武州の俳人



年譜

横田柳几  ・ 桃源庵文郷  ・ 鈴木荘丹  ・ 川村碩布

五渡  ・ 戸谷双烏  ・ 古帳庵  ・ 細村青荷

蓑笠庵梨一

高橋氏、佐久間柳居に俳諧を学ぶ。

 正徳4年(1714年)、武蔵児玉郡に生まれる。

 宝暦11年(1761年)、48歳で坂井郡下兵庫村の代官となった。

 宝暦13年(1763年)、50歳の時に職を辞し、丸岡に居を定める。

丸岡城


 明和2年(1765年)、蝶夢を訪れる。

 安永6年(1777年)8月、象潟を訪れる。

象潟はうらむに似たりと祖翁の妙詞に、此江の風情は尽たりといふべし。されどたまたま爰に眺望して、其句のなからんは、いと本意なき業なめりと、只空吟、折にふれたるかたちのみを題して

象潟や墨絵の中に花一本
   梨一

『旅客集』(第4冊「仁」)

 安永7年(1778年)8月、『奥細道菅菰抄』(梨一自序・蝶夢跋)刊。

天明3年(1783年)4月18日、70歳で没。

梨一の句

長い日は空へも遠し舞ひばり


しら梅の寒さも障子ひとへ也


むらむらと小魚浮立春田かな


杉田素山

 杉田太郎右馬栄長。深谷宿の問屋、名主を勤める。通称仙右衛門。高桑闌更門。

 明和5年(1768年)、稲荷の地蔵堂の前(中仙道南側)に「菊図坊祖英塚」建立。



 安永3年(1774年)3月、菊図坊祖英追善のために俳諧菊の露』刊行。

文政7年(1824年)7月10日、没。89歳。

墓は西運寺にあるそうだ。

素山の句

梅か香や白魚呼んて通りけり


鹿聞し夜や雑水のうまかりし


蝶阿

安永3年(1774年)3月、菊図坊祖英追善のために俳諧菊の露』刊行。

南柳亭素山、半化坊闌更序。行脚俳人蝶阿跋。

蝶阿の句

鶯にほろほろあへのこほれけり


柚の花の一輪涼し小さかつき


秋かせや関越る日の影法師


きさらきや蛙かくるゝ草の丈


横田文玉

榎戸村の眼医者横田邦厖。常世田長翠の指導を受けている。

文玉   武州榎戸 
   横田半十郎 


与野(現さいたま市)の俳人鈴木荘丹とも親交を持っていた。

天保10年(1839年)8月、文玉は64歳で没。

榎戸堰公園に文玉の句碑がある。


鵜遣いの年に不足はなかりけり

文玉の句

江の千鳥柳によらぬ春もあり


蓬莱や世には奢のつきやすき


やまふきをくゝりぬけたり寺の犬


息子の氏宣も俳人で、俳号は玉芝。

寛政5年(1793年)12月、玉芝生まれる。

文化14年(1817年)、小蓑庵二世碓嶺は熊谷に草原庵を構える。

玉芝は碓嶺を訪れている。

荒川パノラマ公園に句碑がある。


養ひの月日かぞへて菊見かな

嘉永6年(1853年)4月7日、61歳で没。

玉芝の句

はるの日のくるゝ眼当や波の鴨


神の留主いらぬ雨の降にけり


川鍋千杏

袋村(現鴻巣市)の医師川鍋家五代目玄佐。別号葆光。

 明和3年(1766年)2月、加舎白雄白井鳥酔の供をして初めて吹上を訪れ、川鍋千杏を訪問、川鍋家で句会。

ぬけられて小うなりぬこてふ輪
   鳥酔

   我もかすまん野つづきの道
   雨什

芳しき草刈の笛をちこちに
   千杏

   火ともし時の唯しづかなり
   白雄

生方雨什は高崎の俳人、白井鳥酔の高弟で、松露庵四世。

同年4月10日、千杏没。

元荒川橋に千杏と白雄の句碑が並んでいる。


   

芳ばしき草刈りの笛あちこちに   千杏
   
火ともし時の唯しづかなり   白雄

千杏の句

浦山し留守居相手のみそさゝゐ


空を羽に今掃たてゝ雲雀哉


江の月に是も寝かねる千鳥哉


唐崎の昼もほめたし初しくれ


降れは出ぬ芸者の部也几巾


青柳の端折て通る道の端


川鍋魚生

魚生は袋村(現鴻巣市)の医師川鍋家六代目道教。千杏の子。

魚生の句

掃く人をはき返したる柳哉


たゝかれて鷺驚かぬ柳哉


山ふきや咲て驚く魚の照


掌へ植ては譽るすみれかな


尼寺の伽おぼつかなきじの声


白浜のしろきがうへに霞かな


しら梅に藁藉をはたく日南(ひなた)


暮る迄傘に風なし春の雨


今朝ふりし雨をしづくに門やなぎ


林喬駟

喬駟は本名林兵右衛門。中山道間の宿の「本陣」林家の当主。

喬駟   吹上 
   林兵右衛門 


鴻巣の横田柳几に師事して俳諧を学ぶ。初号、喬志。

後に鳥酔白雄長翠などと親交を結んでいる。

元荒川沿いの吹上本町5児童公園に喬駟の句碑がある。



水底の照る見る空か天の川

享和3年(1803年)1月27日、没。

吹上山勝龍寺に墓がある。

喬駟の句

蝶々や提た花とは知らて寄


はるの日や水田の底の艸青む


   西上人の其きさらぎはしらず

涅槃会や花のかげにて樒うる

うつくしき花売見せよ桃のけふ


原之雪雪白砂に暮るゝ哉

古里や茶がらを捨る花のもと

簾戸に秋たつけふの心哉


白げしの咲こぼれたる馬艚かな


水僊(すいせん)の花たちたげに書の小ぐち

風の落葉いたらずといふところなき

   我道是小登山

鳳巾(いかのぼり)天地の間の籟(ふえのね)

置露や花火のからも霄(そら)の夢


雉子啼て夕となりぬ汐ぐもり


琴うちか宿なる桐も花咲し


いなつまやひきちきりたる苦瓢


青芦のいまを華なる皐月哉


ひぐらしやぼさつの米をあけに来る


東阿

吹上の人。

安永8年(1779年)、加舎白雄は東阿を訪れている。

   東阿あざりがもと(を)とひて

咲(き)しより冬野(を)越(え)てとひし梅


東阿は僧職であったようだ。

鴻巣市小谷に日枝神社がある。

国道17号沿いの水辺公園に東阿の句碑がある。


水底の照る見る空か天の川

水辺公園にもう1つ東阿の句碑がある。


稲の花里は般若の風祭り

東阿の句

蜘のとるや常にハ憎き蠅なれと


橋もりのゆめの間を霜のわかれ哉

すが蓑のみのかひなしや雪し巻


鶴とゝもにゑぐなつむべき田面かな

いねのはな里は般若の風まつり


   淵明の五柳はしらず

青柳やたれのがれすむ村はづれ


   我すめるあたりにふる川といへるあるを

ふる川に神輿をあらへ里わらは


うらおもて貝多羅(ばいたら)わかぬわか葉かな


「貝多羅」は多羅樹の葉。古代インドで文字を記すのに用いたもの。

転じて、書物・記録の意。また、仏教経典の意。

府川志風

 延享元年(1744年)生まれ、桶川宿本陣八代目当主府川甚右衛門豊義。横田柳几の門人。

桶川宿本陣


文化2年(1805年)閏8月28日、65歳で没。

大雲寺の墓石に辞世の句が刻まれている。

法の旅花野や杖の曳ちから

鈴木荘丹は志風の死を悼んで句を詠んでいる。

布川氏の令尊は吾若かりしより相知りあひけるが、此秋物故したまひたるを

手向とやそれを懶(ものう)し鞠(きく)の水

志風の句

消る身や世にをしまるゝ春の雪

『春眠集』(寛政6年版)

『春眠集』は横田柳几の追善集。

府川不莠

志風の子で桶川宿本陣九代目当主府川甚右衛門義重。

天保4年(1833年)1月29日、64歳で没。

大雲寺の墓石に辞世の歌が刻まれている。

龍谷山大雲寺


まくさ刈る野辺のわらはや道遠く我住里へ径連行ばや

不莠の句

匕置て二百十日のあらしかな

『盆かはらけ』(文政7年版)

『盆かはらけ』は松村篁雨の追善集。

轍之

飯能の俳人鍋屋與八。加舎白雄の門人。

飯 能 


轍之
   鍋屋与八 


寛政年間に芭蕉の句碑を建立。



枯枝に鴉のとまりけり秋の暮

碑の裏に轍之の句が刻まれている。

秋のあわれ菊作らすも咲にけり

轍之の句が表ともいう。

轍之の句

山吹や岩がね水の底あかり


やま吹やかりにかけたる峡の橋


夜の雨を朝日にもゆる木のめかな


菜の花や便りなき洲にひと蕪


うめか香や舟へ投こむ薄蒲団


草の名はもとしらしとも花の咲


むめか香や船へなけこむ薄ふとん


短夜や漏刻既に暁の月


菜窓菜英

 菜英は八ツ林村(現川島村)道祖土の人で、川田谷村(現桶川市)の豪農高柳家を継いだ。俳諧を鈴木荘丹に学び、菜窓二世を許される。

 文化3年(1806年)6月17日、『山かつら』の旅に出る。

 文化6年(1809年)3月、菜英は浅草寺に三匠句碑を建立。

三匠句碑


 文化11年(1814年)、江戸本郷御弓町に新興宗教大道教の教学者を建て、その創始者となった。

文政12年(1829年)4月20日、58歳で没。

菜英の句

うら寒き斗りよ杉の月森

『与野八景』

きりの実が何かもふ(まう)すぞ春の風


(きり)の実が何か申ぞ春の風


竹二坊

福田村(現・比企郡滑川町)の人。藤堂伊賀守の侍医。五道庵。泊船居。

寛政10年(1798年)、『芭蕉翁正伝』(竹二坊著)刊行。呉水、画。

文政3年(1820年)2月、「芭蕉翁塚」建立。



天保6年(1836年)、没。

可良久

幡羅郡善ヶ島村(現:熊谷市)の人。羽鳥又左衛門。

 寛政元年(1789年)、15歳の時に加舎白雄に入門。

 寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没。

 寛政5年(1793年)、建部巣兆に入門。

 文化9年(1812年)7月、五翁・角浪・可良久・五渡・五楼は熊谷市の聖天山歓喜院に芭蕉の句碑を建立。



稲津ま也闇のかた行五位の聲

弘化4年(1847年)7月5日、73歳で没。

可良久の句

立臼に來てあたゝまれミそさゞい


名月や質屋の松を鼻の先


国村

武州蒲生(現:越谷市)の俳人高橋甚蔵。巣兆門。秋香庵を号した。

十二日 晴

   国村 蒲生 高橋甚蔵

『享和句帖』(享和3年11月)

 文化14年(1817年)、『曽波可理』(巣兆自撰句集)刊。鵬斎抱一序。国村跋。

 文政9年(1826年)3月、『杉間集』刊。配本扣に「蒲生川岸 高橋玄蔵 国村」とある。

国村の句

子規鳴や長者も真野のおく


人聲や藪の中より銀河


稲妻や黄昏かけて有磯海


虎杖の背戸もふさがぬ紺屋哉


干る汐や松の居所も遠くなる


井戸端の豆腐に移る小蝶かな


安房(あほう)とは誰子呼らん花菫


さふさふと水も汲れぬ桜かな


初秋の風もとまるや松蘿(さるをがせ)


鯉活す盥にさそふみぞれ哉


稲妻やむぐらの宿の中戻り


いなづまや黄昏かけて有磯海


呂律

熊谷の人。川田大治郎。磯屋彦惣とも称した。碓嶺の門人。

呂律   熊谷宿 礒屋宗惣


 文化15年(1818年)、『古今俳人百句集』(甲二・米砂・呂律編)刊。金令舎道彦序。九十九房碓嶺跋。

 『随斎筆記』に「文政元十二月二日一通 『百人一句集』来 熊谷磯屋 彦惣 呂律」とある。

『百人一句集』(成之編)、文化14年自序。

呂律の句

世の人と言はれて我も秋の暮


浮魚の蝶に逃たる二月かな


一桑庵野月

武州入間郡厚川村(現坂戸市)の人、鹿山文右衛門泰行。鈴木道彦門。

 文政13年(1830年)、道彦十三回忌で向島百花園に道彦の句碑を建立。74歳の時である。

道彦の句碑


今日の月さても惜しまぬ光かな

碑陰

世の中の梅の咲きけり隅田川

七十四翁一桑庵野月建之

句碑建立の記念集として『石碑供養』を刊行。

斎藤南々

「大斎藤」と呼ばれた豪農の四代目当主斎藤安兵衛寿冨。久米逸淵の高弟。

南々 武州中瀬 斎藤安兵衛 届所   可布庵


 享和2年(1802年)、深谷市中瀬に生まれる。

 天保12年(1841年)5月、芭蕉の百五十回忌で吉祥院に句碑建立。



頓てしぬ氣しきは見えす蝉の声

記念句集『蝉塚集』板行。

安政4年(1857年)9月22日、病没。享年56。

吉祥院に墓がある。

今は訪れる人もない。

南々の句

ひとすぢにかぎらぬ道や御忌詣


姉文女は耕雪と号した女流俳人。

耕雪の句

みだれたる後や久しき女良花


弟岩之助は河田家に婿養子に入った河田寄三。

寄三の句

けふの我こゝろを啼や呼子鳥


露と見る名残のしものなこり哉


柴雨

八幡山(本庄市児玉町)の人。

 寛政11年(1799年)3月10日、志考と其夕の援助で金毘羅神社に俳額を奉納した。

金毘羅神社


柴雨の句

蓍萩(めどはぎ)もかれて波こす江尻哉


折あふせて寒くなりけり花木槿


伊丹溪斎

深谷市高島の人。名は唯右衛門。別号篠涯舎。桜井梅室の門人。

兄の伊丹新左衛門は蘭学医。号は水郷。

 天保2年(1831年)10月29日、渡辺崋山は金井烏州と伊丹新左衛門を訪ねている。

 主人も又西医の法をこのミ、人を療す。弟ハはいかいにこゝろをゆだね、梅室が門人なり。梅室も此会に出んとて此家に滞留せしが、会のびしとてひと日ふた日さきに帰りたりとぞ。


 安政6年(1859年)春、伊丹溪斎門下は児玉町秋山の十二天社に芭蕉の句碑を建立。


明ほのやまた朔日のほとゝきす

慶応元年(1865年)5月1日、佐倉佐藤病院で没。

溪斎の句

鴨なども来たやうす也風の音


開く音しばらくやまず蓮の花


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