に述べたようなことを考慮すると、「クレタの淡紫」とともに「イタリアの紫」といった想いが吉岡のなかにあったかもしれない。


吉岡実の装丁作品(13)(2004年7月31日)

三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)は、十三回忌を記念して編纂された三好達治全句集ともいうべき書。吉岡実における句集《奴草》(書肆山田、2003)に相当する一巻である。本書刊行当時、吉岡は筑摩書房に在籍していたから、本来ならクレジットされないところだが、「装幀 吉岡實」と奥付に明記されている。句集《柿の花》一七〇句から、好きな句を挙げる。

たそがれの鳥と化すべししろはちす
鶺鴒のひひななれども尾の上下
鸚鵡叫喚日まはりの花ゆるるほど
蚊帳といふ世界にはこぶ歌書俳書
ひるがへるのみとはいへど青はちす

たまたま鳥と蓮の句が並んだが、三好の視覚と聴覚の冴えは怖ろしいほどである。この句集を含めて吉岡が三好の俳句に触れた文章はないけれども、詩集《春の岬》(創元社、1939)を枕頭の書としていた吉岡は、一九四〇年三月二三日、三好の詩歌懇話会賞の授賞式を兼ねた講演会を聴いている。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三〇三ページ参照)

三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)の函と表紙
三好達治句集《柿の花》(筑摩書房、1976年6月30日)の函と表紙

句集《柿の花》は、函の題簽と表紙の箔押しに三好の書をあしらい、縦書きの落ちついた表紙まわりになっている。挟込付録には、草野心平を筆頭に和田芳恵・安西均・大岡信・清岡卓行・石原八束が執筆。見返しは厚手の手漉き和紙で、扉が本文共紙なのもゆかしい。貼り奥付の印譜は大武正人。限定五〇〇部記番。印刷は精興社、製本は鈴木製本。仕様は一九〇×一四七ミリメートル・上製布装・貼函入、一七八ページ。吉岡実装丁の「和風」の代表作と言っていいだろう。
吉岡は、三好達治の最後の詩集《百たびののち》(筑摩書房、1975)の装丁も担当している。


吉岡実の装丁作品(12)(2004年6月30日)

篠田一士の《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)では、《楡家の人びと》や《死霊》、《青年の環》など、戦後日本の長篇小説が論じられている。私は、篠田が《死の島》を取りあげた福永武彦の小説について、吉岡さんと話したことを想いだす。
あるとき、好きな小説家の話になり、私は福永の名を挙げた。吉岡さんの返事が振るっていた。小説、たくさん書いてるんだろ? 晩年は病弱で、正業は大学の先生、作品はそれほど多くない、と私はしどろもどろの返答をした。小説の福永、詩の吉岡、短歌の塚本邦雄、俳句の高柳重信、と「大正生まれ」の創作者たちに心底魅せられていた私は、吉岡さんが福永小説の熱心な読者ではないのを残念に思ったことである。
《日本の現代小説》は評論にしては大判の本で、表紙の材質や色使いが《定本 西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1981年1月20日)に瓜二つである。ただ、《定本》には装丁クレジットがなく、誰の手になるのか判らない(吉岡実でちっともおかしくないのだが)。青いクロスの元版《西脇順三郎全詩集》(筑摩書房、1963)の装丁は、鍵谷幸信に依れば、栃折久美子だという。
《日本の現代小説》には《日本の近代小説》(集英社、1988年2月10日)という姉妹篇がある。一九七三年の《日本の近代小説》と一九七五年の《続 日本の近代小説》を併せた一冊本で、ここでも吉岡が装丁を担当している。 表紙布の赤と青の色は、吉岡の詩集《ポール・クレーの食卓》初刊・再版(書肆山田、1980)と同じ流れだ。函のカットの刷り色にもご注目いただきたい。二冊とも、仕様は二一八×一四七ミリメートル・上製布装(継表紙)・貼函入。《日本の現代小説》が五五四ページ、《日本の近代小説》が五二二ページである。

篠田一士《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)と《日本の近代小説》(同、1988年2月10日)の函と本体
篠田一士《日本の現代小説》(集英社、1980年5月10日)と《日本の近代小説》(同、1988年2月10日)の函と本体


吉岡実の装丁作品(11)(2004年5月31日〔2006年6月30日追記〕)

《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)は「筑摩書房の最初の出版は、中野重治の『中野重治随筆抄』で、その奥付によれば、発行は昭和十五年六月十八日、発行所は泰明小学校の前にあたる東京市京橋区銀座西六丁目四番地で、発行名義人は古田晁であった」(同書、三ページ)と書きおこされている。執筆は吉岡実の岳父でもある小説家の和田芳恵だが、著者名の表示はない。そうしたこともあって装丁者のクレジットはないものの、中島かほるのインタビュー〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉にあるように吉岡の装丁である。
「『筑摩書房の三十年』はいい本ですね。この表紙は本麻なんです。表紙用の布としては最高級品のひとつですよね。これだけの麻の生成りの質感が残っていて。……あ、この見返しは新局紙ですね。扉が新鳥の子。吉岡さんらしい。」(《ユリイカ》、2003年9月号、一四六ページ)
古田晁は一九七三年、心筋梗塞で急逝する。翌年の一周忌を期して《回想の古田晁》(筑摩書房、1974年10月30日)が刊行された。花布にいたるまで《筑摩書房の三十年》とほとんど同じ体裁の本書にも装丁者の表示はないが、吉岡実の手になると見て差しつかえあるまい。執筆者を列記すると、石川淳・井伏鱒二・臼井吉見・遠藤湘吉・大山定一・唐木順三・河上徹太郎・上林暁・草野心平・小林秀雄・佐藤正彰・渋川驍・島崎蓊助・高藤武馬・竹内好・武田泰淳・手塚富雄・中島健蔵・中野重治・中野好夫・中村光夫・速水敬二・丸山真男・湯浅芳子・吉田健一・渡辺一夫・和田芳恵など、総勢四八名。
和田の〈思い出すこと〉は「古田さんがなくなったと電話で知らせてくれたのは詩人の吉岡実だった。吉岡実は筑摩書房の社員で、私の娘婿である」(同書、二〇〇ページ)と始まる。小林秀雄の〈古田君の事〉は本書刊行の翌一一月、吉岡が編集する《ちくま》に転載されている(さらに一二月の《文藝春秋》にも再録されている)。
二冊とも印刷は精興社、製本は矢嶋製本で、仕様は一八八×一三〇ミリメートル・上製布装・貼函入、非売品。《筑摩書房の三十年》が三二六ページ、《回想の古田晁》が三〇八ページである。

《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)と《回想の古田晁》(同、1974年10月30日)の函と本体
《筑摩書房の三十年》(筑摩書房、1970年12月25日)と《回想の古田晁》(同、1974年10月30日)の函と本体

〔2006年6月30日追記〕
林哲夫《文字力[もじりき]100》(みずのわ出版、2006年6月4日)に《筑摩書房の三十年》が掲載されている。本稿からの引用もあるが、書影(林さん撮影のモノクロ写真)が素晴らしい。


吉岡実の手掛けた本(1)(2004年4月30日)

吉岡実は《土方巽頌》の〈44 本名〉でこう書いている。

 〈日記〉 一九七四年五月十六日
 午後、土井虎賀寿『時間と永遠』が出来たので、担当者として十冊を持って、生田の土井家に行く。杉野未亡人と娘の佐保嬢は喜び、一冊を霊前に供える。近くに住む装幀者の田中岑も招いて、シャンパンで祝杯をあげる。画家は若い頃、土方巽と同じ屋根の下で生活をしたり、たいへん親しかったとのこと。その時、本名は「 米山九日生 よねやまく に お  」だと知らされる。しかし誰にも言うまい、彼は永遠に「土方巽」でなければならないのだから。(同書、七七ページ)

不勉強を告白すれば、最近まで土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)を手にしたことがなかった。その理由として、吉岡自身によって本書の装丁者が田中岑だと記されていたことが挙げられる。吉岡が手掛けた本ではあっても装丁本でないために、読むのが後回しにされていたのだ。ところが、洲之内徹《気まぐれ美術館〔新潮文庫〕》(新潮社、1996)の〈土井虎賀壽――素描と放浪と狂気と〉を読むに及んで、ようやく本書を入手するに至った。洲之内は「先月私の画廊で土井氏の素描展を開いたとき、未亡人から戴いた」「土井虎賀壽氏の遺稿集」(同書、一一六ページ)の〈 非人称世界 エス・ヴエルト 象徴世界 ジンボル・ヴエルト 〉を通勤電車のなかで読みふけった、と述懐している。私もこの土井の絶筆から読みはじめた。

 一般に、ゲーテの詩句の美しさは言葉と言葉の流れによりも、むしろ詩句と詩句との間、行と行との間に、語られざる沈黙というあり方で空白にのこされている虚数的な焦点に見出される。神々の言葉は、沈黙というあり方でしか語られない。(《時間と永遠》、一三四ページ)

土井虎賀壽はこのように「詩句の美しさ」を語る思索者だった。〈非人称世界と象徴世界〉は《時間と永遠》の三分の一以上を占める長大な論文で、まだ読了していない。しかし、吉岡実の手掛けた本が洲之内徹をして〈土井虎賀壽〉を書かせるきっかけになったことは、肝に銘じた。残念なことに、土井杉野の〈あとがき〉には「この書が公刊されるについては、筑摩書房の会長故古田晁氏をはじめ竹之内静雄氏、井上達三氏、粟津則雄氏、吉岡実氏、淡谷淳一氏、乗松恒明氏〔……〕の御厚情と御支援があったことをここに書き記して永く記念したいと思う」(同書、三九〇ページ)とあるだけで、吉岡が具体的に本書とどう係わったかはわからない。著者に対しては出版社の窓口として、外部の装丁者や社内の編集担当者を統合して事に当たったのだろうか。

土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)の函と表紙〔題字:天野貞祐、カット:著者、装幀:田中岑〕
土井虎賀壽《時間と永遠》(筑摩書房、1974年5月10日)の函と表紙〔題字:天野貞祐、カット:著者、装幀:田中岑〕


吉岡実の対談・座談会集(2004年3月31日)

吉岡実が行なった対談や座談会は、まだ一本にまとめられていない。生前に出版されなかったのは吉岡自身の意向によろうが(私が詩書の編集者だったらぜったいに企画した)、ぜひとも手軽な形で読みたいものだ。今回は、吉岡実が出席した対談・座談会等の簡単な掲載記録と記事の小見出しを摘することで(小字で記載)、架空の書物《吉岡実対談・座談会集》を概観しよう。なお、出席者が二名のものを「対談」、三名のものを「鼎談」、それより多いものを「座談会」と区分して、年代順に並べた。

●対談

一九六三(昭和三八)年一月 新春対談〔天沢退二郎との対談〕(現代詩)

〔小見出しなし〕

一九六七(昭和四二)年一〇月 模糊とした世界へ〔入沢康夫との対談〕(現代詩手帖)

詩を書くことと詩論を書くこと
作品の変化について
吉岡実の詩の出発
吉岡実の詩の言葉
作品と現実とのかかわり方
白紙の状態から書き始める

一九七三(昭和四八)年九月 卵形の世界から〔大岡信との対話〕(ユリイカ)

吉岡実前史を求めて
少年期の書物群
卵が登場する
俳句からの脱出
さまざまな出合い
傲慢であることが必要だ
ストリップの宇宙
言語彫刻の現場
散文の沃野へ
固有名詞の世界へ
かぎりなく脱皮する

一九七五(昭和五〇)年一二月 詩的青春の光芒〔飯島耕一との対話〕(ユリイカ・臨時増刊)

「鰐」の時代
伊達得夫の「ユリイカ」
「僧侶」の時代
「神秘的な時代の詩」
「ゴヤのファースト・ネームは」と「新年の手紙」
運慶とシュルレアリスム
「日本回帰」の問題
可能性としての茂吉
金子光晴と西脇順三郎
70年代の詩人たち
詩的フォルムへ
『岡倉天心』
『詩禮傳家』

一九八〇(昭和五五)年一〇月 一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〔金井美恵子との対談〕(現代詩手帖)

体験と想像力
俳句・短歌と現代詩
引用詩について
繰り返しを避ける
物質的な言葉
目の人
丸くて寸づまりのもの
一切新しいものはない
「具体」への志向

●鼎談

一九六一(昭和三六)年二月四日 読者と本の結びつき――出版広告はどうあるべきか〔祐乗坊宣明・小宮山量平との座談会〕(図書新聞)

両極に分解する――効果のある広告、ない広告
宿命的な配給機構――映画に似た投機的な性格
新聞は報道義務を――出版社 フェティシズム破れ
読書人口はふえる――販売調査を利用したい
五十万の書評紙を――中核的読者をつかむこと
新聞は見識を持て――公共的なPRで協力を

一九八七(昭和六二)年一一月 奇ッ怪な歪みの魅力〔松浦寿輝・朝吹亮二との対話批評〕(ユリイカ)

〔小見出しなし〕

●座談会

一九六三(昭和三八)年二月 第二回俳句評論賞選考座談会〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・中村苑子との座談会〕(俳句評論)

渡部杜茂子
西本弥生
寺田澄史
前川弘明
竹本健司
志摩聰
再び渡部杜茂子
佐藤輝明
渡部杜茂子と竹本健司
安井浩司
大岡頌司
とにかく絞ろう
それではどうする

一九六三(昭和三八)年七月 第13回日本現代詩人会H氏賞選考委員座談会〔安藤一郎・中桐雅夫・吉野弘・小海永二・秋谷豊・安西均・村野四郎・草野心平との座談会〕(詩学)

選考経過

一九七二(昭和四七)年一〇月 現代俳句=その断面〔佐佐木幸綱・金子兜太・高柳重信・藤田湘子との座談会〕(鷹)

俳句との出会い
短歌をつくるとお小遣いをくれる
『前略十年』のころ
魅力的な写真
あつかましい自然
見る自然≠ヘつまらない
ボキャブラリーの不足
踏みとどまって見る
俳壇はいつも二流時代
結社の主宰者
作品を書くための滑走路
《湘子後記》

一九七五(昭和五〇)年二月 悪しき時を生きる現代の詩――座談形式による特集〈今日の歌・現代の詩〉〔加藤郁乎・那珂太郎・飯島耕一・吉増剛造との座談会〕(短歌)

日本一の詩人・西脇順三郎さん
抱腹絶倒の歌
出生・過去・海やまを走る
現代の歌人とその周辺
三島由紀夫・戦後が鴎外にぶつかった

一九七五(昭和五〇)年五月 思想なき時代の詩人〔飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〕(現代詩手帖〔特集・鈴木志郎康VS吉増剛造〕)

受け身の詩人鈴木志郎康
具体的事実を了解する
散文に対する鮮明な意識
こわい詩人、正直な詩人
自身を虚構化し踊らせる
詩における散文脈とは何か
一篇の長篇詩への夢

一九八〇(昭和五五)年五月〜一九八一(昭和五六)年四月 現代俳句を語る〔飯田龍太・大岡信・高柳重信との連載座談会〕(《鑑賞現代俳句全集・全一二巻》立風書房・月報)

正岡子規の場合
子規における芭蕉と蕪村
子規における俳句と短歌
勇敢な人の勇敢なふるまい
子規の初期の佳句など
子規の連句否定の意味
俳句だけでなかった子規
再び子規の佳句
子規を短詩型に専念させたもの
融通無碍だった子規
三人三様の字
碧梧桐と虚子
碧梧桐の佳句など
碧梧桐をかっていた子規
いわゆる見どころのある句とない句
虚子の方法
虚子の俳句復帰の原因
碧梧桐の無中心主義
碧梧桐の悲劇
頭でつくる俳句、身体でつくる俳句
蛇笏の俳句
普羅という人
石鼎の名句など
鬼城の月並み
江戸っ子俳人水巴
インテリ俳人四Sの登場
俳壇外も受け入れた四S
当時の俳壇・歌壇・詩壇
バランスをとった虚子
四人の図式、四人の共通点
決定的な新鮮さ
素十の方法
青畝の特色
弟子を育てない俳人
つかみにくい新興俳句の実体
新興俳句運動と戦争
時代の動きと短歌・俳句の関係
時代への反抗の代替物?
方法意識の導入
「白い夏野」の意味
定型を重んじた新興俳句
新興俳句と自由律俳句の共通点
放浪の詩人
放哉か、山頭火か
新興俳句と自由律俳句の共通点
草田男の魅力
波郷について
楸邨と「俳」
楸邨の一つの体質
楸邨と草田男の岐路
戦前の女流、戦後の女流
鷹女と赤黄男
鷹女と久女・多佳子
汀女・立子など
戦前の俳句・戦後の俳句
戦後俳人にも成果が……
俳句形式への情熱が……
自句自解をめぐって
龍太を俎上にすると……

一九八〇(昭和五五)年九月 シンポジュウム 永田耕衣の世界〔金子晋・高柳重信・三橋敏雄・高橋睦郎・永田耕衣・鈴木六林男・多田智満子・桂信子・鶴岡善久・津高和一・足立巻一・中村苑子・飯島晴子・加藤三七子・島津亮・鈴木漠・坂戸淳夫・小川双々子・赤尾兜子との座談会〕(俳句)

はじめに
「寝釈迦」の句について
凡聖不二の境
「近海に…」の句
存在即エロチシズム
「夢の世に」の句
季霊ということ
「髪脱け落つる」の句
重層的な読みかた
視点の自在さ
二重の自画像
活力としての無常

一九八二(昭和五七)年七月 比類ない詩的存在〔大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との西脇順三郎追悼座談会〕(現代詩手帖)

人がらと生地
西脇順三郎との出会い
思考と表現の過程
詩集にあらわれる詩的世界の展開
底流としてのイメージと音感
詩における構築された舞台

一九八五(昭和六〇)年一月 言語と始源〔オクタビオ・パス・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造との特別座談会〕(現代詩手帖)

日本詩との出会い
伝統詩と現代詩
縦のアメリカ
翻訳と詩
ブニュエルと映画
アジアへの視点

以上のほかに私の見おとした記事があるかもしれない。こうして振りかえってみると、吉岡実が一書を捧げるにふさわしい西脇順三郎・永田耕衣・土方巽といった詩人・俳人・舞踏家との対談が残されていないのが、つくづく惜しまれる。しかし《土方巽頌》を挙げるまでもなく、吉岡の筆がこれらの対象をみごとに描きだしていることをもって瞑すべきであろう。その全著作からそれぞれが吉岡実著《西脇順三郎アラベスク》や吉岡実編《耕衣句抄》を読みとればよいのだから。


吉岡実の装丁作品(10)(2004年2月29日)

吉岡実の装丁を語るとき、「ワンポイントの図案」(林哲夫)と並んで忘れてならないのが装画の存在である。装画は吉岡装丁にとってトレードマークの感さえある。吉岡自身の詩集のカット・装画の描き手を見れば、《静物》 《紡錘形》が真鍋博、《静かな家》 《異霊祭〔特装版〕》が落合茂、《サフラン摘み》 《ポール・クレーの食卓》が片山健、《夏の宴》 《ムーンドロップ》が西脇順三郎といった具合だ(ところで《液体》の装画は誰の手になるのだろう)。これらの描き手のなかで、吉岡が他の著者の本を装丁するとき、いちばん多く起用したのが落合茂だと思われる。今回は吉岡実装丁・落合茂装画本のなかから、安藤元雄詩集《夜の音》を取りあげる。

安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)の函と表紙〔装画:落合茂〕
安藤元雄詩集《夜の音》(書肆山田、1988年6月10日)の函と表紙〔装画:落合茂〕

《夜の音》は限定八〇〇部、仕様は二五五×一六五ミリメートル・六六ページ・上製継表紙・機械函入。飯島耕一詩集《ゴヤのファースト・ネームは》(青土社、1974)の装丁者でもある安藤元雄は、詩集《夜の音》について次のように語っている。

 『夜の音』を書いたのは、前の詩集と時期的にはほとんど重なります。出たのはこっちの方がちょっと遅かったですね。これは、吉岡実さんの装幀だから、きれいでしょう? 吉岡実さんていうのは詩人で、筑摩書房にいた人ですが、装幀はうまかったですね。時計の絵がカットになってるんですよ。この時計を落合茂さんって人が描いて、中のページにもところどころに描いて、全部針が違うの。つまり、時計は同じなんだけど、時刻はまわってるってことで、針が違うんです。というおもしろい絵が入ってます。(《安藤元雄――『秋の鎮魂』から『めぐりの歌』まで》、前橋文学館、2000、二三ページ)

吉岡は《夜の音》のほかにも安藤元雄詩集《舟と その歌〔別装版〕》(思潮社、1973) の装丁をしている。詩人としては、安藤の詩について次のように書いている。

古本屋の雑多なる堆積の闇から、私は一冊の薄い本を、光のなかへ抽き出し、慰撫する。まだ真新しい、それは安藤元雄の処女詩集《秋の鎮魂》であった。福永武彦の寄せた〈序〉の言葉が、この詩人の思念の本質を、的確に捉えているように思われる。〔……〕清澄で内省的なこの詩人は、永い時間をかけた、《舟と その歌》を、一過程としつつ、やがて成熟した、作品《水の中の歳月》を創り上げた。(《安藤元雄詩集〔現代詩文庫79〕》、思潮社、1983、表紙4〔句読点を改めた〕)

吉岡実詩集の基本版面(2004年1月31日)

吉岡実が生前に刊行した一二冊の詩集の本文の基本版面を調べることで、詩集設計の特徴を探ってみたい。なお、Iの《ポール・クレーの食卓》は亞令による装丁だが、著者自装に準ずるものとして同列に扱う。最初に次の表をご覧いただきたい。

吉岡実詩集基本版面
書名 天地 活字 字詰 版丈 天下 地上 左右 行数 行間 版幅 小口 ノド
@ 昏睡季節 172 9 20 63 46 63 121 14 5.25 68 20 33
A 液体 210 10.5 17 63 37 110 148 17 5.25 92 30 26
B 静物 188 10.5 30 111 49 28 131 11 10.5 77 34 20
C 僧侶 190 10.5 27 100 35 55 145 13 10 90 30 25
D 紡錘形 202 10 27 95 45 62 150 13 10 88 36 26
E 静かな家 210 9 27 85 39 86 148 14 12 99 31 18
F 神秘的な時代の詩 236 10.5 26 96 46 94 140 12 10.5 85 37 18
G サフラン摘み 220 10 34 119 33 68 142 14 8.5 88 37 17
H 夏の宴 220 10 27 95 42 83 142 14 9 90 33 19
I ポール・クレーの食卓 192 10.5 25 92 38 62 97 10 5 53 29 15
J 薬玉 245 12 33 139 37 69 173 15 9 108 43 22
K ムーンドロップ 218 12 35 148 28 42 143 13 7 84 37 22
平均 209 10.4 27 100 40 69 140 13 8.5 85 33 22

備考
(1)天地=天地寸法(mm)
(2)活字=活字ポイント
(3)字詰=字詰め
(4)版丈=版面天地(mm)=[活字ポイント]×[字詰め]×0.3514
(5)天下=天のアキ(mm)
(6)地上=地のアキ(mm)=[天地寸法]−[天のアキ]−[版面天地]
(7)左右=左右寸法(mm)
(8)行数
(9)行間=行間ポイント
(10)版幅=版面左右(mm)=([活字ポイント]×[行数]+[行間ポイント]×[行数−1])×0.3514
(11)小口=小口寸法(mm)
(12)ノド=ノド寸法(mm)=[左右寸法]−[小口寸法]−[版面左右]

〈備考〉のうち計算式のない項目は、各詩集の初刊を実測した数量・数値である(ただしKは〈聖あんま断腸詩篇〉のみ五号〔10.5ポ〕一五行組)。念のため付け加えれば、これらは組版の基本設計であって、言うならば「容器」である。全体を概括してみよう。
本文ページの(1)天地寸法はA5判(天地〔丈〕210×左右〔幅〕148mm)内外で、(7)左右寸法は短めのA5判が多い。吉岡詩集の判型は規格寸法(正寸判)が少なくて、正寸よりも縦長の変型判が過半を占める。縦長の比率の高い順に詩集を並べれば、I、F、GとH(同比率)、K、B、@で七冊。正寸はA、E(ともにA5判)で二冊。逆に正寸よりも横長を順に並べれば、J、D、Cの三冊となる。
(2)活字ポイントは本文の使用活字のサイズで、基本的に10ポか五号だが、JとKが12ポなのが注目される。またEが9ポなのは先行する《吉岡実詩集》(思潮社、1967)の組版を流用したためで、単行詩集のための新組なら10ポか五号が採用されたはずだ。
(3)字詰めで、@が一行20字なのは原稿用紙と同じに組んだためか。後年、吉岡は執筆に「草蝉舎」の名入りの特注原稿用紙(32字×20行)を用いたが、たいてい上下を空けて書いている。
(4)版面天地はベタ組がほとんどのため計算式で出したが、厳密に言えばAは字間四分アキであり、実際の寸法は63mmの約1.25倍になる(@も字間を割ってある)。
(5)天のアキ(6)地のアキを比較すればわかるように、版面は基本的にページの中央よりも上に配置されている中にあって、Bだけが意図的に下に置かれている。
(7)左右寸法ではJが例外的に大きいが、(8)行数を見ると他の詩集よりそれほど多いわけではない。また、左右が短いから仮製本(フランス装)、長いから本製本(ハードカバー)というわけでもないようだ。
(9)行間ポイントはIを除いて本文の二分以上で、全角行間のものも多く(B、D、F)、総じてゆったりと組まれている。
(10)版面左右でもJが目立つ(Iの約二倍ある)。
(11)小口寸法(12)ノド寸法では、@を除いて小口の方が広く取ってある(@のノドが広いのは、袋綴じであることが影響していよう)。

これらの詩集の平均値を基にして、実際に基本版面を設計してみよう。判型はA5変型判の天地209×左右140mm(天地ほぼ正寸で、左右をカットした縦長本)。本文活字は五号、行間は8.5ポ。字詰めは27字、行数は13行(1ページに収容できる文字数は351)。刷り位置は天から40mm下(地から69mm上)、小口のアキが34mm(ノドのアキが22mm)。ノド、小口、天、地の順に広くなる恰好だ。もちろん、吉岡実がこのような版面を設計したわけではないが、単行詩集を刊行するにあたってイメージしたもののおおよそはつかめるだろう。下に見開きページのダミーを掲げる。

吉岡実の12冊の詩集の平均値を基に設計した基本版面(見開き状態)
吉岡実の12冊の詩集の平均値を基に設計した基本版面(見開き状態)

上記の表〈吉岡実詩集基本版面〉の数値からは、天地と版丈(行長)の比率、左右と版幅の比率、ページと版面の面積の比率などが算出できるし、〈吉岡実書誌〉〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉を参考にすれば、これから詩集をまとめたいと考えている方には組版設計の目安となるだろう(詩集設計の要諦は、原稿分量すなわち総行数にあるのだが)。今回は本文の基本版面(とその刷り位置)の分析に終始したが、いずれノンブルや標題まわりについても調査するつもりである。


吉岡実の装丁作品(9)(2003年12月31日)

林哲夫さんの〈色――吉岡実の装幀〉(《古本スケッチ帳》、青弓社、2002)は短文ながら、傑れた吉岡実装丁論である。

 吉岡本の特長はまずそのセンター合わせのレイアウトにある。書名・著者名(縦組み横組みにかかわらず)、ワンポイントの図案、版元名、これら必要最小限の要素を表紙およびカバーの縦の中央線を基準としてじつにバランスよく配置する。これは、フランスの仮とじ本の影響も少しはあるかもしれないが、誰しも思いつき、誰にでもできることであって、その意味ではまさにアマチュア的である。そして、誰にでもできることをみごとにやってのけるほどむずかしいことはない。吉岡はサッとやってのけ、しかもおのずからなるたたずまいを感じさせる。
 いまひとつの特長、天性のものとしか思われない感覚の発露は「色彩」である。箱・カバー・表紙・見返し・扉、そして本文紙。それらひとつひとつのマティエールと色合いが吉岡でなければけっして結集させることのできないような組み合わせになっている。(同書、一四三ページ)

付け加えることがあるとすれば、吉岡実のレイアウトの根幹には「書」があっただろうことくらいである(若き日に彫刻家を夢みて果たさなかった吉岡は、油桃子佐藤樹光の夢香洲書塾の手伝いをしている)。

《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年4月5日)の函と表紙
《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔第2巻〕》(筑摩書房、1971年4月5日)の函と表紙

ここに掲載した《芥川龍之介全集 筑摩全集類聚〔全8巻・別巻1〕》(筑摩書房、1971年3月〜)には装丁者のクレジットがない。林さんも前掲書の写真〈筑摩書房時代(1951-78年)に吉岡実が装幀したと思われる全集類の一部〉には本書を挙げていない(《芥川龍之介全集》はあるが)。私には、岩波書店の《日本古典文學大系》に似た煉瓦色のクロスや貼り題箋の採用などから、吉岡装丁のように思えてならない。それもあって、本書を〈吉岡実書誌〉の〈装丁作品目録〉に掲げた。仕様は一八八×一三〇ミリメートル・第2巻は四三六ページ・上製・機械函入。


吉岡実の装丁作品(8)(2003年11月30日)

吉岡実は《「死児」という絵》の〈あとがき〉をこう結んで、担当編集者への謝辞としている。

 ここ四、五年の間、きわめて怠惰な私をたえず叱咤激励し、散逸した文章を丹念に集め、編集してくれた八木忠栄に感謝する。(同書、三四五ページ)

八木忠栄は思潮社の編集者として吉岡初の散文集を手掛けたばかりでなく、雑誌として初の「吉岡実特集」を組んでいた。すなわち、《現代詩手帖》一九六七年一〇月号の〈特集・吉岡実の世界〉である。同誌の後記〈編集のおと〉から引く。

 吉岡実氏の全詩集が刊行されるのを機に、戦後詩人のなかでも、際立って特異な位置を占めているにもかかわらず、正面きってとりあげられることの少なかったこの詩人について特集した。とりわけ、このような場所で詩に関しての発言をされることが殆どなかった吉岡氏自身に、初めて登場してもらった対談は、興味深くお読みいただけると思う。(同誌、一三二ページ)

八木忠栄は詩人である。一九六二年の《きんにくの唄》以降の詩集と未刊詩篇をまとめたのが、《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982)だ。限定八〇〇部、仕様は二一〇×一二八ミリメートル・二九八ページ・上製・ジャケット・機械函入。鈴木志郎康とともに本書の編集を担当した高橋睦郎は〈上梓まで〉で「装釘を吉岡実さんにというアイディアは書肆山田との打合せの中で出て来た。吉岡さんが二つ返事で引受けてくださったことは嬉しかった」(同書、二九〇ページ)と振りかえっている。装丁では、古代の壺の模様のような、《風の谷のナウシカ》タイトルバックの綴織のようなカット(クレジットがないが、誰の手になるのだろう)が眼を惹く。

《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の函とジャケット 《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の本扉と見返し
《八木忠栄詩集――1960〜1982》(書肆山田、1982年4月30日)の函とジャケット(左)と同・本扉と見返し(右)


吉岡実の装丁作品(7)(2003年10月31日)

中島かほる〈吉岡実と「社内装幀」の時代〉(《ユリイカ》、2003年9月号)は、創見に充ちた、教えられるところが実に多いインタビュー記事である。たとえば、吉岡の作業現場を知る装丁家ならではの次の発言。

 表紙を開けたところにある見返しについては、吉岡さんは淡クリーム白孔雀など、薄いクリーム色を好んで使われていました。あまりはっきりした色の見返しは好まれなかったんです。ナチュラルな、うるさくない紙。一般的には表紙の色とのバランスで、見返しにはっきりと色のついた紙を用いることも多いのですが、表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっているんだという意識が吉岡さんにはあったんだと思います。それと全集はたいてい厚くて重いので、やはり丈夫な紙でないといけないということもあったでしょうね。後年は、ファンシー・ペーパーではシマメ紙もお好きでしたね。(同誌、一四三ページ)

どうしても函や表紙・本扉に目が行きがちだが、「表紙を開いたら、そこからすでに本文が始まっている」という見返し観には得心がいった。

《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の函と本体 《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の本扉と見返し
《高橋新吉全集〔第1巻〕》(青土社、1982年7月15日)の函と本体(左)と同・本扉と見返し(右)

今回は、〈〈吉岡実〉を語る〉でも触れた高橋新吉の全集を見よう。吉岡は高橋全集の内容見本に推薦文〈わが新吉讃〉を寄せている(単行本未収録)。全文を引く。

 わたくしが高橋新吉さんの詩に、触れたのは『高橋新吉の詩集』が最初だった。だから、昭和二十四年頃のことである。そのなかに珠玉「るす」があった。それから『胴体』まで読み、名作「甲板」をめでつつ、新吉さんの詩と別れた。わたくしは誰とも別れる。
 この伝説的な詩人と出会い、人間的魔力に魅せられる。当然ながら、詩を再び読みはじめた。その詩的宇宙は広く、ダダイズム風詩篇から、禅機をはらむ数々の作品群がある。肉と魂――あるいは毒と夢が混合し、分離し、沸騰している。いや沈潜しているのかもわからない。それでありながら、不思議と鮮明に、詩の実態と、思想の核が、見えるのだ。(《高橋新吉全集》内容見本、1982年1月1日、青土社)

吉岡は《高橋新吉全集》(限定一〇〇〇部、仕様は二二一×一五一ミリメートル・上製・貼函入)にどのような素材を選定したか。表紙は茶の布クロスだ(《入沢康夫〈詩〉集成・1951〜1978》や吉岡の《「死児」という絵》よりも明るい茶色)。吉岡にとって筑摩書房以外の版元からの全集では、《高柳重信全集》が最も深い関わりで(編集委員・装丁担当・月報執筆)、内容見本執筆・装丁担当の《高橋新吉全集》はその次に位置する。寡聞にして吉岡詩と高橋詩の関係を述べた文章を知らないが、《薬玉》以降の詩業と高橋の文業とに浅からぬ因縁を感じるのは私だけだろうか。


吉岡実の装丁作品(6)(2003年9月30日)

那珂太郎は追悼文〈吉岡實追想〉で吉岡実の人と作品を振りかえり、その装丁にも言及している。

 一九六五年、私が詩集『音楽』を出すとき、発行元の小田久郎と一緒に彼を訪ねて装幀を頼んだ。以前に出た彼の『紡錘形』と同型のフランス装である。題名についても、さきに三島由紀夫の小説に『音楽』といふ題があり、いささか気になり『 波の[、、] 音楽』とか何とか付け足したら、とも迷つたが、彼は言下に、ずばり『音楽』で行くべきだと断定した。『波の』を加へたら、並の題名になつただらう。
 一九七三年から始つた朔太郎全集の編集事務の数年間は、筑摩書房で毎週のやうに彼と顔を合せたものだ。全集の装幀については、『定本青猫』表紙の黄色と、『虚妄の正義』の鴉のデザインのアイディアを出して相談したら、彼は鴉を黒にせず、金箔で押して見事な装幀に仕上げてくれた。(《現代詩手帖》1990年7月号、三三ページ。のち随想集《時の庭》(小澤書店、1992)に収録の際、正字に改められている)

那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)の函と表紙 吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の函と表紙
那珂太郎詩集《音楽》(思潮社、1965年7月10日)の函と表紙(左)と吉岡実詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日)の函と表紙(右)

詩集《音楽》は限定四〇〇部。仕様は、二〇一×一四八ミリメートル・九〇ページ・フランス装・機械函(印刷所・製本所とも《紡錘形》とは異なる)。カット落合茂。全体のテイストからいって間違いなく吉岡実装丁だが、装丁者のクレジットがない。残念なことに、函・表紙とも「那珂太郎詩集」という横組の活字の並びがバランスを欠いている。書体の加減だろうが、縦組では気にならない「太」の字が大きすぎるのだ。次に那珂太郎装丁原案の《萩原朔太郎全集》に登場してもらおう。

《萩原朔太郎全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1975年5月25日)の函と表紙
《萩原朔太郎全集〔第1巻〕》(筑摩書房、1975年5月25日)の函と表紙

仕様はA5判・上製・貼函。本書の装丁に関しては〈装丁でも才能発揮する詩人の吉岡氏〉に吉岡実のコメントがある。「うん、朔太郎全集なんかちょっと自慢なんだな」「黄ってのは間違うと赤っぽくなったり白っぽくなったりして、むつかしいんだ」(《朝日新聞〔夕刊〕》、1976年4月27日、七面)。表紙用クロス(アートカンバス)の色にしか触れていないが、函の「萩原朔太郎全集」という文字組は完璧だ。函と表紙で、《虚妄の正義》の鴉の位置を違えているのにも注目したい。


吉岡実のレイアウト(2)(2003年8月31日〔2004年2月29日追記〕)

〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の扉 〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の中面
〈ルイス・キャロルを探す方法〉(《別冊現代詩手帖》第2号、思潮社、1972年6月)の扉(左)と同・中面(右)

クレジットには「本文レイアウト 田辺輝男」とあるが、《別冊現代詩手帖》(第1巻第2号、〈ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮〉、思潮社、1972)に掲載された〈ルイス・キャロルを探す方法〉(同前、一五七〜一六四ページ)は、キャロルの写真を材に、吉岡が詩とモンタージュのみならずレイアウトまで手掛けたものかもしれない。今回、写真撮影のために新たに一本購ったところ、前に求めたものよりもオレンジ色がかった紙に替わっていた(この別冊は何度も増刷されている)。吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈の詩篇〈少女〉で、この〈ルイス・キャロルを探す方法〉に触れた箇所があるので、字句を正して引用する(《文藝空間 会報》第24号、1994、〈「少女の夢のはらみ方」〉より)。

 初出〈ルイス・キャロルを探す方法〉は、冊子ではそこだけほかの白の本文用紙とは別の黄味がかった紙に刷られ、次のような構成になっていた。
 ・一ページめ タイトル〈ルイス・キャロルを探す方法〉(描き文字はキャロルに敬意を表してのものか。子供っぽい字だが、吉岡の手になるかもしれない)、執筆者名。そして
 Photo by Lewis Carroll
 Poem & Montage by Minoru Yoshioka
ときて(これは写真のキャプション、つまり説明文を意識したレイアウトに見えなくもない)、その左にキャロル撮影による乞食の少女に扮したアリス・リデルの全身像の「扉」。
 ・二〜三ページめ 〈わがアリスへの接近〉と合計七人の「アリスたち」の写真〔後出《Lewis Carroll―Photographer》の図版番号32、54、34、60、17=ノートリミング、42、29〕。
 ・四〜八ページめ 〈少女伝説〉と、合計二五点の写真に閉じこめられた「アリスたち」〔同じく15、53、5、49、37、59、4、16、51、39、43、30、13、44、40、28、36、14、10、3=ノートリミング、50、46、52、26、62=ほとんどトリミングしていない〕。
 写真の少女たちの表情は一様に暗い。塚本邦雄のアリス論に見える描写を借りれば「たとへばマリー・ミレーは独房さながらの部屋の隅に、追ひつめられた揚句力尽きたかにくづほれ、華奢な脚を斜に投げ出してゐるが、その容貌はジャンヌ・モローそつくり。また、アリス・ジェーン・ド〔ママ〕キンは二階の出窓から脱出しようとして女忍者もどきに繊い縄梯子に脚をかけてゐるところ。エリザベス・ヒュッセーはたゆげに寝椅子に靠れかかつて、その媚を含んだ伏目はオダリスクの風情である」(塚本邦雄《煉獄の秋》、人文書院、1974、八○ページ)で、この類の写真が都合三三点ある。
 吉岡実は高橋康也に〈少女伝説〉の作詩法をこう語っている。「『不思議の国のアリス』を読んでまず感動し、つぎに『鏡の国』を読んだ、これもいい、と参った。実は、そこで止まっていたのを、たまたま桑原茂夫君に『別冊現代詩手帖キャロル特集号』のために書けってせっつかれたのね。そこで種村さんの『ナンセンス詩人の肖像』の中のキャロル論を読んだりしているうちに、少し開けてきた。とにかく、キャロルの撮った少女たちの写真を机の上に並べておいて、名前を書き出してみた。そしてそのキャプションみたいなつもりで詩を書いてゆけばいいんだと思うと、一種の気楽さが湧いてきて、相当なスピードで「少女伝説」が書き上がったんです。この名前というのが、かなり決定的な重要性をぼくに対してもつことになるのね」(高橋康也《ノンセンス大全》、晶文社、1977、三五八〜三五九ページ)。一九世紀イギリスの童話作家・写真家と二〇世紀日本の詩人・装丁家が出あった瞬間である。
 ときに「キャロルの撮った少女たちの写真」とは具体的になにか。種村季弘の《ナンセンス詩人の肖像》(竹内書店、1969)には「キャロルの写真(『ドウ』誌より。右上はキャロル)」(同前、一五○〜一五一ページ)という具合に雑誌の複写が見開きで載っているが、少女のカットは全部で九点〔14、42、15、36、29、39、50、51、17〕と少ないから、吉岡が依ったのは矢川澄子が〈不滅の少女〉で触れている「ヘルムート・ゲルンシャイム著『写真家ルイス・キャロル』。一九六九年ドーヴァーの新版で、原著は四九年にロンドンで刊行されている」(《別冊現代詩手帖――ルイス・キャロル》、一八一ページ)か、そのコピーだろう。新版(Gernsheim, Helmut《Lewis Carroll―Photographer》, Dover Publication, 1969)はわりあい容易に入手できるから実物を観れば一目瞭然なのだが、私は百年以上前の男の、少女への眼の欲望に驚愕・讃歎を禁じえなかった。徹頭徹尾、眼の人であった吉岡実がこれらの写真に感応しなかったと考えることは不可能である。
 詩篇執筆の順序は、おそらく〈少女伝説〉のJに続いてKが書かれ(このとき末尾の詩句から総題が生まれた可能性がある。本文よりも進行を急ぐ初出誌の別刷目次が正式な題名〈ルイス・キャロルを探す方法〉と異なり、単に〈キャロルを探す方法〉となっているのは、総題がいちはやく初案のまま編集者に伝えられた結果か)、さらに角川文庫版《鏡の国のアリス》を読みなおし、行わけの〈わがアリスへの接近〉が書かれた、という按配だろうか。

《Lewis Carroll―Photographer》はその後、邦訳が出た。ヘルムット・ガーンズハイム著《写真家ルイス・キャロル》(人見憲司・金澤淳子訳、青弓社・写真叢書、1998〔底本は1949年刊の原著〕)である。ドーヴァーの新版に収録されているキャロル撮影の写真も、(口絵ではなく)本文に掲載されているが、キャプションの長いページなど一部にトリミングが施されており、吉岡のモンタージュ素材とまったく同じ絵柄というわけではない。

〔2004年2月29日追記〕
桑原茂夫〈ルイス・キャロルの写真術〉の次の記載に(再び)出会った。「ちなみに、少女の写真は、吉岡実さんご自身がレイアウトをし、そのページの用紙までご自身で選ばれた。選んだのは紀州上質のサーモンピンクであった」(《彷書月刊》1996年9月号、六ページ)。担当編集者のこの証言によって、吉岡実のレイアウトであることがはっきりしたわけだ。上の文を書くにあたって〈ルイス・キャロルの写真術〉を参照しなかった(正確に言えば、資料の整理が悪くてアクセスできなかった)のが悔やまれる。


吉岡実の装丁作品(5)(2003年7月31日)

フランス装は、表紙にボール紙の芯を入れる上製本とは異なり、どうしても強度が出にくい。本文が重いものには向かないのだ。思潮社版《吉岡実詩集》のブックデザインは杉浦康平だが、あれだけのボリュームになると表紙の用紙も厚くなり、フランス装本来の軽快さはない。一〇〇ページに満たない単行詩集にこそ、フランス装はふさわしい。吉岡実の詩集でいえば《静かな家》のような。自分の詩集をそのように装いたい、ついてはぜひ吉岡に装丁してもらいたい、と考える詩人が出てきても不思議ではない。ここに川口澄子の詩集《待時間》がある(限定三〇〇部。仕様は、A5判・六四ページ・フランス装・機械函。なお出版社・印刷所・製本所とも《静かな家》と同じ)。

川口澄子詩集《待時間》(思潮社、1974年6月1日)の函と表紙 吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)の函と表紙
川口澄子詩集《待時間》(思潮社、1974年6月1日)の函と表紙(左)と吉岡実詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日)の函と表紙(右)

吉岡の一九五八年七月二一日の日記に「入沢康夫、川口澄子とかたつむりで食事。デミアンでお茶。」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一八ページ)とあるが、川口は当時、吉岡とともに筑摩書房の社員だった。寡作の詩人だったようで、《待時間》は一九六二年から七二年にかけての詩一一篇を収める。5節からなる散文詩〈半眼〉(一九六二年一二月制作)の「1」を引く。

幽霊船が出てゆくとき 空には三つの太陽があった 港は祭 白いスカートが太い脚で縫いあわされる 裏手の岡では 子供たちの頭上で 焚葬のもえぎ色の旗が裂かれた 古い城壁が崩れ落ち その下の池で 老人たちが水浴に励んでいる そのとき 幽霊船の水夫たちは 塩辛い咳をしながらひそかに錨をあげる その中には 夜の海しか隠されていない 半眼のしるしある錨を

川口は詩集も少なくて、これ以前には《新しい死》(あもるふ社、1962)があるくらいだ(ほかにも著書はあるようだが、未見)。なんとかして《川口澄子全詩集》が出ないものだろうか。――と書いたところへ、インターネットで注文していた《新しい死》が届いた。

川口澄子詩集《新しい死》(あもるふ社、1962年7月22日)の函と表紙
川口澄子詩集《新しい死》(あもるふ社、1962年7月22日)の函と表紙

はたせるかな、この装丁も吉岡実だ。仕様は、菊判・七四ページ・フランス装・段ボール紙に貼外題の機械函、限定二〇〇部。巻末には〈制作メモ〉があり、一九五二年七月の〈アカルイ〉から一九六一年三月の〈わたしと馬〉(〈波よ永遠に止れ〉を想わせる雄篇)までの二〇篇が制作順に収められている。川口澄子に吉岡実に触れた文章があるか詳らかにしないが、これら二冊の詩集の装丁を頼んだことがすべてを物語っていよう。


吉岡実の装丁作品(4)(2003年5月31日〔2009年4月30日追記〕)

グレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)の表紙 グレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)の本扉
グレアム・グリーン(丸谷才一訳)《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)の表紙(左)と同・本扉(右)

吉岡実は未刊行の散文〈篠田一士追想〉で、こう書いている。

或る日、編集者I〔壺井繁治詩集《風船》の担当者でもあった石井立と思われる〕が一人の青年をつれてきた。近く刊行する翻訳小説の造本・装幀の打合せのためだ。それが丸谷才一だった。たちまち闊達な人柄にひかれ、以来、親しく雑談するようになった。やがて、グレアム・グリーンの『不良少年』(ブライトン・ロック)が出版された。難波田龍起装画の新鮮なフランス装の本と成った。(《ユリイカ》1989年6月号、六八ページ)

仕様は、B6判・二九二ページ・フランス装・帯。本扉裏には「装幀 難波田龍起」とクレジットがあるが、吉岡の文からすると「装画 難波田龍起」、「造本・装幀 吉岡実」だろう。

丸谷才一《エホバの顔を避けて》(河出書房新社、1960年10月10日)の本扉とジャケット〔署名献呈入り〕
丸谷才一《エホバの顔を避けて》(河出書房新社、1960年10月10日)の本扉とジャケット〔署名献呈入り〕

本書は吉岡実の装丁ではないが、吉岡の日記に「〔昭和三十五年〕五月二日 丸谷才一とお茶。《エホバの顔を避けて》とうとう出版されることになる。」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一二三ページ)とあるので、関連書としてここに掲げる。私はこの献呈本を龍生書林のオンラインショップで入手したが、ふたりの交友を物語るように、ほかにも《梨のつぶて》、《たった一人の反乱》、《後鳥羽院》などが贈られている。

〔2009年4月30日追記〕
丸谷才一の《挨拶はたいへんだ》(朝日新聞社、2001年6月1日)を読んでいたら、〈ある新聞社小説について〉に、最初の長篇小説《エホバの顔を避けて》は「福永武彦さんが河出の坂本一亀さんにかけあつて、出るやうになつたんです。そのとき中村真一郎さんが言ひ出して、出版記念会を開いていただきました。石川淳さんがスピーチで、「丸谷君の本は十年がかりと聞きましたが、十八年かければ親の仇が討てるかもしれない」と曾我兄弟にかけての夷齋ぶしでした」(同書、七七ページ)とあった。むろんこの新聞社小説は長篇第5作の《女ざかり》(文藝春秋、1993)で、このスピーチは2度めの出版記念会となった〈丸谷才一さんと『女ざかり』の会〉でのもの。


吉岡実の装丁作品(3)(2003年4月30日)

壺井繁治詩集《風船》(筑摩書房、1957年6月20日)の函と表紙
壺井繁治詩集《風船》(筑摩書房、1957年6月20日)の函と表紙

壺井繁治の詩集《風船》(限定500部)の詩篇〈犯人〉(1957年2月8日脱稿)が、吉岡実の〈過去〉と同種の趣なので、追込みで引用してみたい(漢字は新字に統一した)。

コマ切れの肉片が/ビニールの大きな袋の中から/透けて見える。/誰もまだ寝起きした形跡のないベッドの上に。//真っ白い/壁にかこまれた部屋。/此処は/ホテルか、/病院の一室か。/冷たい床に/紅い薔薇の花と、/鋭い解剖刀が落ちている、/なにかの格闘の跡のように。//僕は生体解剖の残骸を携えて/此処へ逃げてきたのだろうか。/それとも誰かにこれを押っつけられて、/その処分に困っているのだろうか。/どちらにしても、/アリバイの現われぬうちに、/証拠を湮滅しなければならぬ。//そっと夢遊病者のように/部屋から外へ抜けだすと、/眼の前に/大きな河が流れている。/暁ちかく、/そのほとりには/誰もいない絶好のひととき。/そこへ/その証拠の品を投げ棄てようとしたら、/袋の中のコマ切れたちが/口口に叫びだした。/――罪は消せんぞ!/――貴様が犯人だ!/――罪は消せんぞ!/――貴様が犯人だ!//それらの声声は、/僕の/内からも/外からも聞えてきた。//僕の/腸はよじれ、/神経はその痛みのために/ことごとく目を覚まし、/眼の前だけは、/トンネルの中のように真っ暗となった。/そして何処へも棄てられぬ、/その大きな袋をかたわらに置いたまま、/いつまでも河のほとりで/呻きつづけた。

《風船》には、吉岡在社時の筑摩書房の本には珍しく、「装幀 吉岡実/挿画 小山田二郎」という表示がある。仕様は、A5判変型(192×148mmは《僧侶》よりほんの少し大ぶり)・一三四ページ(挿画六葉)・上製丸背クロス装・貼函。壺井は〈あとがき〉を「なおこの詩集出版に当って、筑摩書房の石井立・吉岡実の両君の協力を得たことをこころから感謝する。」(壺井繁治詩集《風船》、筑摩書房、1957、一一五ページ)と結んでいるが、吉岡には壺井に触れた文章がないようだ。次に壺井の最後の詩集となった《老齢詩抄》の書影を掲げる。仕様は、菊判・一三〇ページ・上製角背布装・貼函。ちなみに二詩集とも、表紙には緑系の色を採用している。

壺井繁治詩集《老齢詩抄》(八坂書房、1976年8月25日)の本扉と函
壺井繁治詩集《老齢詩抄》(八坂書房、1976年8月25日)の本扉と函


吉岡実のレイアウト(1)(2003年3月31日)

《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、1981年11月)の表紙 《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、1981年11月)の中面
《西脇順三郎の絵画》(草月美術館、1981年11月)の表紙(左)と同・中面(右)

吉岡実のレイアウトとして知られる作品は少ない。この《西脇順三郎の絵画》は、草月美術館(東京・港区)で開かれた〈西脇順三郎の絵画〉展(1981年11月9日〜30日)の図録だ。仕様はB5判・二四ページ・中綴じ。表紙のみカラー。吉岡は〈西脇順三郎アラベスク 13 絵は美しいブルー・お別れ〉で西脇の詩篇〈神々の黄昏〉を引いたあと、こう書いている。

昨年の十一月に草月美術館で、「西脇順三郎の絵画」展が催された。〔……〕さて、引用した詩は、案内目録の扉に掲げられたものだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二四六ページ)

私はこの展覧会は観ておらず、「案内目録」も後に古書で入手したものだ。「中面」写真の右下には、あの《夏の宴》の装画も掲載されている(これらの絵には、後年、新潟市美術館で対面できた)。

〔西脇先生は〕日本画の筆を使われ、私の目の前で、三人の女神が裸で踊っている絵を描かれた。それはまさに、私の詩にふさわしいエロチックな風情があった。(同前)

吉岡実の装丁作品(2)(2003年2月28日)

土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の函と表紙  土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の本扉
土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の函と表紙(左)と同・本扉(右)

吉岡実はフランス装を愛した。処女出版《昏睡季節》以降、多くの自著にフランス装を採用し、依頼された装丁にもすぐれた作品を遺した。土方巽の《病める舞姫》がその代表だろう。仕様は菊判・本文二三四ページ・フランス装・貼函(貼外題)。

土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の本体と函  土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の表紙をめくったところ
土方巽《病める舞姫》(白水社、1983年3月10日)の本体と函(左)と同・表紙をめくったところ(右)

吉岡は、数年ぶりに土方巽と会った一九八二年一二月一六日の日記にこう書いている。「〔編集担当の〕和気元にうながされ、『病める舞姫』の造本・装幀の打合せとなったが、すべてまかされたようで、いささか責任が重いと思った」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一四二〜一四三ページ)。以下、同書から引くのは、吉岡実が自身の装丁に関して書いた最も精細な件である。

〔……〕和気元と会い、アスベスト館へ行く。土方巽は居間にひとりいる。〔……〕フランス装の束見本を見せたら、すっかり気に入ったようだ。(1983年2月3日)

テレビで東京国際マラソンを観る。瀬古選手優勝。一歩も外に出ず、『病める舞姫』の装幀に没頭し、深夜三時に完了。(2月13日)

正午、道玄坂トップで和気元に『病める舞姫』の装幀の文字、カット及び色などの指定書を渡す。(2月14日)

東急プラザ四階のパーラーニシムラで、和気元と会い、表紙、扉、函の外題貼りの色校正など。(2月24日)

午後二時、プラザのニシムラで、和気元と会い、『病める舞姫』の見本一冊を受ける。美しい本になったと自負するも、土方巽の反応はいまひとつだったらしい。いずれそのうち気に入ることだろう。(3月10日)

土方巽の使いの者が署名入り本と大阪屋の最中一函届けに来た。(3月30日)

一九九〇年、《現代詩読本――特装版 吉岡実》の打ち合わせで吉岡家を訪問したおり、二穴に紐で簡易製本した土方巽の連載が書庫にあるのを見た。あれは装丁を依頼されるまえすでに、吉岡が手ずからまとめた切り抜きだったのだろうか。連載の第八回(《新劇》1977年12月号)には、吉岡が一九八二年一二月《ユリイカ》臨時増刊号に発表した詩篇〈秋思賦〉の末尾「((人間はたったひとりで焼け焦げる))」のスルスと思しい「〔……〕老婆は、たった一人で焼け焦げている〔……〕」という行が見える(土方巽《病める舞姫》、白水社、1983、一五七ページ参照)。


吉岡実の装丁作品(1)(2003年1月31日)

吉岡実が手掛けた自著以外の装丁を順不同で見ていこう。まずは《校本 宮澤賢治全集》(全一四巻)。これは吉岡が筑摩書房に在籍していた一九七三年五月から刊行が始まっているため、装丁者のクレジットはないが、吉岡装丁を代表するものといってよい。仕様はA5判・上製・貼函入。「草稿のすべてを顕わにし、明確に提示する草稿本位の全集」(同書挟込の《新刊ニュース》)として、繰り返し読むのにふさわしい落ち着いた仕上がりになっている。同全集の月報に依れば「第八回造本装幀コンクールで、本全集が日本図書館協会賞を受賞」している。校本全集の読者が確か《ちくま》で《広辞苑》との類似を指摘していたので、試みに両者を並べた写真を掲げる。

《校本 宮澤賢治全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1973年5月15日)の函と本体 《校本 宮澤賢治全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1973年5月15日)と新村出編《広辞苑〔第二版〕》(岩波書店、1969年5月16日)の背表紙と函
《校本 宮澤賢治全集〔第7巻〕》(筑摩書房、1973年5月15日)の函と本体(左)と同書と新村出編《広辞苑〔第二版〕》(岩波書店、1969年5月16日)の背表紙と函(右)

確かに本体のクロスと函の色調が通じている。当時、勤務先の筑摩の広告部に《広辞苑》があったことは確実だが、吉岡はすでに《西脇順三郎全集》(1971〜)で赤の、ここで青の、のちの《萩原朔太郎全集》(1975〜)で黄のクロスを使用している(松田哲夫さんに〈吉岡実、あるいは特注クロス黄金時代の巻〉という装丁論がある)。《広辞苑》には「装幀 安井曾太郎」とあるが、岩波書店で長く造本を担当し、《日本古典文學大系》なども手掛けた藤森善貢氏の造本設計であると聞く。


吉岡実の特装本(2002年8月31日〔2002年12月18日追記〕)

〔はじめに〕 吉岡実の著書にはかなりの数の特装本がある。そのすべてを手に取ったわけではないが、実見する機会のあったものについて書いてみる。元本の刊行順でいこう。

吉岡実の特装本 目次
詩集《液体》 詩集《静物》 詩《異霊祭》 詩集《神秘的な時代の詩》 詩集《サフラン摘み》 詩集《夏の宴》 拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》 詩集《薬玉》 日記《うまやはし日記》 ルリユール〔2004年2月29日追記〕

詩集《液体》

詩集《液体〔特装本〕》の表紙 〔《加藤京文堂古書目録》(2003年3月)から。なお売価は200,000円〕
詩集《液体〔特装本〕》の表紙 〔《加藤京文堂古書目録》(2003年3月)から。なお売価は200,000円〕

たしか二〇〇一年に神田・神保町の田村書店で、続いて同じく玉英堂書店二階の稀購本ルームで手にしたが、高額なため購入していない。田村のショーウィンドウにあったのがあまりに珍しかったので訊くと、店主の奥平晃一さんも初めて扱ったとのことだった。玉英堂ではゆっくりと見られた。二〇〇二年七月時点での同店のwebサイトにはこうあった。
「特製8部 毛筆署名入 総革装 湯川書房 昭46 叢書「溶ける魚」No.2」。売価は二〇万円。
《液体》再刊本の表紙を変えて(それとも紙表紙を見返しのように貼りこんで?)あるが、表紙の青緑色の総革に太めの白い革帯が三本、アクセントとして配されている。原本の奥付対向ページに墨書(湯川書房主人の手になるものか)の奥付が添付してある。以下に奥付ページの記述を転載する。
「本書は八部に限り
特装本を作った
湯川書房〔陰刻〕 7」

詩集《静物》

詩集《静物〔革装本〕》の函と表紙〔太田大八氏所蔵〕
詩集《静物〔革装本〕》の函と表紙〔太田大八氏所蔵〕

これについては吉岡実自身が一九五八年八月四日の日記に書いている。
「《静物》革装本五冊できる。黒二冊、赤三冊。Y・Wに黒。大八、耕一に赤を贈る。」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一八ページ)
一九九一年(一〇月一九日から一一月二四日まで)、県立神奈川近代文学館で〈日本の詩歌展――詩・短歌・俳句の一〇〇年〉が開催された。そこに出品されたのが黒革装本の《静物》である。説明文に曰く「1955年(昭和30)8月 私家版/これは、3年後に作った革装本5部のうちの1冊」。私はこれを展示物として見たが、鍾愛の詩集という感じだった。初刊のフランス装の表紙を革にしたものだろう。
〔2005年11月30日追記〕太田大八さん所蔵の赤革装本を見る機会を得た。本扉のまえの一丁に、「大八に/實」と筆で署名がある。奥付にほかの本で見たことのない雅印が捺されている。

詩集《静物〔革装本〕》の献呈署名ページを開く太田大八氏〔2005年11月30日〕
詩集《静物〔革装本〕》の献呈署名ページを開く太田大八氏〔2005年11月30日〕

詩《異霊祭》

詩《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日)の本扉
詩《異霊祭〔特装版〕》(書肆山田、1974年7月1日)の本扉

田村書店で購入したときの日記(一九九五年八月一六日)があるので、写してみる。
「昨日、思潮社から現代詩手帖2月号掲載の吉岡実資料の原稿料18,000円(20,000円に対して源泉徴収10%)が小切手で送られてきた。一昨日の14日はお盆ということもあって、巣鴨の真性寺にお墓参りに行ってきただけに、巡りあわせの妙を感じる。そこで、かねて狙っていた《異霊祭》特装版を神保町の田村書店で購入した。表のウィンドウから店の人に出してもらうあいだ、主人と話す。全詩集が出ることも知っていた。「ああ、あなたは年譜をやっているんでしたね」。
――《昏睡季節》を五反田で買った人を知っているが、亡くなったんだ。あんまり好い人じゃなかったんだけど、その後、出てこないね。
――いくらぐらいだったんですか。
――500,000円かな。吉岡さんの本じゃ、いちばん高い。
淡谷さんや吉岡夫人の話も出た。50,000円のところ、2,000円負けてもらった。ありがたい。
ひさごでぷるぷるの昼食を。が、昼はやっておらず、牡丹亭で牛舌定食とあいなった。そのあと、エス・ワイルでケーキとアイスコーヒー。小川町の路地は炎暑。」
以下に奥付ページの記述を転載する。
「異霊祭
限定101部の内
〔記載なし〕
〔「草子」の印の体裁の凸版〕
草子3
昭和四十九年七月一日発行
「異霊祭」
著者=吉岡実
発行者=山田耕一
発行所=書肆山田 東京都目黒区自由ヶ丘一ノ八ノ二〇(自由ヶ丘第一ビル三階)
      電話/東京(03)七二三―二九〇八 振替口座/東京一六八九九五
印刷=株式会社蓬莱屋印刷所
製本=岸田製本所
定価五阡円」

詩集《神秘的な時代の詩》

詩集《神秘的な時代の詩〔著者私家本〕》の帙 詩集《神秘的な時代の詩〔著者私家本〕》の見返し
詩集《神秘的な時代の詩〔著者私家本〕》の帙(左)と同・見返し(右)

詩集《神秘的な時代の詩〔著者私家本〕》の帙および本体
詩集《神秘的な時代の詩〔著者私家本〕》の帙および本体

初刊を改装した著者私家本は、《現代詩読本――特装版 吉岡実》で書誌を編む際に、吉岡陽子さんから著者本をお借りしてつぶさに見た。本体は上製牛総革角背突きつけ表紙、フォールスバンド(隆起五つ)。背の上部に書名を金箔押し。署名用別丁和紙見開き貼込。本文用紙(初刊に同じ)の奥付対向ページに貼奥付「著者私家本8部」とあり、アラビア数字による記番。吉岡家蔵本は「1」。見返しは片面五色(茶・黄土・紺・朱・白)マーブル染め。花切れに見返しを流用。帙は五色(青紫・水・紺・黄土・黄緑)マーブル染めの紙の四方帙。中蓋表紙などに紺の和紙。

詩集《神秘的な時代の詩〔特装版〕》(湯川書房、1975年6月1日)の表紙と帙
詩集《神秘的な時代の詩〔特装版〕》(湯川書房、1975年6月1日)の表紙と帙

私の所蔵する特装版は、一九九二年五月三〇日、吉岡実三回忌の真性寺にて陽子夫人から頂戴したもの。本文は二色刷で、フランス装(表紙は黒崎彰氏によるオリジナル木版画で濃緑色に紅が鮮やか)。継表紙の帙(背は緑がかった茶色の革、平は白の革、革紐どめ)。本文が12ポでゆったりと組まれた美本だが、惜しむらくは誤植がある。なお、東京・駒場の日本近代文学館には吉岡実が寄贈した一冊がある。 以下に奥付ページの記述を転載する。
「吉岡実の詩集「神秘的な時代の詩」特装本は昭和五十年六月一日限定百五十部を刊行する。刊行者は湯川成一、印刷は名古屋市白金の竹田光二、製本は京都下鴨の植田由松、摂津市正雀本町二の三の二四湯川書房が発行する。
No.129」

詩集《サフラン摘み》

詩集《サフラン摘み〔改装本〕》(青土社、1977年1月15日)の函と表紙 詩集《サフラン摘み〔改装本〕》(青土社、1977年1月15日)の表紙を開いたところ
詩集《サフラン摘み〔改装本〕》(青土社、1977年1月15日)の函と表紙(左)と同・表紙を開いたところ(右)

京都・中井書房の古書目録に「函 背革・ヨーロッパ更紗装」とあった一冊。私が吉岡実資料を編纂した1990〜91年当時、吉岡家では見なかったが、ジャケットで覆われていて特装本と気づかなかったのかもしれない。本書は市販の《サフラン摘み》三刷本(青土社、1977年1月15日)の函(帯なし)・ジャケット・本文はそのままに、サフラン色の布表紙を継ぎ表紙(背・革〔背文字は「サフラン摘み 吉岡実」と市販本より小振りに銀箔押し〕、平・ヨーロッパ更紗)に、片山健描く見返しを濃いピンクの無地の用紙に変えた改装本(花布は黄と朱に変更、青紫の栞紐が付いた)。奥付は三刷本と全く同じで、「特装本」の表示や装丁に関するクレジットはない。本扉の左上隅に「C」と鉛筆書きしてあり、高見順賞受賞を記念してごく小部数制作したものと想われる。

詩集《サフラン摘み〔私刊本〕》(蕃紅花舎、1977年1月15日)の帙と表紙 詩集《サフラン摘み〔私刊本〕》(蕃紅花舎、1977年1月15日)の帙を開いたところ
詩集《サフラン摘み〔私刊本〕》(蕃紅花舎、1977年1月15日)の帙と表紙(左)と同・帙を開いたところ(右)

「特装版」という呼称ではないが、渡邊一考さんの書肆蕃紅花舎の五部私刊本がある。これも《現代詩読本》の資料を編む際に著者本をお借りした。表紙は、同時期刊行の《耕衣百句〔特装版〕》に酷似している。 田村書店のウィンドウに飾られていた一本があったが、高額なため購入できなかった。以下に奥付ページの記述を転載する。
私刊本 サフラン摘み
昭和五十二年一月十五日発行
限定五部の内本書は第一番
著者 吉岡実
装釘 渡邊一考
    表紙の丹波紙布に用いた楮紙は黒谷和紙組合
    織は河口三千子 京都森田和紙の協力になる
印刷 東徳
製本 須川製本所
発行 蕃紅花舎

詩集《夏の宴》

詩集《夏の宴〔特装版〕》(南柯書局、1982年4月15日)の函と帙 詩集《夏の宴〔特装版〕》(南柯書局、1982年4月15日)の表紙と帙と函
詩集《夏の宴〔特装版〕》(南柯書局、1982年4月15日)の函と帙(左)と同・表紙と帙と函(右)

堂堂たる特装版だ。天金、上製溝つき角背総パーチメント装、帙(背パーチメント、平更紗)、更紗貼函、毛筆署名で本文組版・用紙等は《夏の宴》初刊第二刷(詩篇〈金柑譚〉の不具合を修正)に同じ。本稿執筆時点で、玉英堂書店に展示されている(五番本)。同店のwebサイトによれば「吉岡実 特装15部 毛筆署名入 総革装 天金 南柯書局 昭57 たとう 函」で、売価は三五万円。以下に著者本の奥付ページの記述を転載する。
詩集 夏の宴
&c1982, Minoru yoshioka
一九七九年十月二十日印刷
一九八二年四月十五日発行
特装十五部の内本書は第1番

著 者 吉岡 実
装幀者 渡邊一考
発行所 南柯書局 神戸市兵庫区荒田町四丁目十八番十四号
電話〇七八―五一一―八六八一 振替神戸四〇五七三
印刷所 東陽印刷
創文社
製本所 須川製本所」

拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》

拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》(書肆山田、1980年11月9日)の本扉と函
拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔特装限定版〕》(書肆山田、1980年11月9日)の本扉と函

私が最初に購入した吉岡実の特装本。たしか雑誌の広告で特装限定版の予約受付があった。すぐさま申しこんだためか、二番だった。ペン書署名、所蔵本の識語は詩篇〈ツグミ〉末尾の二行。書肆山田の〈特装限定版詩集の御案内〉という印刷物から(誤植を正して)引く。「特装版限定二十八部/菊判変型上製本表紙総革山羊皮使用本文紙レンケルレイド布貼函入り」。小口は沈んだ赤の染め。製本は突きつけ丸背。真紅の布貼函を輸送用段ボールケース(平に初刊時の表紙を題箋貼)に収納。数ある吉岡実の特装本のなかで最も端正な一冊。以下に奥付ページの記述(後半は箱組)を転載する。
「 〔「山田」の印の体裁の凸版〕
限定二十八部の内
第2番
ポール・クレーの食卓/特装限定版*著者吉岡実*昭和五十五年十一月九日発行限定二十八部*装画片山健*発行人鈴木一民発行所書肆山田神奈川県横浜市西区高島二―十一―二―八〇九電話〇四五(四五三)三五九八/〇三(九八八)七四六七*印刷宝印刷イナバ巧芸社製本製函橋本製本所*定価三二、〇〇〇円」

〔2002年12月18日追記〕

拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月9日)の帙の表面〔写真提供:林哲夫氏〕
拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月9日)の帙の表面〔写真提供:林哲夫氏〕

雑誌やテレビで見ながら実見する機会のなかった本書を、初刊の版元でもある書肆山田のご厚意で見ることができたので、新たに項目を立てて追記する。
まず、一九九六年一二月二二日、NHK教育テレビ放映《日曜美術館》の〈書物のユートピア――美しい本を求めて〉に触れておこう。ここで詩人にして装丁家の作品として市販本《夏の宴》 《ムーンドロップ》や渡邊一考の私家版《薬玉》 《ポール・クレーの食卓》などが紹介されたのだ。番組は本の章立てに倣った構成で、〈第一章 戦後 美本の誕生〉の書肆ユリイカに始まる。安東次男と駒井哲郎の詩画集《からんどりえ》に続いて、吉岡本が登場する。無人の喫茶店ラドリオに、吉岡詩集の数数が冬の星座のようにきらめき、ナレーターの国井雅比古が語りはじめる。
「超現実的なイメージを硬質な文体で表現した詩人・吉岡実。彼もまた書肆ユリイカから世に出た多くの詩人たちのなかの一人でした。詩人にとどまらず、優れた装丁家でもあった吉岡実は、自分の著作に自らの手で装丁を施しました。
詩人・西脇順三郎の軽妙な絵を表紙に使った《夏の宴》と《ムーンドロップ》。シンボリックなパターンを使った装丁など、吉岡は独得のスタイルを築きあげました。
その吉岡実の死後まもなく、彼の著作二冊が新たに作られました。見返しに友禅縮緬千代紙をあしらった《薬玉》。鮮やかなマーブル紙が印象的な《ポール・クレーの食卓》。これら二冊の本は、装丁家として尊敬されていた吉岡実への追悼の意味も込めて作られました。
《ポール・クレーの食卓》。この本のなかには、細密な線で刻まれたクレーの肖像画があります。その版画の作者の名は柄澤齋――」と番組は〈第二章 版画家 柄澤齋〉へと移っていく。
柄澤さんとは梅木英治銅版画展のオープニングで初めてお会いして、「クレーの肖像画は一考さんにずいぶん前に渡してあるんだけど、彼、凝り性だからなかなか本ができないみたいで……」とうかがった。その後しばらく様子がつかめなかったが、《季刊銀花》九六号(一九九三年〔冬〕)の小林庸浩撮影〈本の桃源郷――南柯書局の美本〉と奥平晃一〈南柯書局主・渡辺一考の本造り〉を見て(読んで、ではない)すぐに田村書店に駆けつけたが、やんぬるかな、《ポール・クレーの食卓》は売れていた(そこで入手したのが《薬玉〔私家版〕》である)。〈吉岡実資料〉補遺の作成にあたって渡邊さんに問いあわせたところ、残部はないとのことで奥付のコピーをいただき、なんとかそれで原稿を書いたものだ。以下に奥付ページの記述(六行箱組)を転載する。
「 〔川苔入り楽水紙に「南柯」の検印〕
詩集ポール・クレーの食卓 私家版十四部の内本書は第2番本 一九九三年五月九日発行 著者吉岡実 木版画自刻自摺柄澤齋 マーブル紙ティニ・三浦 製作鈴木一民 装釘渡辺一考 発売元南柯書局明石市太寺一丁目六―三四電話〇七八―九一二―四八四四 印刷宝印刷・創文社 製函製本須川製本所」

拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月9日)の表紙と函と帙の裏面〔写真提供:林哲夫氏〕
拾遺詩集《ポール・クレーの食卓〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月9日)の表紙と函と帙の裏面〔写真提供:林哲夫氏〕

サイト開設のお知らせを林哲夫さんにさしあげたところ、さっそくページをご覧いただき、神戸須川バインダリー(須川製本所から須川誠一氏が別れて設立)で本書を手にしたときの写真を送っていただいた。この項に掲げた写真がそれである(なお〈吉岡実書誌〉には、私が撮った説明写真を載せた)。

詩集《薬玉》

詩集《薬玉〔著者別装本〕》(1984年8月5日)の表紙と函
詩集《薬玉〔著者別装本〕》(1984年8月5日)の表紙と函

《薬玉》は特装版のまえに著者別装本がある。装丁は、平がマーブル紙の継ぎ表紙で、貼函入り。初刊の奥付の上に貼奥付(三行の箱組の下に「実」の検印あり)がある。
「薬玉*著者別装本一九八四年八月五日発行限定十八部」
吉岡の一九八四年九月一二日の日記に「芦川羊子と土方巽に会い、私家用本『薬玉』を贈る。」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一七三ページ)とあるのが、この著者別装本だろう。

詩集《薬玉〔特装限定版〕》 函と表紙
詩集《薬玉〔特装限定版〕》(書肆山田、1986年4月15日)の函と表紙

次が特装限定版で、本文用紙は耳付の雁皮紙。上製突きつけ丸背の継表紙(背が革、平が小野麻理氏による手描染の布)。布貼函。以下に奥付ページの記述(四行箱組)を転載する。
「 〔「山田」の印の体裁の凸版〕
薬玉――特装限定版*著者吉岡実*発行一九八六年四月一五日限定四十部*手描染小野麻理*発行者鈴木一民発行所書肆山田東京都豊島区南池袋二―八―五―三〇一電話〇三―九八八―七四六七*印刷蓬莱屋印刷所製本橋本製本所*本冊は第  一  番」
陽子夫人から借覧した著者本には署名とともに「来てみれば秋/ここは落雁の見える/寂しい水の上の光景」の染筆があった。のちに古書で購入した第三十八番本には「野生の毒人参は生え/鵲は巣ごもり」とある。

詩集《薬玉〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月31日)の本扉と函
詩集《薬玉〔私家版〕》(南柯書局発売、1993年5月31日)の本扉と函

そして吉岡実歿後に、渡邊一考さんの南柯書局から私家版が刊行された。本文用紙は黒谷楮紙耳付(罫下化粧断ち)、上製突きつけ丸背(五條バンド)コーネル装の表紙は黒(背と角は子牛革、平は小花型染め子牛革)、見返し友禅縮緬千代紙(巻見返し捨て紙額貼り装)、函は黄で小花型染め子牛革(内貼は山羊バックスキン)。毛筆署名箋入り。検印用紙は川苔入り楽水紙。おそらく数ある吉岡実の特装本のなかで最も豪華な一冊。以下に奥付ページの記述を転載する。
詩集 薬玉
一九八三年十月二十日印刷
一九九三年五月三十一日発行
私家版二十二部の内本書は第19番本

著者 吉岡 実
製作 鈴木一民
装釘 渡辺一考
発売 南柯書局 明石市太寺一丁目六―三四
電話〇七八―九一二―四八四四
印刷
蓬莱屋印刷所
創文社
製本 須川製本所」

日記《うまやはし日記》

日記《うまやはし日記〔弧木洞版〕》(1990年4月15日)の奥付と署名箋
日記《うまやはし日記〔弧木洞版〕》(1990年4月15日)の奥付と署名箋

吉岡実生前最後の著書となった《うまやはし日記》には、初刊と同日発行の弧木洞版がある(弧木洞は後年、詩集《赤鴉》の版元となる)。本への署名はなく、専用の署名箋にマーカーペンで記名されている。これは私が吉岡さんから初めて恵贈にあずかった本だ。さっそく感想を認めたものだ(吉岡さんへの最後の便りとなった)。
表紙と本文にジャケットと同様の色の用紙を使用している。貼奥付には次のようにあり(「弧木洞版」の文字は吉岡さんの筆書きから起こしたもののようだ)、印はあるが、記番はない。
「うまやはし日記
弧木洞版
一九九〇年四月一五日発行限定百部」

ルリユール

詩集《神秘的な時代の詩〔初刊〕》の改装本のジャケット〔小林一郎が製作したもので、ルリユールではない〕 詩集《神秘的な時代の詩〔初刊〕》の改装本の表紙〔小林一郎が製作したもので、ルリユールではない〕
詩集《神秘的な時代の詩〔初刊〕》の改装本のジャケット(左)と同・表紙(右)〔小林一郎が製作したもので、ルリユールではない〕

特装本とは異なるが、市販本の表紙を改装したルリユールも何点かあるようだ。吉岡実が永田耕衣に宛てた書簡(一九八六年一〇月八日付)から引く。
「さて、白い革装のルリュール『物質』を、掌で撫ぜながら、流石に湯川本だと感心しているところです。小生にも只一冊本のルリュールの『僧侶』があります。しかし、五十冊限定を製作したのは驚きです。耕衣特装本の異色ですね。大切にいたします。」(《琴座》四二一号、1986年11月、一八ページ)
その後、栃折久美子さんが《神秘的な時代の詩〔特装版〕》をルリユールしたのを雑誌で拝見したが、吉岡本のルリユールならまだほかにもありそうだ。ご存じのかたは、ぜひご一報いただきたい。

〔2004年2月29日追記〕

栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔《DTPWORLD》2001年1月号掲載〕
栃折久美子による《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユール〔《DTPWORLD》2001年1月号掲載〕

前掲《神秘的な時代の詩〔特装版〕》のルリユールが《DTPWORLD》誌に紹介されていた。その仕様がキャプションに記載されているので、引用する。「吉岡実『神秘的な時代の詩』 ボックス革額縁装、暗緑色染め紙、黒和紙二重見返し、透明保護ジャケット、スリップ・ケースつき 表紙版画:黒崎彰」(同誌、2001年1月号、七四ページ)。このうち〔特装版〕由来の仕様は「暗緑色染め紙」の「表紙版画:黒崎彰」だけで、写真に見える(天)小口の染めなども栃折さんの創意である。


〈吉岡実〉の「本」 了

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