〜一茶の句碑〜
西林寺

行くとしや空の名残りを守谷まで
関東鉄道常総線守谷駅と南守谷駅の中程に西林寺がある。
西林寺

西林寺は将門を守り本尊とする天台宗の名刹。
平将門がたて籠もった旧跡ということで、籠山(こもりやま)の名がある。
本堂の右に見えるのは枝垂れ桜。春には見事だろう。
本堂の手前に小林一茶の句碑があった。

行くとしや空の名残りを守谷まで
守谷市教育委員会の説明が書いてあった。
この句碑は、文化7年(1810年)12月23日、一茶が西林寺を訪れたときに詠んだもので、「行くとしや空の名残りを守谷まで」と記されています。碑は、終戦後かつて一茶のもとで俳諧を学んだ守谷市の斉藤徳左衛門(若雨)の子孫である斉藤隆三氏をはじめとする有志によって建立されました。
守谷市守谷の雲天寺に若雨の墓がある。
雲天寺

一茶が俳友の桜井蕉雨とともに初めてここ下総国相馬郡籠山(こもりやま)の西林寺第64世義鳳師(俳名鶴老)を訪ねたのは、文化7年6月14日、一茶48歳の時でした。
桜井蕉雨は安永4年(1775年)に信州飯田で生まれる。一茶よりも12才年下で、寛政8年(1796年)に句集『松の炭』を梓行。鶴老も飯田の出身で、焦雨とは同郷。
文化7年(1810年)6月14日、一茶は焦雨に案内されて流山から小金原、布施村を経て守谷にやって来た。
十四 晴 布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。
蚊の声や将門どのゝ隠シ水
| 蕉雨
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朝涼や瘧(おこり)のおつる山の松
| 一茶
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16日、利根川に沿いに戸頭から大鹿、新町、取手、小文間、小貝川を渡って、布川に入る。
それ以来、9回にわたって西林寺を訪れ、時には近在の同志を集めて句会を開きました。
守谷市教育委員会
文化7年(1810年)12月21日、一茶は流山に2泊して、23日、蕉雨に紹介された鶴老を訪ねて守谷西林寺に入る。
行としや空の名残を守谷迄
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行としや身はならはしの古艸履
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古頭巾やとりも直さぬ貧乏神
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この年の11月2日、夏目成美の留守宅を訪れたところ、金子が紛失して一茶も8日まで留め置かれるという事件があった。
二 曇 申九刻随斎ニ入。主人角田川ノ紅葉一覧。
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三 晴 卯五刻箱中改メラルゝ所金子紛失ス。
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守谷で年を越す。
我春も上々吉よ梅の花
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壁の穴や我初空もうつくしき
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7日、竹里がやってきた。
一茶は13日まで逗留、して流山へ。
文化9年(1812年)1月23日、一茶は布川から守谷の西林寺に入る。
同年2月12日、守谷を後にして流山に向かう途中、一茶は秋元双樹と紅竜山東海寺(布施弁天)詣でた。
紅竜山東海寺(布施弁天)本堂

十二 大晴 布施紅竜山東海寺詣デ流山ニ入
『七番日記』(文化9年2月)
文化13年(1816年)10月9日、一茶は西林寺に入り、ここで芭蕉忌を迎えた。
九 晴 入西林寺
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[十]二 雨 翁忌
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翁忌や何やらしやべる門雀
『七番日記』(文化13年10月)
同年(1816年)11月、一茶は皮癬(ひぜん)を発し、12月22日、籠山(こもりやま)の西林寺に入る。
其後後安清被成[候]哉、奉賀。されば、私、前便に申越候通り、去十一月より、ひぜん発し、外へ行も延(遠)慮いたし居候所、去十二月十三日より、足のうらへも腫候へば、山寺に籠り療治仕候。
菊宛て書簡(文化14年3月3日)
「ひぜん」は疥癬(かいせん)のこと。疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病。「山寺」は西林寺のこと。
[廿]二 晴 大西風 寒 入篭山
『七番日記』(文化13年12月)
西林寺で年を越す。
我菴は昼過からが元日ぞ
翌文化14年(1817年)1月24日まで滞在。
[廿]四 晴 大北風吹 マバシニ入
『七番日記』(文化14年正月)
文化14年(1817年)2月5日、一茶は馬橋からが守谷を訪れる。
五 晴 入化六庵。蕉雨妻病ニヨリテ也。
『七番日記』(文化14年2月)
化六庵は鶴老上人の号。
これが最後の訪れである。
2月10日、鶴老上人と大鹿村で別れ、布川に行く。
文化14年(1817年)8月24日、国学者高田与清は西林寺を訪れている。
こもり山の擁護山西林寺は、ふるくは茶畠山清浄光院といへりとぞ。八幡廓より移しすゑまゐらせたる妙見八幡の宮あり。この寺あるじ鶴老師は、何くれのみやびに心よせふかくて、東都のきこえ人にも交を結ばれし人なり。余がとぶらへるをよろこばして、そうこたちに茶を煮させなどしつゝ、もてなさるゝさまいとまめまめし。
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