尾州の俳人
井上士朗

士朗の句
尾張守山の人。加藤暁台の門人。初号支朗。別号朱樹叟。名古屋新町の町医井上家の養子となる。医号は専庵。
「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれたそうだ。
名古屋三俳人の一人。
名古屋市の久屋大通公園に「名古屋三俳人句碑」がある。

名古屋三俳人句碑
くさめして見失うたる雲雀哉
| 也有
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椎の実の板屋根を走る夜寒かな
| 暁台
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たうたうと滝の落ちこむ茂りかな
| 士朗
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寛政8年(1796年)5月、『松の炭』刊。蕉雨編。士朗序。
享和元年(1801年)2月、士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から信州へ旅をする。『鶴芝』。
享和3年(1803年)春、名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立。

さむ空にたゞ暁の峰の松
文化元年(1804年)5月16日、岳輅は名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立。

万代や山の上よりけふの月
文化6年(1809年)、『暁台句集』(臥央編)刊。士朗序。自跋。
蟹殿洞々は井上士朗を訪れているようである。
つくしの果まて見めくり来て、さ
かみのくにへかへるといふ洞々に
見なれたるものこそよけれ不二の山
文化9年(1812年)5月16日、士朗没。
いつのむかしならん、柴扉に杖をむかへて『鶴柴』の三吟ありしも、たゞめのまへのやうなり。
文化14年(1817年)夏、鶴田卓池は井上士朗の七回忌追善を1年繰り上げて誓願寺で行う。追善集『たかむしろ』刊。
門下に桜井蕉雨がいる。
松島の五大堂に句碑がある。

日のくれぬひはなけれどもあきの暮
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