、5才の時辛亥革命で清朝が崩壊し、親王府一族も北京を脱出して旅順の日本租界に亡命された。親王府総理であった長野県出身の川島浪速氏の養女となられ、東京の豊島師範付属小学校を経て松本高等女学校に入学された。その頃から詩作と乗馬は抜群の才女でした。昭和初年頃黒姫の川島山荘から飯山正受庵へ禅研究に訪庵の途次、当寺を訪ねられた。住職の三男教順少年(長野中学校生徒)の弾くマンドリンの「月の砂漠」の旋律にひかれ幾日か逗留された。
父は清国親王、母はモンゴル王女、養父は日本人、この結縁故アジア人のアジアのための平和をと活動するも、日本敗戦により捕らわれの身となり1948年(昭和23年)3月25日北京で処刑されました。傷心幾才か有志相計り四十五回忌を迎えるにあたり昭和史の一視点として仏縁による正見寺内に鎮魂之碑を建立する所以である。
1992年に12月10日
正見寺第十七代住職 窪 智鎧
建 立 委 員 長 新津 武