芭蕉の句碑

田一枚植て立去る柳かな

 弁天温泉から那須高原有料道路で那須湯本温泉に戻り、県道17号那須高原線を行く。

寺子で左折して、県道72号大田原芦野線に入る。


角に寺子一里塚公園がある。県道72号大田原芦野線は旧奥州街道である。

 さらに県道72号大田原芦野線を行くと、夫婦石の一里塚があり、芦野で国道294号に出る。


芦野に遊行柳がある。

謡曲「遊行柳」

 謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が奥州白河の関の辺りで老翁に呼びとめられ「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の前に案内され、そのあまりに古びた様子に上人が十念を授けると、老翁は消え去った。

 遊行上人は時宗の総本山遊行寺(清浄光寺)の歴代住職のこと。特に、開祖一遍またはその弟子の真教のことをいう。ここでは時宗の開祖一遍(1239−1289) 。

十念は阿弥陀仏を十度念ずること、または念仏を十度唱えること。

朽残るあし野の柳末の世もおとなう法のみちはありけり

遊行上人

西行(1118−1190)の歌碑


道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ

 貞亨4年(1687年)、大淀三千風白河の関から遊行柳、殺生石を見いている。

○げに既に下野の國那須野にいる。かの道の邊柳、殺生石を見侍し。


芭蕉の句碑があった。


田一枚植て立去る柳かな

 又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。 田一枚植て立去る柳かな

元禄2年(1689年)4月20日(新暦6月7日)、芭蕉は8時半頃那須湯本を立った。

一軒茶屋前で県道21号湯本漆塚線に入る。

県道21号湯本漆塚線を通って漆塚に行く。

漆塚から現在の県道28号大子那須線を通って芦野に行き、遊行柳を訪れた。


一 廿日
 朝霧降ル。辰中尅晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三リ余。半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。

一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ、八幡ノ大門通リ之内(十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)。左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四、五丁之内二愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍(兼載の誤り)ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也。市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。

『曽良随行日記』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途、遊行柳を訪れ句を詠んでいる。

 遊行柳芦野入口一丁右へ行、田の畔(くろ)に有。不絶清水も流るゝ。

   ○秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰


与謝蕪村の句碑があった。

蕪村の句碑


柳散清水涸石処々(柳散り清水かれ石ところどころ)

寛延3年(1743年)、蕪村28歳の時の句。

蕪村の句碑を見るのは初めてである。

遊行柳


遊行柳も冬枯れ。

 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥行脚の帰途、芦野を訪れている。

芦野ゝ里なる道野辺の清水に西上人の俤もゆかしくその木陰に我も彳て残暑を凌く

肌寒ふなる迄たつや柳かけ
   柳几

 宝暦(1751−1764)中、白井鳥酔も遊行柳を訪れたようである。

 宝暦中、鳥老師、山鯉房を携へ奥羽行李の戻りそこの田畔に立寄り、其繊枝を手折り、笠の端に挿み、武中栗橋駅愛弟梅沢氏素人氏が窓外に刺す。今一庭を蔽て八九間空にしられぬ雨を見る、同州八王子の郷、執友窪田氏古由君其一朶を懇に乞覓(もと)め園裡に養ひ給ふ。此時亭々として舎蓋に彷彿たり。ことし明和五戊子の春正月望の日、志村氏書橋君又其梢をみづから折て一章を添らる。是を榎本氏の室女星布平願をもつて鳥老師におくれるを爰の沢辺に移す。

 武都松露庵 侍瓶 昨烏題す

   似た僧のけふも立寄る柳哉   鳥酔

加舎白雄「移柳の文」

大磯町の鴫立庵に「遊行柳子碑」がある。

 安永2年(1773年)、加舎白雄は遊行柳を訪れた。

 道の辺の柳をけふこそ見るなれ。先のとし鳥師行李の帰るさ頌嘆のあまりに一枝を折て笠の端にさしはさみうつし植し、今東道鴫立庵の一沢を覆ひてゆきゝの人をねむらす。一枝を折し罪を風流に換られしよ。楊柳情ある時は何ぞくゆべき。其柳此柳ともに枝幹ともにみどりなり。西上人はむかしにして鳥師のおもかげ柳にそふて柳になつかし。

   秋の柳をれくち淋しもしやそれ


鳥師は白井鳥酔のこと。

大島蓼太も遊行柳を句に詠んでいる。

   遊行柳

ひとすくひ腸洗ふ清水かな


小林一茶も遊行柳を詠んでいる。

不細工の西行立り柳かげ

『文化句帖』(享和4年正月)

境の明神へ。

「旅のあれこれ」のトップページへ