蕉門十哲
志太野坡

越前出身。両替商三井越後屋(現在の三井住友銀行)の番頭。浅生庵。
野坡者。越之前州人。生二商家一。居二武江戸一。蕉門之學者也。一遊二西海一不レ定二其所居一。隨レ師得二炭俵之撰號一。
元禄6年(1693年)、芭蕉と野坡の両吟がある。
ばせを庵にて
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寒菊や小糠のかゝる臼の傍
| 翁
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提て売行半(はし)タ大根
| 野坡
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『炭俵』冒頭に芭蕉と野坡のと両吟歌仙がある。
むめがゝにのつと日の出る山路かな
| 芭蕉
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處々に雉子の啼たつ
| 野坡
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元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の庵をたち、上方へ最後の旅する。
門人たちは川崎宿まで送り、送別の句を詠んでいる。
川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より)

翁の旅行を川さきまで送りて
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刈こみし麦の匂ひや宿の内
| 利牛
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おなじ時に
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麦畑や出ぬけても猶麦の中
| 野坡
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おなじこゝろを
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浦風やむらがる蠅のはなれぎは
| 岱水
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同年6月28日、『炭俵』(野坡・孤屋・利牛共編)刊。
芭蕉自筆の『奥の細道』は、野坡が芭蕉から譲り受けたそうだ。
同年10月12日、芭蕉没。
芭蕉没後、野坡は大阪に移り、俳諧に専念した。
元禄11年(1698年)、惟然は北陸から東北を旅して江戸に入る。都に帰るにあたり、野坡は送別の句を詠んでいる。
去年は都の花にかしらをならべ、よめ菜・つくづくしを摘て語り、今年東武の余寒はおなじ衾を引張、雲雀・鶯に句をひらふ。
享保20年(1735年)、芭蕉四十一回忌に「世にふるも更に宗祇のやとりかな」の真蹟短冊を埋めて「屋土里塚」を建立。
屋土里塚

元文5年(1740年)1月3日、野坡没。
門下に建部凉袋、湖白亭浮雲がいる。
大阪の四天王寺に野坡の墓がある。

宝暦11年(1761年)、湖白菴浮雲が野坡の二十回忌に建立。
野坡の句
ぼんぼりとまだ日はのこる柳かな
女郎花例の旅寐やかゝ見山
猶月影に頭陀の口をひろげて
是ハ一とせ浪花の浅生庵にて
いらいらとしてハほろつく月の雨
此ころの垣の結めや初しくれ
盆の月寐たかと門をたゝきけり
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