一茶の句文集



『父の終焉日記』

『父の終焉日記』(文化3〜4年頃)


 享和元年4月、一茶39才の春、たまたま帰省中であった一茶が父の発病にあい、その臨終、初七日を迎えるまでの出来事を書き綴った日記である。寛政12年刊の天地庵我泉の歳旦帳の裏面に書かれたこの草稿は、明治の世になってから束末露香によって『父の終焉日記』と名付けられ、大正11年、露香の校訂本が荻原井泉水によって刊行された。

明和2年(1765年)8月17日、母くにが他界。

明和7年(1770年)、継母はつが来る。

 抑(そもそも)汝は三歳の時より母に後れ、やゝ長(おさ)なりにつけても、後の母の仲むつまじからず、日々に魂をいため、夜々に心火をもやし、心のやすき時はな(か)りき。

『父の終焉日記』

安永元年(1772年)、異母弟仙六が生まれる。

 明和九(年)五月十日、後の母男子仙六を生めり。此時信之は九歳になんなりけり。

『父の終焉日記』(日記別記)

 我又さの通り、梅の魁(さきがけ)に生れながら、茨の遲生へ(え)に地をせばめられつゝ、鬼ばゝ山の山おろしに吹折れ吹折れて、晴れ晴れしき世界に芽を出す日は一日もなく、ことし五十七年、露の玉の緒の今まで切れざるもふしぎ也。しかるに、おのれが不運を科(とが)なき草木に及すことの不便也けり。

「梅の魁」は一茶、「茨の遲生へ」は仙六

なでしこやまゝはゝ木々の日陰花

『おらが春』



明和9年11月16日、安永に改元。

安永5年(1776年)8月14日、祖母かな没す。

 しかるに、明和五年八月十四日、杖柱とたのみし老婆、黄泉の人と成り消たまふ。有為転変、会者定離は、生あるもの(の)ならひにしあれど、我身にとりては、闇夜に灯失へる心ちして、酒に酔へるがごとく、虚舟に浮めるがごとし。旦暮(あけくれ)称名のみをちからに日をおくる。

『父の終焉日記』(日記別記)

安永6年(1777年)春、一茶は一人江戸に出る。

 ふとおもひけるやうは、一所にありなば、いつ迄もかくありなん。一度古郷(ふるさと)はなしたらば、はた、したはしき事もやあるべきと、十四歳と云春、はろばろの江戸へはおもぶかせたりき。

『父の終焉日記』

享和元年(1801年)3月29日、柏原に帰省。4月23日、父弥五兵衛発病。

 四月廿三は、清和の天雲なく晴て、山ほとゝ(ぎ)すはつ音告渡る日、父はなすびの苗などに水などかけておはしけるに、なにとおぼしてんや、破冉(すは)青陽の日なたをうしろ(に)うけていましける。

『父の終焉日記』

4月26日、傷寒と診断。

 廿六日 晴 野尻の里迅碩を請待(しょうだい)してみせしむるに、「脈は裡にひづみて、いはゆる陰生(いんしょう)の傷寒なれば、快気も万にひとつなるべし。」と、たのもしげなく云るゝ。

『父の終焉日記』

傷寒は腸チフスなど高熱をともなう急性疾患。

5月5日、小康。

 五日、薬相応したりければ、しばしば進め参せ度、炭火煽ぎつゝ、心ちよげなる寝すがたを倩(つらつら)守り奉るに、顔色うるはしく、脈をうかゞふに一つとして不足なければ、十に九つは本復ならめ(と)悦び侍けり。末に思へ(ば)、快気あれかしとおもふ欲目の見る所也。

足元へいつ来たりしよ蝸牛(かたつぶり)

『父の終焉日記』

5月21日、臨終。

 諸天・善神の力も及ばざらんと、只念仏申より外にたのみはな(か)りき。

寝すがたの蝿追ふもけふがかぎり哉

 しをしをと手を空しくして、いまは時を待のみの胸のくるしび、かなしびを、天神・神祇もあはれみもなく、夜はほがらかに明かゝり、卯上刻といへる比、眠るごとく息たえさせ給ひけり。

『父の終焉日記』

5月22日、野おくり。

 けふも申の刻ばかりに、木々のむら雨しばらく晴て、草の雫に夕日うすづく比、やゝ塩崎の導師来り給ひて、今は野おくりの時とはなりぬ。

『父の終焉日記』

父弥五兵衛の導師は康楽寺二十四世沢瑞聖人。

5月23日、骨ひろい。

 心を引さるゝ妻子もなく、するすみの、水の泡よりもあはく、風の前のち(り)よりもかろき身一つの境涯なれど、只きれがたきは玉の緒なりき。

生残る我にかゝるや草の露

『父の終焉日記』

5月28日、初七日。

 いなや、返しなきに、無下に里出せんも、亡父の心にそぶくかと、しめ野分るを談じあひけるに、父の遺言守るとなれば、母家の人にさしづに任せて、其日はやみぬ。

父ありて明ぼの見たし青田原

『父の終焉日記』

第二部

水売のいまきた顔やあたご山   一牛

『父の終焉日記』(第二部)

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