一茶の交友
〜仙六〜

明和九(年)五月十日、後の母男子仙六を生めり。此時信之は九歳になんなりけり。
『父の終焉日記』(日記別記)
明和9年11月16日、安永に改元。
寛政12年(1800年)3月14日、仙六から手紙が届く。
三月三日出
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一状一通 信州仙六 十四日とゞく 賃十八文払
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享和元年(1801年)5月21日、父弥五兵衛臨終。
文化5年(1809年)2月8日、仙六は本所相生町の一茶の借家を訪れた。
八日 晴 仙六来 菓子一袋
『文化句帖』(文化5年2月)
同年7月9日、祖母三十三回忌取越し法要を営む。
文化五年祖母三十三回忌墓参りの時になんありける。弟かたより古衾おこしたりけるに、しばらくして又武さし野にさすらへけり。其迹にて其衾いたく垢つきたれば、二倉なるゆかりの所にて洗ひ得させんとて、ばらばらにほどきけるに、こはいかに、中に入たるは綿にはあらで、襁褓(むつき)の果、あるは古雑巾などの荒布(あらめ)のやうに黒くしぼしたるものにぞありける。
『志多良』
文化10年(1813年)正月、菩提寺明専寺住職の調停で異母弟仙六との間の遺産問題が解決して故郷柏原に定住する。
廿六 晴 柏原ニ入
遺言ノ家及倉其外籾滞金卅両為引取 仙六因不得心明廿七日出立東都御糺所ニ上訴 然所妙(明)専寺御坊因乞和延引
『七番日記』(文化10年正月)
一茶が江戸の評定所に訴えようとしたので、明専寺住職が仲裁に入ったのである。
明専寺本堂

文化10年(1813年)6月18日、一茶は善光寺桂好亭で癰(よう)を病む。7月2日、仙六が見舞いに行く。
二 晴 仙六来 ソバ一袋
『七番日記』(文化10年7月)
文化11年(1814年)2月21日、一茶は生家を義弟弥兵衛と折半する。それに立ち会ったのは銀蔵と徳左ヱ門である。
廿一 晴 家取立合 銀蔵 徳左ヱ門
『七番日記』(文化11年2月)
文政10年(1827年)11月19日、一茶は焼け残りの土蔵の中で、3度目の妻に見守られて、65歳の生涯を閉じた。
史跡小林一茶旧宅

文政12年(1829年)、一茶の弟弥兵衛は門人等と一茶三回忌に柏原宿の入口に一茶の句碑を建立。
明治10年(1877年)、句碑は諏訪神社に移転された。
一茶の句碑

松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな
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