一茶の句文集



『まん六の春』

まん六の春となりけり門の雪

 文政5年(1822年)閏正月11日、一茶は柏原を立って、牟礼、豊野、長沼まで駕籠にて門人宅を転々、17日には善光寺の門人上原文路宅に入り滞在。22日、長沼上丁に戻る。23日、完芳会。

   [十]七 三好ニ入 四百穴納

   [廿]二 晴 上丁ニ入 寒

   [廿]三 小雨 完芳会 寒

『文政句帖』(文政5年閏正月)

羽織きた女も出たり梅の花

鶯のたかぶり顔はせざりけり

 某の隠居行すまして、ぬきば(軒端)にはかの後世をたのむ梅ていふものを植ゑ、又泉石をしつらへ、日々いくたびとなく掃ききよめて、一片のおち葉、一抹のちりにも心をいため、家人さへ近けざりけり。

『まん六の春』

「某の隠居」は経善寺の住職呂芳の父完芳。

明治初年、経善寺は廃寺となったそうだ。

文政5年(1822年)2月1日、春甫宅で初午を迎える。

   夜初午 春甫ニ入

『文政句帖』(文政5年2月)

 けふは初午なれば、里の子どもら朝とくよりしきりに太鼓うち鳴らせば、門の木々も眼覚めたらんやうに一やうに木花咲せて、つやつやとかゞやきけり。

 しかるにこの家の妻いかゞしたりけん、さながら鰒(ふぐ)の如くふくれておはしけり。

仏頂づらそつと吹也春の風

『まん六の春』

長野市役所長沼支所の前に春甫と呂芳の句碑がある。


春甫と呂芳の句碑


鶉鳴くや山一つくれふたつ暮
   春甫

陽炎やくたびれ顔の古仏
   呂芳

2月8日、六川梅松寺に入る。

   八 晴 六川梅松寺ニ入 昼ヨリ陰 寒

『文政句帖』(文政5年2月)

2月13日、湯田中湯本希杖に泊まる。

   十 雨 巳刻晴 林ノ内左衛門ニ入 未刻雪三寸積

   [十]三 其翠同道ヨマセ岩屋上条通田中[ニ]入 希杖留守

『文政句帖』(文政5年2月)

「其翠」は、希杖の子其秋。

 昨日未刻一天俄にくもりて、積雪三寸に及びぬ。道は泥深く足を埋めて、一尺の歩みをすゝむれば、五寸のすさりをなす。さりながら、かりそめにも約しおきたる言葉捨てがたく、江部むらを過ぎて田中に入る。

 此のあたり、この国第一の田どころなれば、土地ひろびろと開け、はるかに千くまの流を望み、遠く山々は雪をかむりて、眺めまれなり。

 長々の月日雪間にしのべる草木は、時を得顔に首さしのべて青みわたり、花もまれまれに咲きけり。

 とある藪木の陰より鶯の折しり顔に鳴きけるは、春つぐる心になん。

なゝなくな終はつ雪ぞはつ雪ぞ   一茶

『まん六の春』

翌14日早朝の一茶と希杖との一問一答がある。

 さりながら、歌一首よまず、画一枚ものさで、ひたすら小田守り耕して老い行くことの浅しき業ならずや。といへば、さにあらず、六十の齢を累ぬれども、未だ一粒の米だに作らず、穀盗人とのゝしられて、罰もあたらずふしぎに長らふるこそ、恥おゝきことになん。といへば、主はじめてからからと笑ひけり。

『まん六の春』

   三日 晴

耕さぬ罪もいくばく年の暮

『文化句帖』(文化2年12月)

文化2年(1805年)、一茶は43歳。

   十九日 夜 巴水亭会

   作らずして喰ひ、織らずして着る身程の、行先おそろしく

鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴

『文化三−八年句日記写』(文化4年8月)

文化4年(1807年)、一茶は45歳。

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