蕉門の俳人

河合曽良

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『俳諧書留』 ・ 『雪満呂気』(曽良遺稿) ・ 『続雪まろげ』(素檗)

『随行日記』の碑 ・ 曽良の句碑 ・ 曽良像

河合氏、名は惣五郎。

 慶安2年(1649年)、信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)に生まれる。幼名は庄右衛門与左衛門。両親が亡くなったため母方の岩波家の養子となり、庄右衛門といった。養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚に引き取られる。

諏訪市の「文学の道公園」に曽良の句碑がある。


袂から春は出てたり松葉銭

延宝4年(1676年)正月、曽良28歳の句。

「曽良」の俳号が初めて使われた句だそうだ。

 伊勢長島の地を流れる木曽川と長良川から「曽良」という俳号が付けられたともいう。

 天和3年(1683年)夏、谷村藩の国家老高山麋塒宅で芭蕉に師事した。曽良35歳の時である。

深川の芭蕉庵近くに住み、芭蕉の世話をした。

曽良何某、此あたりちかくかりに居をしめして、朝な夕なにとひつとはる。我くひ物いとなむ時は柴をくぶるたすけとなり、茶を煮夜は来たりて軒をたゝく。性隠閑を好む人にて、交(まじはり)(こがね)をたつ。ある夜雪にとはれて

きみ火をたけよき物見せん雪まろげ
   ばせを


貞亨4年(1687年)、宗波と共に「鹿島紀行」の旅に同行。

いまひとりは、僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にも渡りぬべく、門より舟に乗りて、行徳といふところに至る。舟をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力をためさんと、徒歩よりぞ行く。


元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅に同行。

曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。

『奥の細道』

8月5日、曽良は山中温泉で芭蕉と別れ、伊勢へ先立つ。

 曾良は腹を病て、いせのくに長島といふところにゆかりあれば、先立て行に、

行き行きてたふれふすとも萩の原  曾良

と書置たり。行もののかなしみ、のこるもののうらみ、雙鳧(そうふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、

けふよりや書付消さむ笠の露

『奥の細道』

「芭蕉と曾良の別れ」の像


9月2日、芭蕉は大垣に着く。3日、曽良は伊勢から大垣へ芭蕉を迎えに来る。

芭蕉は「奥の細道」で愛用した紙衾を大垣の門人竹戸に与えた。

翁行脚のふるき衾あたへらる。記あり略之

  美濃
首出してはつ雪見ばや此衾
   竹戸

   題竹戸之衾

疊めは我が手のあとぞ紙衾
   曾良


 元禄6年(1693年)、芭蕉は杉風、曾良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んでいる。

頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、

ほととぎす声や横たふ水の上

と申し候に、また同じ心にて、

一声の江に横たふやほととぎす

宮崎荊口宛書簡(元禄6年4月29日)

 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の庵をたって郷里伊賀へ帰る。

曽良は小田原まで芭蕉を送った。

 先月二十五日の御状、小川氏より届けられ候て、拝見いたし候。小田原まで御送りの礼、島田より一通たのみ遣し候。相届き申し候や。貴様御帰りの日に御書付、道々も次郎兵衛と申しやまず候。箱根山のぼり、雨しきりになり候て、一里ほど過ぎ候へば、少し小降りになり候あひだ、畑まで参り、小揚に荷を持たせ候て、宿まで歩行いたし候て、下り三島まで駕籠かり、三島に泊り候。

河合曾良宛書簡(元禄7年閏5月21日)

小川氏は小川風麦。

宝永7年(1710年)5月22日、壱岐勝本で病死。62歳であった。

 元文2年(1737年)、『雪満呂気』(曽良遺稿)周徳編。周徳は曽良の甥。

 元文5年(1740年)、周徳は諏訪の正願寺に供養碑建立。

 文化4年(1807年)、藤森素檗は曽良の百回忌を記念して『続雪まろげ』を刊行。

昭和13年、『曽良随行日記』が発見された。

昭和18年、公刊される。

曽良の句

浦風に巴をくつす村千鳥


うき時は蟇の遠音も雨夜哉


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