濃州の俳人
田中五竹坊 ・ 野村白寿坊 ・ 国井化月坊

燕説
美濃大垣の人。露川の門人。無外坊。伊勢村松の松林寺住職を務める。
享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って西国を行脚。
享保2年(1717年)、『西國曲』(露川・燕説)板。杉風跋。
享保2年(1717年)5月下旬、「奥の細道」の跡を慕って東北に遊び、冬馬耳の欖翠軒を訪れる。
享保4年(1719年)5月12日、『俳諧田植塚』(馬耳撰)刊行。「田植塚記」を記す。
享保6年(1721年)春、露川と共に三越路に旅をする。
享保6年(1721年)12月20日、四日市の鳴子亭に庵住。
享保14年(1729年)頃、四日市の逢春軒に居を移す。
寛保3年(1743年)9月19日、73歳で没。
此界に二度と用なし秋の風
伊勢四日市東溟山建福寺に墓がある。
追善集に『こぬ世の風』がある。
燕説の句
仙石廬元坊
各務支考の門人。美濃派(獅子門道統)三世。別号、里紅。
享保20年(1735年)、廬元坊は新潟を訪ねている。
享保21年(1736年)、支考七回忌追悼句集『渭江話』(廬元坊編)。
廬元坊が象潟を訪れて詠んだ句がある。
有耶無耶に清水たずねん村烏
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象潟やもろこしの秋を橋隣
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延享4年(1747年)5月10日、60歳で没。
関ヶ原町の美濃不破関跡に廬元坊の句碑がある。

名月や山も谺に起とをし
大垣市の正覚寺に発句塚がある。

住みあいた世とは嘘なり月よ花
| 仙石庵廬元坊
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名月やことしの影はことしとて
| 田中五竹坊
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しづけさや芭蕉にかかる雨の音
| 岡田冬恕坊
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廬元の句
太田巴静
通称弥平次。沢露川に師事。別号反喬舎、六々庵。「鶏頭の巴静」と言われた。
延宝6年(1678年)、美濃竹ヶ鼻に生まれる。
正徳2年(1712年)、35歳の時に名古屋に出て剃髪。
享保19年(1734年)3月、『俳諧木の本』(巴静撰)自序。
享保19年(1734年)、『吾妻掲(あづまからげ)』刊行。この旅で佐久間柳居を知る。
元文5年(1740年)6月、佐久間柳居は名古屋に立ち寄り、巴雀や巴静と連句会を興行。
寛保3年(1743年)、名古屋大須に「月 塚」を建立するが、この句碑は不明。
『諸国翁墳記』に「月 塚 尾州名古屋大須ニ在 六々庵巴静建 三井寺の門たたかはやけふの月 芭蕉」とある。
寛保4年(1744年)2月19日、67歳で没。
門弟に横井也有がいる。
金谷坂の石畳に鶏頭塚がある。

曙も夕ぐれもなし鶏頭華
巴静の句
大野是什坊
本名は親芳、通称瀬兵衛、号を傘狂・朝暮園・老森庵・風論子・花中人といった。
宝暦2年(1752年)、江戸詰となる。
安永9年(1780年)、美濃派(以哉派)六世の道統を継ぐ。
寛政5年(1793年)12月17日、67歳で没。
垂井町の本龍寺に傘狂の句碑がある。

蜂の巣や知らぬきのふをあふながる
垂井町の菁莪記念館に大野是什坊の句碑がある。

初雪やそれさへたらぬ貯ひ酒
傘狂の句
国枝魯松庵
国枝長太夫。調固坊。美濃派(再和派)十三世道統。
寛政9年(1797年)、大野郡定松村(現:揖斐郡大野町定松)に生まれる。
安政4年(1857年)、「柳々舎」は「芭蕉」の句碑を建立。

海に降る雨や恋しきうき身宿
国枝魯松庵揮毫。
晩年は新潟に住む。
明治8年(1875)9月30日、79歳で没。
戸倉耕月庵建立ともいわれる芭蕉の句碑がある。

むすふより早歯にひゝく泉か南
碑陰に魯松庵の句が刻まれている。
名にひゝく泉や徳のとこしなへ
戸倉耕月庵
戸倉六之丞。魯松に就いて誹諧をまなぶ。再和派十四世道統。
40歳の頃、家督を女婿の六郎(竹圃)に譲り、専ら六墨の道に親しむ。
嘉永7年(1854年)、獅子門再和派十四世の道統を継ぐ。記念集『蘭の加保理』
芭蕉の句碑を建立。

むすふより早歯にひゝく泉か南
明治4年(1871)2月16日、61歳で没。
明治10年(1877年)12月、戸倉竹圃は耕月庵の句碑を建立。

孝の徳世々になかれて瀧すゝし
行庵洒雄
美濃の人。伊藤氏。久米逸淵の高弟。別号有終。江戸今川橋に住む。
文久3年(1863年)、逸淵三回忌に『かりかね集』刊行。
慶応3年(1867年)、深谷市の歓喜天に芭蕉の句碑を建立。

川上とこの川下や月の友
碑陰に行庵洒雄の撰文がある。
明治9年(1876年)4月3日、川角村(毛呂山町)の野口有柳邸で客死。享年47歳。
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