芭蕉の句碑


歩行ならば杖つき坂を落馬かな

四日市市采女町の旧東海道に杖衝坂がある。


史蹟 杖衝坂


杖衝坂と血塚

 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「徒歩(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上りきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。

杖衝坂に芭蕉の句碑があった。


歩行ならば杖つき坂を落馬かな

出典は『笈の小文』

宝暦6年(1756年)8月、村田鵤州建立。

碑の側面から裏面にかけて次のように刻み込まれている。

この坂に杖つきの名のあることは日本武尊醒ヶ井のお足を三重の縣にひきます時佩きたまへるところの御剣をときはじめて杖につき給ふより二千歳の今までも野童樵夫これを呼ぶこと大尊を尊崇し奉る自然の徳化成るべしされば芭蕉翁の五文字に自己を罪して世に実情を導く此の意即ち我が国の大道なり予これを感ずるのあまり不朽の石に雫してふるきをしのぶ旅客にもてなすのみ

   花に雪にこゝろを杖のみちしるへ

白梵菴門人 村田鵤州誌

   寶暦六年丙子秋八月之吉

白梵菴は尾張名古屋藩家老成瀬家の家臣榎本馬州。露川の門人。

名古屋市の清浄寺に句碑がある。

 俳聖松尾芭蕉が貞享4年(1687年)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。

 宝暦6年(1756年)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。

 明治初期、坂の下采女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者の藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びこの地に移設したものである。

『諸国翁墳記』に「落馬塚 勢州杖突坂在 四日市鵤州建」とある。

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