西行の歌碑

年たけてまた越ゆべしとおもひきや
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命なりけりさやの中山
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掛川市佐夜鹿の旧東海道に小夜の中山公園がある。
標高は252m。
寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の任果てて上京。病みはじめて小夜の中山を越えたことも覚えていなかった。
ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。
小夜の中山公園に西行の歌碑があった。

西行歌碑
― 生涯二度目の難所越えに詠む ―
西行法師は平安時代末期の歌人。『新古今和歌集』には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この1首である。
年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山
23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌い続けた西行の、最も円熟味を増した晩年69歳の作である。この歌は文治3年(1186年)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯2度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この1首は歌枕としての小夜の中山の名声を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから6年後の鎌倉幕府の開設以降である。
西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。
窪田章一郎氏は窪田空穂の長男。
小夜の中山

安藤広重「東海道五十三次」
大永2年(1522年)5月、宗長は小夜の中山を訪れた。宗長75歳の時である。
大永二年五月、北地の旅行、越前の国の知る人につきて、帰る山をば知らねども、宇津の山を越え、小夜の中山にいたりて、
このたびはまた越ゆべしと思ふとも老の坂なり小夜の中山
『宗長日記』
芭蕉も小夜の中山で句を詠んでいる。
佐夜中山にて
命なりわづかの笠の下涼ミ
『江戸広小路』
廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。
明和8年(1771年)4月18日、諸九尼は小夜の中山を越えている。
十八日 空晴ぬ。さやの中山はけはしき峠もなけれど、行ちがふ馬も人も、山陰にみえかくれてさびし。閑呼(古)鳥の声、ほのかにきこえ、行々もねぶたき心ちしけり。
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