一茶の句文集



『おらが春』

嘉永5年(1852年)春、中野の白井一之が出板。飄隠居逸淵序。惺庵西馬跋。

白井一之は山岸梅塵の子。明治17年、64歳で没。

飄隠居逸淵は上州高崎の人。川村碩布門。

惺庵西馬は高崎出身、春秋庵久米逸淵の高弟。

 こたび同国の一之、家に伝へし坊が遺稿をその儘上木して、追慕のこゝろざしを尽す。予も亦旧知己をわすれず、坊が命終の年、柏原の旧里を訪ひて往時をかたるに、あるひ(い)は泣、あるひ(い)はわらひてわかれぬ。

文政2年(1819年)元旦から歳末まで、長女さとの死を中心に記している。

目出度さもちう位也おらが春

神奈川県伊勢原市の「旅館高尾」に句碑がある。


 それとはいさゝか替りて、おのれらは、俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家は、くづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

目出度さもちう位也おらが春

   こぞの五月生れたる娘に一人前の雑煮膳を据ゑて

這へ笑へ二つになるぞ今朝からは

文政元年(1818年)5月4日、長女さとが生まれる。

   四 晴 柏原ニ入 キク女子生ム

『七番日記』(文化15年5月)

めでたさも一茶位や雑煮餅   子規

[明治31年俳句未定稿]

み仏や寝ておはしても花と銭

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

東京都江東区の愛宕神社に句碑がある。



雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

   人形町

人形に茶をはこばせて門涼み

人形町で詠んだわけではない。

一つ蚊のだまつてしくりしくりかな

   独楽坊

寝所見る程は卯花明りかな

法の山蛇もうき世を捨衣

 「独楽坊」は、梅松寺十九世住職知洞の別号。「法(のり)」は寺の境内。「捨衣(すてごろも)」は、蛇のぬけがら。「蛇の衣(きぬ)」は夏の季語。

   題童唄

三度掻て蜻蛉とまるや夏座敷   希杖

希杖は湯宿如意湯の主人湯本五郎治。

   田中川原如意湯に昼浴みして

なほ[を]暑し今来た山を寝てみれば   一茶



湯田中温泉「よろづや」

如意湯は門人湯本希杖が河原に設けた別荘の湯。

[廿]八 晴 田中ニ入 申刻雨

『八番日記』(文政2年5月)

五 巳刻小雨 晴 如意湯ニ入

『八番日記』(文政2年6月)

にせ牡丹

 わが友魚淵といふ人の所に、天が下にたぐひなき牡丹咲きたりとて、いひつぎ、きゝ伝へて、界隈はさら也、よそ国の人も、足を労して、わざわざ見に来るもの、日々多かりき。おのれもけふ通がけに立より侍りけるに、五間ばかりに花園をしつらひ、雨覆ひの蔀など今様めかしてりゝしく、しろ・紅ゐ・紫、はなのさま透間もなく開き揃ひたり。



 其中に黒と黄なるは、いひしに違はず、目をおどろかす程めづらしく妙なるが、心をしづめてふたゝび花のありさまを思ふに、ばさばさとして、何となく見すぼらしく、外の花にたくらぶれば、今を盛りのたをやめの側に、むなしき屍を粧ひ立て、並べおきたるやうにて、さらさら色つやなし。是主人のわざくれに紙もて作りて、葉がくれにくゝりつけて、人を化すにぞありける。 されど腰かけ台の価をむさぼるためにもあらで、たゞ日々の群集(ぐんじゆ)に酒・茶つひやしてたのしむ主の心、おもひやられてしきりにをかしくなん。

紙屑もぼたん顏ぞよ葉がくれに     一茶

文政2年(1819年)4月30日、一茶は長沼の門人魚淵を訪れる。

   卅 晴 魚[淵]ニ入 文路ト今井衆中牡丹一見

『八番日記』(文政2年5月)

蛙の野送

 此もの、諸越の仙人に飛行自在の術ををしへ、我朝天王寺には大たゝ(か)ひに、ゆゝしき武名を殘しき。それは昔々のことにして、今此治れる御代に隨ひ、ともに和らぎつゝ、夏の夕暮せどに莚を廣げて、「福よ福よ。」と呼べば、やがて隅の藪よりのさのさ這ひよりて、人と同じく凉む、其つら魂ひ一句いひたげにぞありける、さる物から長嘯子の蟲合に、歌の判者にゑ[え]らまれしは、汝が生涯のほまれなるべし。



流山市市役所

[い]うぜんとして山を見る蛙哉
   一茶

鶯にまかり出たよ引蟾
   其角

鶯に罷出たよひきがえる


蛇のたたり

 しなのゝ国墨坂といふ所に、中村なにがしといふ医師(くすし)ありけり、其父のわざくれに、蛇のつるみたるを打殺したりけるが、其夜かくれ所のものづきづき痛み出して、つひにくされて、ころりとおちて死けるとかや。

魚どもや桶ともしらで門凉み
   一茶

   浅間山

昼顔やぽつぽつと燃る石ころへ
   一茶

   江戸住居

青草も錢だけそよぐ門凉
   ゝ

なでしこに二文が水を浴せけり
   ゝ



   小金原

母馬が番して呑ます清水哉   一茶

松戸市常磐平の子和清水に句碑がある。



   茂林寺

蝶々のふはりと飛んだ茶釜かな   一茶

茂林寺に句碑がある。



蝶々の婦ハリととん多茶釜哉

日蔭の栗

 我又さの通り、梅の魁(さきがけ)に生れながら、茨の遲生へ(え)に地をせばめられつゝ、鬼ばゝ山の山おろしに吹折れ吹折れて、晴れ晴れしき世界に芽を出す日は一日もなく、ことし五十七年、露の玉の緒の今まで切れざるもふしぎ也。しかるに、おのれが不運を科(とが)なき草木に及すことの不便也けり。

「梅の魁」は一茶、「茨の遲生へ」は仙六

なでしこやまゝはゝ木々の日陰花

親のない子

 「親のない子はどこでも知れる。爪を咥へて門に立。」と子どもらに唄はるゝも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木・萱など積たる片陰に跼(かがま)りて、長の日をくらしぬ、我身ながらも哀也けり。

我と来て遊べや親のない雀   六才弥太郎

添乳

蚤の跡かぞへながらに添乳哉

   小児の行末を祝して

たのもしやてんつるてんの初袷

名月を取てくれろとなく子哉

露の世

 樂しみ極りて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半ならざる、千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし來るごとき、あらあらしき痘(いも)の神に見込れつゝ、今水膿のさなかなれば、やをら咲ける初花の泥雨にしを(ほ)れたるに等しく、側に見る目さへくるしげにぞありける。 是も二三日經たれば、痘はかせぐちにて、雪解の峽土(かいつち)のほろほろ落るやうに瘡蓋(かさぶた)といふもの取れば、祝ひはやして、さん俵法師(だらぼうし)といふを作りて、笹湯浴せる眞似かたして、神は送り出したれど、益々よわ(は)りて、きのふよりけふは頼みすくなく、 終に六月二十一日の蕣(あさがお)の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死顏にすがりてよゝよゝと泣もむべなるかな。 この期に及んでは、行(ゆく)水のふたゝび歸らず、散る花の梢にもどらぬくい(ひ)事などゝ、あきらめ顏しても、思ひ切がたきは恩愛のきづな也けり。

露の世はつゆの世ながらさりながら   一茶

 去四月十六日、みちのくにまからんと、善光寺迄歩みけるを、さはる事ありて止みぬるも、かゝる不幸あらんとて、道祖神のとゞめ給ふならん。

   〔十]三 晴 サト女笹湯ノ祝

   [廿]一 晴 サト女此世ニ居事四百日。一茶見親百七十五日。命ナル哉今巳ノ刻歿。

『八番日記』(文政2年6月)

   子におくれたるころ

似た顔もあらば出て見ん一踊
   落梧

   娘を葬りける夜

夜の鶴土に蒲団も着せられず
   其角

 「夜の鶴」は「焼け野の雉子夜の鶴」から。親が子を思う情がとても深いことの喩え。

   松竹鶴亀

艸の戸も子を持て聞夜の鶴

『七番日記』(文化9年2月)

   寳永三戌十一月廿二日、妙身童女を葬りて

霜の鶴土にふとんも被されず


「妙身童女」は其角の娘みわ。

宝永3年(1706年)11月22日、「みわ」は10歳で亡くなっている。

宝永4年(1707年)2月、其角は亡くなる。

業の鳥

 紫の里近きあたり、とある門に炭団程なる黒き巣鳥をとりて、籠伏せして有けるに、其夜親鳥らしく、夜すがら其家の上に鳴ける哀さに

子を思ふ闇やかはゆいかはゆいと
     声を鳥の鳴あかすらん   一茶

「紫の里」は、久保田春耕の居る高山村紫。

四五りん草

 おのれ住る郷は、おく信濃黒姫山のだらだら下りの小隅なれば、雪は夏きへて、霜は秋降る物から、橘のからたちとなるのみならで、万木千草、上々国よりうつし植るに、ことごとく変じざるはなかりけり。



一茶のふるさと信濃町一茶記念館

   九輪草四五りん草で仕廻けり
   一茶

老翁岩に腰かけて、一軸をさづくる図に、

   我汝を待こと久しほとゝぎす
   ゝ

九輪草


成蹊子

 成蹊子、こぞの冬つひに不言(ものいはぬ)人と成りしとなん。鶯笠のもとより此ころ申おこせたりしを、

 成蹊子は田川鳳郎。「不言(ものいはぬ)人」は、中風による言語障害。『史記』(李広伝)「桃李不言下自成蹊」による。「鶯笠」は別号。

つの国の何を申も枯木立   ゝ

 「つの国の」は「何」の枕詞。「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(西行『新古今和歌集』)をふまえ、「桃李」も今は「枯木立」と化したということ。

まかり出たるは此藪の蟇にて候
   一茶

雲を吐く口つきしたり引蟇
   ゝ

   七月七日墓詣

一念仏(ひとねぶつ)申だけしく芒哉
   一茶



   七 晴 小雨 夜晴 墓詣

『八番日記』(文政2年7月)

   さと女卅五日 墓

秋風やむしりたがりし赤い花   一茶

「さと女卅五日」は、7月25日。

栗の古木

 立よらば大木の下とて、大家(たいけ)には貧しき者の腰をかゞめて、おはむきいふもことはりになん。爰(ここ)の諏訪宮に、大きさ牛をかくす栗の古木ありて、うち見たる所は、菓(このみ)一ツもあらざりけるに、其下をゆきゝする人、日々とり得ざるはなかりけり。

「諏訪宮」は信濃町の諏訪神社

諏訪神社


   十五夜は、高井野梨本氏にありて、

古郷の留守居も一人月見かな   一茶



   晴 稲長ニ入

『八番日記』(文政2年8月)

稲長は梨本義助信治。

この日は皆既月食

   月蝕皆既亥七刻右方ヨリ欠、子六刻甚ク、丑ノ五刻左終。

人数は月より先へ欠にけり
   一茶

人の世は月もなやませ給ひけり
   ゝ

   九月十六日、正風院菊会

桑さげて神農顔や菊の花

正風院は魚淵の別号。

 「神農」は古代中国の伝説上の帝王で、医術、農耕の祖。魚淵は農業のかたわら漢方医を業とした。

   さと女笑顔して夢に見えけるまゝに

頬べたにあてなどしたる真瓜(まくわ)

   高井野の高みに上りて

秋風や磁石にあてる古郷山

高山中学校に句碑がある。


   東に下らんとして中途迄出たるに

椋鳥と人に呼るゝ寒かな

   兩國橋

寒垢離にせなかの龍の披露かな

両国橋


 かも川をわたらじとちかひし人さへあるに、ひと度籠りし深山を下りて、しら髪つむりを吹れつゝ、名利の地に交る。

恥かしやまかり出てとる江戸のとし

あなた任せ

 如斯決定(けつじょう)しての上には、「なむあみだ仏。」といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行ひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず、しかる時は、あながち作り声して念仏申に不及。ねがはずとも仏は守り玉ふべし、是則、当流の安心(あんじん)とは申也。穴かしこ。

ともかくもあなた任せのとしのくれ

五十七齡一茶

 文政二年十二月廿九日

柏原仁之倉に句碑がある。


ともかくもあなた任せの年の暮



  
見おろした柳見あぐる泊りかな
   梅室

老たちの出る夜となれば朧月
   多よ女

ひとすぢにかぎらぬ道や御忌詣
   南々

たい(ひ)らみのあれば山路も揚雲雀
   五八九



知り安(易)き人のこゝろや春の花
   一具

柴垣やほかまでもなし初霞
   由誓

まぼろしやまだ見ぬ方の花を添
   抱儀

月と日に起ふしかはる巣鳥かな
   弘湖

   田家眺望

雉子なくやみどりをふくむ朝煙り
   梅笠

   隅田漫興

夜のはるのさかりになりぬ朧月
   西馬

去年をゝしみことしをまつに、誰々も枕を忘れて、元日の夜は殊にいぎたなければ

人は寝てそちがはるなり嫁が君
   逸淵



  
若水や手早にくむもあとおもひ
   葛古

永き日のみゆる机のこり哉
   梅堂

雪とけて世に憂事もなかりけり
   其秋

   老 懐

草萌もよそにのみ見てたつ日哉
   梅塵

眼にみゆる風のひかりや東窓
   一之

 惟然坊は元録(禄)の一畸人にして、一茶坊は今世の一奇人也。そが発句のをかしみは人々の口碑に残りて、世のかたり草になるといへども、たゞに俳諧の皮肉にして、此坊が本旨にはあらざるべし。中野のさと一之が家に秘めおける一巻物や、ざれ言に淋しみをふくみ、可笑みにあはれを尽して、人情・世態・無常・観想残す処なし。もし百六十年のむかしに在て、祖翁の過眼を得むには、惟然の兄とやのたまはんか、弟とや申し玉(給)はむか。
『おらが春』

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