『奥の細道』


〜野田の玉川〜

塩竈市玉川の民家に能因法師の歌碑がある。


能因法師の歌碑


ゆふされは汐風越て陸奥の野田の玉河千鳥なくなり

天明7年(1787年)、塩竈の俳人白坂文之建立。

野田の玉川

 野田の玉川(塩竈)は、井出の玉川(京都府)、野地の玉川(滋賀県)、高野の玉川(和歌山県)、調布の玉川(東京都)、多摩川の里(大阪府)とともに六玉川とよばれ、能因法師の『新古今和歌集』所収に

夕されば潮風こして陸奥の野田の玉河千鳥なくなり

と詠まれた歌枕として知られている。

 元禄2年5月8日、仙台を出立した芭蕉は塩竈へ着くとすぐ野田の玉川、おもわく橋、浮島を経て、末の松山沖の石へと歌枕をもとめて逍遥した。

 『奥の細道』に「それより野田の玉川、沖の石をたづぬ。末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原に翼をかはし枝を連ぬる契りの末もつひにかくのごときと悲しさもまさりて」に記している。

 奈良時代以降鎮守府国府の置かれた多賀城は、みちのくの文化の中心でもあり、周辺には歌枕も多く散在している。その歌枕は江戸時代に入っても仙台藩によって整備保存された。

 歌枕には故人の風雅な歴史が秘められている。芭蕉はその歴史の跡を慕いながら奥の細道の旅を重ねていたのである。

 「野田の玉川」はすでにコンクリートの溝渠と化したが、約300年の昔、芭蕉はこの流れのほとりに佇み、末の松山への道を歩んでいったのである。

 塩竈の俳人文之は、ここに能因法師の歌碑を建立し、小風致区をつくったのは天明7年のことである。

 裏面に「玉川や田うた流るゝ五月雨」は文之の句である。

塩竈市教育委員会

 寛政元年(1789年)10月、白坂文之は雄島(御島)に「芭蕉翁松島吟並序」の碑を建立。

コンクリートの溝渠と化した「野田の玉川」


ふりたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくてやすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて

ふまゝうき紅葉の錦散りしきてひとも通はぬおもはくの橋


野田玉河

 みちのくの野田の玉河みわたせば
    塩(汐)風こして氷る月かげ
   順徳院

塩釜に近し。此辺浮島・野中の清水・沖の石奥の細道轟の橋などいふ処あり、眺望の外なれば略す。


 延享4年(1747年)、横田柳几は武藤白尼と陸奥を行脚し、野田の玉川を訪れている。

   野田ノ玉川

玉河の玉やくだけて飛螢
   仝


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で野田の玉川を訪ねている。

苦熱に面を焦し、野田の里に喘ぎ着く。田草とる男に玉川をと問ひもとむるに、たゞ此あたりをぞ玉川と申侍るとぞ。川は跡なくなりて阿部の松橋又とたえたり。

六月や心にかよふ川ちどり
暁台

 汐風越してかほる夕され
知昂


 寛政3年(1791年)5月28日、鶴田卓池は野田の玉川を訪れている。

廿八日 巳ノ刻迄雨降 野田ノ玉川

   月うつる野田の玉川来て見れハ水影清くすめる世の中

   夕されハ汐風こえてみちのくの野田の玉川千鳥なくなり

『奥羽記行』(自筆稿本)

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