牧水ゆかりの女性

園田小枝子

 明治39年(1906年)6月末、牧水が神戸から船で細島に着くと、友人が神戸高商在学中隣家の少女に恋をして結婚を申し込んだが相手にされず、悲観して帰省していた。牧水が談判してやろうとして細島から神戸に戻ると、少女の家に親戚の美しい女が来ていた。これが小枝子であった。

小枝子


明治40年(1907年)6月19日、牧水は小枝子と武蔵野を歩いた。

 十九日、晴れゝばと祈つてる。そしたら僕は一日野を彷徨うつもりだ。一人ではない。が、戀でもない。たゞ憐れな運命の裡に住んで居るあはれな女性だと想つてくれたまへ。

6月13日附鈴木財藏宛書簡

 小枝子は上京して渡辺裁縫学校に通っていたのである。渡辺裁縫学校は東京裁縫女学校、現在の東京家政大学。

 同年6月29日、牧水は岡山駅前の旅館「はつね」に泊まり、さらに7月には岡山県と広島県との県境にある二本松峠を訪れて峠の茶屋「熊谷屋」に泊まっている。

中国を巡りて

幾山河越え去り行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

第1歌集『海の聲』

沼津の千本浜公園に句碑がある。

牧水の歌碑


牧水は専念寺の離れに友人と同宿。

専念寺


同年10月頃、牧水の宿に小枝子の姿が現れるようになった。

同年12月27日、牧水は小枝子と共に外房の根本に出発。

明治41年(1908年)、牧水は小枝子と白浜の根本海岸で正月を過ごした。

 わが居るは安房の海に突きいでし突端なれば日は海より出で海に落つるなり海の中に大島浮きて旦夕煙を吐くその右に冨士朗らかに見ゆ

1月4日附鈴木財蔵宛葉書

しら鳥はかなしからずやそらの青海のあをにもそまずたゞよふ

山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君

『海の声』

大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわが心かな

『若山牧水歌集』



小枝子には同行者がいた。小枝子の従弟赤坂庸三である。

同年春、小枝子と共に百草園で過ごす。

若山牧水生誕百周年歌碑


小鳥よりさらに身かろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君

 同年7月下旬、軽井沢で友人と3人で自炊生活を始める。その頃小枝子とは周囲の人から隔てられていた。そこへ「とにかくお互いが遠く離れているのは心細いから、出来るなら東京へ帰っていてくれ」という葉書が届いた。

小枝子は牧水より1つ年上で、2人の子持ちであった。

8月6日、牧水は軽井沢を発って碓氷峠を越え、坂本宿の「蔦屋」に泊まる。

碓氷峠


坂本宿上木戸


 明治四十一年の眞夏、私は輕井澤を午後に立つて碓氷の舊道を歩いて越え、日沒頃にその坂本に入つた。碓氷峠を挾んで西と東、輕井澤と共に昔の中山道では時めいた宿場だつたに相違ない其處なので一軒位ゐはあるであらうとあてにして來た宿屋がまるで無かつた。ただ一軒、蔦屋といつたと思ふ、木賃宿があつた。爺さんと婆さんとに一度斷られたのを無理に頼んで泊めて貰ふことになつた。

『樹木とその葉』(桃の實)

わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行くに

胸にただ別れ来しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり

秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿の糸繰の唄(坂本に宿りて)

第3歌集『別離』

同年12月27日、小枝子との生活を願って「若松町118番地」に移る。

 明治43年(1910年)6月、牧水は下部温泉「源泉館」に泊まる。



山越えて入りし古驛の霧のおくに電燈の見ゆ人の聲きこゆ

牧水は下部温泉でも小枝子のことを考えていた。

わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな

 同年9月13日、牧水は病気療養のため小諸の田村医院にやって来た。

 同年11月10日、小枝子から小諸滞在中の牧水に長距離電話があり、翌11日の夕方に小枝子は小諸にやって来る。翌12日早朝、小枝子は東京に帰る。

汝が弾ける糸のしらべにさそはれてひたおもふなり小枝子がことを

第4歌集『路上』

同年11月13日、牧水は小諸から地蔵峠を越え、鹿沢温泉へ。

牧水はそのまま東京に帰ったわけではなく、一度小諸に戻る。

東京に帰ったのは11月16日。

同年、小枝子は女児を出産。

 明治44年(1901年)、5年来の小枝子の件も片が付くことになる。

五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ

第4歌集『路上』

 色々なことがよく一緒になるものだ。五年来のをんなの一件も、とうとうかたがつくことになつた。連れられて郷里へ帰るのだ相だ。それがお互ひの幸福には相違ないね。いざとなると、矢張り頭がぐらぐらする。

3月14日附鈴木春郊宛書簡

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