大島蓼太

『筑波紀行』(雪中庵蓼太)


天明元年(1781年)、刊。杉野翠兄序。

 天明元年(1781年)4月24日、蓼太は杉野翠兄に招かれて魚文を伴い龍ヶ崎に旅立つ。数日間龍ヶ崎に滞在し、5月1日、翠兄の案内で筑波山へ。

是を武江の二州橋上より望は春はむらさきの曙に聳先師嵐雪の雪は申すといひけんは芙蓉峰にならへて譽たる詞なるへしなを筑紫の山とも詠し侍れは宜なる哉

JR水戸線から見た筑波山


其國の杉野氏翠兄ちふ人我にすゝめて女もすなる詣なるをいて先達つかうまつらんとあるを志をりに約して、ことし卯月末の四日旅たつ事になりぬ。ともなふ人ひとり同し桑門して襟に遊嚢うちかけ紫竹の杖曳鳴してうかれ出たり。伊豆の國の官鼠も松島一見のためとて我草庵に旅寐する折からなれは、文母とゝもに打連立てかれこれ門送す。第二橋をわたりて小梅にかゝる。左は秋葉三圍につゝきて夏木立いとかうかうし。

今宵はつかれて小金の宿藤屋某かもとに泊る。かねて杉野氏より消息ありけるとて、あるし立出て夕餉の器いときよけにもてなし侍れはこゝろゆくまてに臥ぬ。

玉屋(小金宿の旅篭)


廿五日、けふはきのふより道のほとも遠けれは、つとめて朝のもの志たゝめ立いつる。とかくして小金の御牧にかゝれは、馬木戸といふ境を入て廣野左右四十餘里とかや。所々に水をたゝえて駒の咽をうるほさしむ。ありかたき御惠なるへし。

午過るほとより雨志きりに打こほして道のつかれきのふに倍す。我孫子利根川をわたりて取手といふ宿にいたる。

旧取手宿本陣(染野家住宅)


是より龍ヶ崎の市廓は森の葉越に人烟たちのほりていさゝかちからを得たり。とほしひかゝくるころ杉野氏の許に着ぬ。待まうけたるあるし父子の饗應細やかに風雨の勞をわすれ果てその夜はとくいねたり。

廿六日、太如・笙雨なと相志れる人々訪ひ來まして、きのふのうさにひきかえ雅談里語打ましえたり。はたあるしの老父はをりをり武江にも出、都・難波のよしあしにもわけ入、心やさしき人也けり。むかし芭蕉の翁、出羽國尾花澤に清風といふものをたつねて、彼は富るものなから志いやしからすと書れけるもかゝるやとりなるへし。

廿七日、太如亭に招る。茶あり。翠兄・魚文・予とともに三客也。庭のたゝすまひ物ふり、おほひなる樹とも志けりあひて、市より引入たる住居なれは、殊更に閑を得たり。中にふりたる柏樹あり。

みとり汲茶の夏蔭や青柏

廿八日、廿九日、曇て雨をりをりこほす。銀雨亭に探題あり。

朔日、此ほとの曇、晴わたりたれば、筑波山に思立ぬ。太如・翠兄もともなふ。かつ此町のうら手に源三位頼政の塚あり。

されは此君は武にたけく文に和らきて兩道兼備の大將と云へし。殊更和歌は家集・新古今等にとゝまり、かそふるにいとまあらす。今なを治承のむかし平等院にして扇うち敷れたる俤もまのあたり思ひ出られて涙落るはかりになん

世を宇治と脱けむ君か鎧草

頼政神社


      筑波

かゝる神闕はみな女人をいむなる事を昔より男の神もゆるし給ひつゝ和光同塵の御心かけまくもかしこく覺侍りて

鴛の巣もかけて頼むや筑波山

つくは山端山は麥の志けり哉
   魚文

岩藤にむすひて女男の御山哉
   普成

此句はさいつころ普成か登山の時奉納しける御堂の額に侍けるを思ひかけすみあけたれは、矢立にひろひて同行とす。

      山上

兩峰雙立してもろこしの羅浮山もかくやと道けはしく靈運か木履も着ましく石滑かなるに

鐵線や岩に鎖も誓より
(※「鎖」は「金」+「巣」)

女体山頂からの眺望


山は若葉のひまひまつゝしの紅□をこき交たり。ふもとの里々名ある所々一眼のうちに數景を盡す。又かたはらに今をさかりの櫻たり。ふたゝひ春に逢心地して

卯の花の中から白し山櫻
   翠兄

   胎内潜

下闇を出てこそ思へ母の恩

いまた日高けれは硯をならして歌仙半に至るを銀雨亭に次て一巻となしぬ。

   歌仙

鴛の巣もかけて頼むや筑波山
   蓼太

 つもる清水の爰かなの川
   翠兄

梅くたく翁の齒音我折らせて
   魚文

 碁にいさかはぬ日はなけり鳬
   太如



   師かやとりせし折から文音に聞
   えける句文探題の中より拾ふ

葮きりやいつの嵐の捨碇
   官鼠

經かたくは思はぬ夜也夏の月
   沙羅

遠眼には先うつくしき照射哉
   文母

藥降日に朝顔の二葉哉
   笙雨

新田の願ひも果す水鶏哉
   太如

苅時も階子ほしいか菖蒲艸
   翠兄

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