芭蕉の句碑

石の香や夏草赤く露あつし

那須ICから県道17号那須高原線で那須湯本温泉へ。


殺生石がある。


あまりにも有名なので、あまり立ち寄ることはなかった。

 貞亨4年(1687年)、大淀三千風白河の関から遊行柳、殺生石を見いている。

○げに既に下野の國那須野にいる。かの道の邊柳、殺生石を見侍し。


殺生石に芭蕉の句碑がある。


石の香や夏草赤く露あつし

 元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、芭蕉と曽良は殺生石を訪れた。

 殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

もう1つ句碑があって、「芭蕉」の文字が消してある。


飛ぶものは雲ばかりなり石の上

 芭蕉高弟中川乙由の門人麻父の句で、しばらくは芭蕉の句として殺生石の傍らにあった。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は殺生石で句を詠んでいる。

 殺生石 此山間割残りたるを見るに、凡七尺四方、高四尺余、色赤黒し。鳥獣虫行懸り度々死。知死期ニ至ては、行逢人も損ず。然る上、十間四方囲て、諸人不入。辺の草木不育、毒気いまだつよし。

   ○哀さや石を枕に夏の虫

   ○汗と湯の香をふり分る明衣哉


 「明衣」は神事・儀式に用いる浄衣(じょうえ)。もとは天皇の御湯殿(おゆどの)に奉仕する蔵人(くろうど)が用いた湯帷子(ゆかたびら)をさした。あけのころも。あかは。

 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥行脚の途中で殺生石を訪れている。

   殺生石にて

葛もいま若葉そ滝のうら表
   白尼


 安永2年(1773年)、加舎白雄は殺生石を訪れた。

   殺生石

 祖翁のあはれみ給ひしがいとゞ人を刺蜂のたぐひあるは蒼蝿の死せるありくるしむあり蒼蝿蒼蝿と忌憎まるゝもいまつしにあはれなりけり

加舎白雄「奥羽紀行」

   殺生石にて

露おかぬ石のおもてや埒のうち
   白雄


寛政5年(1793年)、小林一茶も殺生石を句に詠んでいる。

初霜や殺生石も一ながめ

『寛政句帖』

 寛政5年(1793年)、小林一茶は京阪、西国、四国、九州方面を俳諧旅行中で、殺生石を訪れたわけではない。

小杉未醒は殺生石を訪れている。

 殺生石は二つの谷川の合流點、磧の中に在つて、今も虫などの骸落ち居り、或時學生が、ステツキで砂中に穴を作つて、鼻をつけて嗅いで見て、其まま倒れたと云ふから、いつまでも九尾の狐の呪毒は殘つて居ると見える、

大丸温泉へ。

「旅のあれこれ」のトップページへ