その他の俳人

松本乙児  ・ 夜琴亭松十  ・ 眠松下枕石
長月庵若翁  ・ 田川鳳郎


麻父

 越中の人。富山市寺町に生まれる。城生屋。丿ヘ(へつほつ)庵。芭蕉高弟中川乙由の門人。

 宝暦3年(1753年)、越中の麻父は鴻巣の横田柳几を訪ねたが、柳几は『つくば紀行』の旅で留守。布袋庵で柳几の帰りを待っていた。

安永3年(1774年)、没。

嗣子玉父(後の玉斧)が丿ヘ(へつほつ)庵二世を継ぐ。

 安永4年(1775年)、麻父の一周忌に玉父によって『丿ヘ(へつほつ)集』が編集された。

麻父の句が、しばらく芭蕉の句として殺生石の傍らにあった。


飛ぶものは雲ばかりなり石の上

 寛政5年(1793年)、芭蕉百回忌に丿ヘ(へつほつ)庵二世玉斧は富山市の愛宕神社に「はせを翁墓」を建立。

はせを翁墓


麻父の句

鷹かくす馬を牽せて枯野哉


初雪やうき艸ほしき水の上


軒端からうらみの滝や雨の月


   須磨にて

麦秋も二日とはなし須磨の里


早稲苅て波干うらの景色哉


なかりけり浦の苫屋も初しくれ


初雪や萍(うきくさ)ほしき水のうへ


とゞかずに夜は明にけり初氷


蛬我きく時は里恋し


行秋や碇ふまえて啼からす


花掃て人を通すやすやすみだ川


尾崎康工

 戸出村の人。中川乙由の門人。別号八椿舎。近江の義仲寺に滞在。晩年は故郷の戸出村に戻り六壁庵を結んだ。

元禄15年(1702年)、越中国砺波郡戸出村に生まれる。

宝暦年中(1751〜63)、町川の土堤に甍塚建立。



観音のいらか見やりつ華の雲

宝暦14年(1764年)5月、俳諧百一集』上梓。

安永3年(1774年)正月、『蕉句後拾遺』自序。

安永8年(1779年)3月6日、79歳で没。

康工の句

梨の花咲て昼鳴蛙かな


然れともものにさはらす雉子の声


梨の花咲て昼なくかはづ哉


田中千梅

近江の鋳物師。名は知義。三上千那の門人。方鏡叟白翁、のち千梅と号した。

 寛永17年(1640年)、父七右衛門知次が江戸に店を出す。

 万治2年(1659年)、深川の小名木川畦で鍋釜を鋳造。千梅は業を継ぐ。

 宝永6年(1709年)、千那は千梅の邸宅「千梅林」に逗留している。

 寛保3年(1743年)、芭蕉五十回忌に「芭蕉塚」造立。



 寛保4年(1744年)、記念集『千どりの恩』を上梓。

 宝暦5年(1755年)、『芭蕉句選拾遺』序。

明和6年(1786年)4月15日、江戸深川で没。享年84歳。

千梅の句

青桐の雫しほるや蝉の声


北川文素 ・ 可風

粟津の富農。蕉門正秀の門人で弟可風とともに俳諧を雲裡に学んだ。浮巣庵。

 寛延3年(1750年)、義仲寺に「芭蕉」の句碑を建立。



三日月の影を延すな蕎麦の花

現在、この句は文献で芭蕉の句と確認できない。

 宝暦13年(1763年)、時雨会。記念集蕉翁七十回忌粟津吟』(浮巣庵文素)

明和4年(1767年)秋、可風歿。

可風の句

けふはまた雲て見せるや初時雨


花に来て花による間もつはめ哉


陽炎や燕の羽をかへすとき


ことことと水もいぬるや秋のくれ


明和5年(1768年)8月、文素歿。

文素の句

遠浦に帆の見える夜の千鳥哉


明ほのゝ中へ杖引桜かな


淋しさの底をたゝいて添水哉


あたゝめる硯も雪の朝かな


龍ヶ丘俳人墓地に墓がある。

東海呑吐

 熱海に住み、多くの門弟を育てた。熱海俳壇の祖と言われる。無壁庵。門人に夜琴亭松十がいる。

 安永8年(1779年)5月、松十は師匠の無壁庵呑吐(のんど)、友人稲葉泰乙(たいおつ)を伴って瀧門寺を訪れて連歌の席を催し、それを誌して観音堂に奉納した。

多寶山瀧門寺


天明元年(1781年)11月17日、没。

熱海市網代の長谷寺に呑吐の供養碑がある。



散る時は果しれなくて秋の月

享和3年(1803年)、魯石は無壁庵東海呑吐の句碑を建立。


そめそめと白きをふしの紅葉哉

呑吐の句

後は空の花也郭公   豆 熱海 呑吐


有井浮風 ・ 諸九

 浮風は有井氏、幼名は新之助。筑前直方藩士。通称は軍治義保。後、武士を捨て、大坂で医業営む。野坡の門人。別号、湖白庵。

湖白菴浮風、姓は有井、筑前州直方の産なり。其先世々武を以國主黒田家に事へて福岡に居す。


 諸九は筑後国竹野の永松家の人。なみ。

 享保3年(1718年)、筑紫を行脚中の野坡に入門し、「湖白」の2字を授けられた。

享保戊戌のとし、先師筑紫行脚を待得て、二三の親友と共に桂宇、己々、文雄等同時に入門す。門下に遊ひ、弟子の禮をとりて湖白の二字を授け給へり。


 寛保3年(1743年)ごろ、有井湖白はなみと駆け落ち。

 寛保4年(1744年)、2人は後藤梅従の世話で大坂に移住。

延享初めの秋、佐久間柳居、中川麦浪は浮風を訪ねている。

 宝暦12年(1762年)4月、四天王寺に芭蕉と野坡の墓を建立。



記念集『朱白集』(浮風編)。

同年5月17日、浮風は61歳で没。

つれもありいまはの空にほとゝきす

 宝暦13年(1763年)5月、浮風一周忌。『その行脚』(諸九尼撰)

 明和4年(1767年)、京都岡崎の惟然坊旧庵「風羅堂」に「湖白庵」を結ぶ。『湖白庵集』上梓。

 明和5年(1768年)、常陸の俳人五峰は湖白庵を訪れている。

 明和6年(1769年)、蝶夢が伊賀上野で『おくのほそ道』(素龍跋・去来奥書)を発見。井筒屋刊行。

 明和8年(1771年)、湖白庵を跡にして松島まで旅をする。只言法師同行。

天明元年(1781年)、諸九尼没。

天明3年(1783年)、『秋風記』(諸九尼)刊。

諸九の句

まことらしき木ずゑも見ゆる小春哉


美丸

紀州の人。小夜庵五明門の俳人。

天明4年(1784年)秋、小夜菴五明を訪れた。

天明甲辰の秋上野今人のよぶ名也実は川尻村の内の小夜菴五明が方へ美丸と云る行脚来れり紀州の産にて今年二十一歳なるが詩歌連俳の達人と云

人見蕉雨『黒甜瑣語』

寛政3年(1791年)、美丸は伊豆で水死した。行年28であったという。

静岡県伊東市の弘誓寺に墓がある。

寶洲山弘誓寺


享和2年(1802年)、小林一茶は美丸の墓を訪れているようだ。

      豆州伊東弘誓寺

釈美丸居士

      寛政二戌十月廿五日

辞世 等閑(なほざり)にふみこそ迷へ敷島の道にはお(を)しき命也けり

『享和二年句日記』

美丸の句

志くるれは蚶ころひけり石の間


五味可都里

本名は五味宗蔵。加藤暁台、高桑闌更に学ぶ。

甲州藤田 

可都里    
   五味宗蔵 


 寛保3年(1743)、中巨摩郡藤田に生まれる。

 明和2年(1765年)秋、加藤暁台は信濃路・武蔵野の旅をして、可都里を訪ねている。

信濃の道くだり、甲斐の国に歩みを引ちがへて行ほど、藤田の可都里は年頃文してしれる好人なれば尋ぬ。其夜ごろにもあれば、月を見せばやなどわりなくとゞめられ、望の夜もこゝに遊ぶ。士峯の北面まぢかくひたひにかゝるやうなり。
哀に覚えて。

高根はれて裏行月のひかり哉


文化14年(1817年)9月14日、75歳で没。

門弟に辻嵐外がいる。

可都里の句

草臥や杖にこたへて鴫のたつ


三日月のはや大事也梅の華


烏来て何ともせぬや萩の花

名月や何処にどうして郭公


うくひすの脛まてかゝる小波哉


祝儀とて力も入れず小松引


糸竹の音に通ひけり天の川


いふことのさはるやう也夜の華


名月や人の白髪に心つく


水浴るからす淋しや暮の春


上矢敲氷

甲斐の人。小宮山門瑟の門人となり、平蕪庵鳥我と称した。

明和7年(1770年)、敲氷と改め、平橋庵を結ぶ。

享和元年(1801年)8月17日、70歳で没。

敲氷の句

芦の芽をふみわけて啼蛙かな


遅月庵空阿

 寛延3年(1750年)5月、遲月は備中国小田郡笠岡に生まれる。俗名丸山幸之助守邑。

 明和5年(1768年)、京都の安養寺で仏門に入り、芭蕉庵四世不二庵二柳に俳諧を学ぶ。

 天明8年(1788年)、奥羽旅行の為、東下。成美は遅月を迎えて句会を催している。成美と『一夜流行』を出版。

 寛政元年(1789年)、水戸に来遊。『俳諧水滸伝』成稿。

 寛政11年(1799年)7月、岡野重成は三世湖中を継ぐ。

 文化2年(1805年)10月、飯富村の竜光院に芭蕉の句碑を建立。

芭蕉の句碑


古池や蛙飛こ無水の音

平潟にも庵を結び、敬五亭隨和と交遊があった。

文化9年(1812年)9月15日、江戸で遷化。63歳。

遲月の句

野菌やくけふりなりけり秋の暮


有合すものは月なりはつ時雨

花鳥に空はつかへておぼろ月


駒鳥に大黒舞を見せうもの


水鳥のづぶりと春の行え(へ)


黄鳥も觜あらためよ薺粥


水見ても笑ふが如し春の月


沂風

紀伊の人、真宗高田派の僧侶。名は琳澄。蝶夢の門人。

 安永4年(1775年)10月12日、高野山に芭蕉の句碑を建立。

 安永7年(1778年)、義仲寺に入り、第六世無名庵主となる。

義仲寺


 寛政2年(1790年)、蝶夢の援助で粟津文庫を創設。

寛政12年(1800年)4月、49歳で没。

沂風の句

かへらんと月にそむけば影五尺


三井寺の兒髪そりて後の月


心ある海人の施物やのり二升


八千房駝岳

 丹州の人。竹上氏。大阪に住む。松木淡々の門人。別号木僊。後に五竹庵と改める。

 寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌に「芭蕉翁之碑」、「宝晋翁之碑」を建立。



 寛政11年(1799年)2月27日、小林一茶は駝岳に『さらば笠』の送り状を書いている。

文化12年1月5日(1815年)、83歳で没。

大阪の鉄眼寺に墓碑がある。

駝岳の句

雉なくや忘んとして父母の事


我菊は撓めぬほどの詠かな


素玩

若狭の人、三木氏。是非素玩。闌更門。

 文化9年(1812年)8月27日、一茶は一峨の今日庵で甲州の一作、京の素玩に逢う。

   廿七 晴 今日菴ニシテ甲州一作京素玩ニ逢

『七番日記』(文化9年8月)

素玩の句

山陰や鳥が立ても霧臭し


提灯に菊匂ひけり駿河臺


朶の鳥の逆に移る水寒し


妻星の光り残るや軒の艸


閑斎

吉備中山の人。義仲寺の無名庵十世。

閑斎   粟津 義仲寺


 文化8年(1811年)、諸国を俳行脚した記念集俳諧道中双六』刊。

 文政3年(1820年)頃、義仲寺の無名庵十世となる。

 文政7年(1824年)と翌8年の2回にわたり、魚水は義仲寺を訪れ『諸国翁墳記』に洩れていた藤本家の芭蕉句碑を付け加えるよう願い出た。

藤本家の芭蕉句碑


草臥れて宿かるころやふちの花

 文政13年(1830年)、『粟津文庫』刊。

天保8年(1837年)頃、没。

閑斎の句

行春やとしよりぶりの鳩の声


蔓草やはゝき立ても星の空


八重かすみ焼蛤の塩からき


洗ひ苧のむしろに寒し椎が本


   大井川渡る時

死(な)は夏三途の川も丸裸


辻嵐外

 通称は政輔。久村暁台高桑闌更、五味可都里に師事する。甲府柳町に草庵を結ぶ。晩年の俳号は六庵。

嵐外 甲府柳町三丁目 柏栄堂吉蔵裏   六庵嵐外


 明和8年(1771年)、越前敦賀に生まれる。

 文政6年(1823年)、藤森素檗の三回忌に久保島若人は『素檗句集』を刊行。嵐外序。

弘化2年(1845年)3月26日、75歳で歿。

南アルプス市の成妙寺に「嵐外日哉の墓」があるそうだ。

山梨県甲府市の酒折宮に辻嵐外の句碑がある。



月の雲々からさ岐に離れゆき

嵐外の句

朝露やこぼれた儘におとなしき


桐の葉や日かずのたつた夏の月


はつ雪や浪につい居る都鳥


春の夜に細引を喰ふ鼠哉


霜の夜や甲斐に居なじむ膝頭


桃のはな子供とゝもに折に鳬


霜の夜や甲斐に居しめる膝頭


八月や木を吹風に寂そむる


帋子きて俳諧もせずえびす講


八月や木を吹風に日のあたる


山陰や何々の墓ありて


ほとゝぎす啼と思ひば夏の空


山の梅咲て小笹のさえさえし


藤井鼎左

備後の人。大坂に住み、菅沼奇淵に俳諧を学ぶ。別号花屋庵。

鼎左 大坂安堂寺町御堂筋西へ入南側   花屋庵


 嘉永4年(1851年)3月15日、鼎左と一具「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。



 嘉永4年(1851年)、松本本町の高美宣智は芭蕉の句碑を建立。筆者は鼎左かと思われる。



しはらくは花の上なる月夜かな

明治2年(1869年)10月4日、68歳で没。

鼎左の句

鶯やふたツとおもふこゑの間


「旅のあれこれ」のトップページへ