芭蕉の句碑


佐くらより松盤二木を三月越し

東北自動車村田ICから県道25号岩沼蔵王線で岩沼に向かう。


東北本線を越えて右折すると、竹駒神社がある。


竹駒神社御社殿


主祭神は倉稲魂神。

日本三稲荷の一社に数えられているそうだ。

平成2年11月21日、過激派の暴挙により炎上消失。

平成5年9月6日、竣功奉告祭。

竹駒神社

 竹駒神社は、第54代仁明天皇の御代承和9年(842年)に参議小野篁(たかむら)が陸奥守に任ぜられて国府に向かうにあたり、奥州鎮護の神として、京都の伏見稲荷の御神霊をこの地に祀りました。

小野篁は小倉百人一首の歌で知られている。

わたの原八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよあまのつり舟

承和5年、小野篁が隠岐に流される時の歌である。

2年後の承和7年に都に戻り、さらに2年後陸奥守に任ぜられわけである。

 元禄2年(1689年)5月4日(新暦6月20日)、曽良は竹駒明神と武隈の松のことを書いている。

 一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折々日ノ光見ル。 岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。

芭蕉は武隈の松のことを書いている。

 代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、桜より松は二木を三月越し

 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、竹駒神社に詣でている。

簑輪。笠島。實方朝臣の古墳。形見の薄とむらひ。道祖神の社詣して。武隈の松によりて見る。二木の姿替らず。いと愛度(めでたく)榮えたり。如何と問はばみきと答へんと詠みし事思出て。

   武くまや松の二木はみきもよき

と戯れ。武隈明神に詣づ。竹駒明神と額あり。寺をも寳窟山竹駒寺といふ。開山能因法師。陸奥の國に下りし時。武隈の松なかりしかば。尋ね侘けるに。童子の竹馬に乘れるが來りて。松の事教へて。狐と成て去りしとなん。夫より竹馬を寺の名とし。稲荷の社を祭りしといへどいかが。武くま竹こま何時の頃にか書違へたるを。かく事作りたるらめとも思はるゝのみ。


竹駒神社の前に芭蕉の句碑がある。


左が芭蕉句碑(二木塚)

佐くらより松盤二木を三月越し

謙阿句碑と同時に建立。

右が謙阿(名月塚)句碑

朧よ里松は二夜の月丹こ楚

 寛政5年(1793年)、芭蕉翁百年忌法要を記念して建立されたと伝えられているそうだ。

 東龍斎謙阿は古内家の給士にて、俳人青灯下祇川の門に入り、斯道の達才を以て称せられ、夙に正風を汲み芭蕉六世と称した。

 武隈の松は竹駒神社のすぐ近くにあったはずだが、私は先を急いで立ち寄らなかった。

中将実方の墓へ。

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