〜震災 ・ 戦災〜

戦災〜昭和20年(1945年)〜 供出
埼玉県川口市の本行寺にあった天然記念物の大山紅葉は昭和20年3月の空襲で枯死。
荒川区西日暮里の養福寺は戦災で仁王門のみを残して焼失した。
養福寺仁王門

墨田区東向島の向島百花園は東京大空襲により焼夷弾の直撃を受け、全園消失。
昭和33年2月、御成座敷が集会施設として再建、4月開放。
御成座敷

昭和20年3月9日、江東区北砂の志演神社と尊空稲荷神社は戦災により両社消失。
昭和22年3月、両社を合祀して社名を志演尊空神社と改名。
志演尊空神社

昭和20年3月9、10日、江東区大島の大島稲荷神社は大東亜戦争にて神社、社務所一切消失。
大島稲荷神社

昭和40年 御神殿権現造造営
台東区根岸の子規庵は戦災によって平屋造り家屋は焼失、昭和25年に再現される。
子規庵

浅草寺は関東大震災も無事に免れたが、戦災により焼失。
弁天山にある時の鐘は戦火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。
時の鐘

浅草寺本堂(観音堂)

昭和33年、本堂再建。
浅草寺五重塔

昭和48年11月1日、五重塔再建。鉄筋コンクリート造りである。
台東区の正洞院の門は戦災にも焼けなかったそうだ。

上野広小路の常楽院ご本尊阿弥陀さまは関東大震災と第二次大戦期の焼失を経て、調布市に移った。
上野池之端、東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
常楽院別院

豊島区の金乗院は4月の戦災で本堂等の建物や水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失。

昭和46年、本堂再建。
文京区関口にあった目白不動堂は、5月の戦災により焼失、金乗院に合併した。

文京区の「本郷館」は明治38年(1905年)に建てられた当時の高級下宿。
木造3階建ての下宿「本郷館」

関東大震災に耐え、東京大空襲も免れて、現在もアパートとして使用されている。
文京区の菊坂界隈は震災にも戦災にも焼け残り、明治 ・大正の面影を残している。
樋口一葉の菊坂旧居跡

昭和20年(1945年)5月、関口芭蕉庵は戦災に遭ったが、芭蕉堂だけ残った。
芭蕉堂

千代田区の文化学院は戦災に遭わなかった。
文化学院

渋谷区の龍巖寺は周辺に近衛歩兵第四聯隊の兵舎があったので、戦災に遭ったそうだ。
港区北青山の青山海藏寺は戦災で類焼し、全ては戦後の建物である。
青山海藏寺

目黒区下目黒の瀧泉寺(目黒不動尊)は戦災で大半が焼失。

5月24日の夜、東京都杉並区和田本町にあった山口青邨の家は東京最後の空襲に遭い、庭に焼夷弾が突き刺さっていた。
床の間

終戦後30年、青邨は焼夷弾の殻に花を活けて床に飾った。
5月25日、新青山脳病院「分院」は空襲により全焼。
跡地の「王子グリーンヒル」に斎藤茂吉の歌碑がある。

あかあかと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり
大田区池上本門寺の仁王門(三門)昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、同52年に再建。

大堂(祖師堂)も空襲で焼けてしまった。

昭和39年、鉄筋コンクリート造の大堂再建。
銚子の飯沼観音観音堂は戦災で焼失。

1971年に再建された。
7月6・7日の空襲で甲府市の長禅寺伽藍は全焼した。
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長禅寺三重塔
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長禅寺五重塔
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7月10日未明の空襲で仙台市の滝沢神社の芭蕉句碑は破壊された。

後に復元したものだそうだ。
亀岡八幡宮の社殿も空襲で焼失。

昭和40年10月、再建。
7月12日、敦賀市の金前寺は空襲により灰燼と化す。
誓法山金前寺

昭和63年、本堂再建。
7月14日・15日、アメリカ海軍艦載機の空襲で青函連絡船は8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、壊滅状態となる。
青函連絡船記念館摩周丸

8月、偕楽園の好文亭は戦災で焼失。

昭和33年にもとの姿に再建した。
8月10日、高村光太郎が疎開していた宮沢家も戦災に遭う。光太郎は10月から山荘で農耕しながら一人で暮らした。
高村山荘

8月13日、B29の爆撃により川端龍子の邸宅「御形荘庭園」の母屋や古い画室は失われたが、画室だけは奇跡的に難を免れた。
「御形荘」母屋

母屋は戦後に再建されたもの
終戦前夜の8月14日午後11時30分、熊谷市は空襲を受け、熊谷宿の本陣は跡形もなく灰燼に帰してしまった。
まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はB29一機による焼夷弾空襲を受けた。
小田原空襲を伝える写真

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