蕉門十哲

向井去来
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長崎の生まれ、俗名向井平次郎。蕉門十哲の一人。

去來者肥前之産也。後隨兄居于洛陽。向井氏也。中華蕉門之高弟也。號落柿舎。隨師選師選猿簑。後病死。年五十三。

『風俗文選』(許六編)

 芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。

浪化は去来の紹介で芭蕉に入門。

 貞亨3年(1686年)8月、去来は妹千子(ちね)と『伊勢紀行』の旅をする。芭蕉はその跋文に添えて句を贈った。

いづれの時の秋にや、去来・千子が伊勢まうでの比、道の記かきて深川に送りけるに、奥書の褒美ありて、

西東あはれさおなじ秋の風
   翁


 貞亨5年(1688年)5月15日、去来の妹千子没。

   辞世

 去来妹
もえやすく又消やすき螢哉
   千子


   いもうとの追善に

手のうへにかなしく消る螢かな
   去来

『阿羅野』(荷兮編)

千子が身まかりけるをきゝて、みのゝ国より去来がもとへ、申しつかはし侍りける

無き人の小袖も今や土用干
   芭蕉


 元禄3年(1690年)4月、『いつを昔』(其角編)。去来序。湖春跋。

 元禄4年(1691年)7月3日、『猿蓑』(去来・凡兆共編)刊。

 元禄6年(1693年)2月2日、呂丸は京都で客死。

去来は呂丸追悼の句を詠んでいる。

   呂丸追悼 三句

雲雀なく声のとゞかぬ名ごり哉
   会覚

ふみきやす雪も名残や野べの供
   去来

野を(お)くりや膝がくつきて朧月
   史邦

『芭蕉庵小文庫』(史邦編)

 芭蕉は晩年3度落柿舎を訪れ、『嵯峨日記』を著した。

落柿舎


落柿舎に去来の句碑がある。



柿主や梢は近きあらし山

 元禄7年(1694年)10月、芭蕉は難波で病に臥す。去来は伏見から舟で駆けつけた。

芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときゝて、伏見より夜舟さし下す。

舟にねて荷物の間や冬ごもり


芭蕉没後、芭蕉の兄半左衛門から素龍清書『奥の細道』を譲り受ける。

 その外、奥羽の風流は奥の細道にみづからかきて、洛の去来に残し侍り、潜淵庵が『継尾集』にもこもごも出し侍るかし。


 素龍清書本『奥の細道』は去来の死後敦賀の俳人白崎琴路の許に移り、現在は敦賀の西村家に伝えられているそうだ。重要文化財である。

 元禄8年(1695年)3月上旬、去来の後見で『ありそ海・となみ山』(浪化編)成立。

 宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・去来編)刊。

同年9月10日、没。

落柿舎の裏に去来の墓がある。



安永4年(1775年)、『去来抄』刊。

 長野県佐久市の豊川稲荷神社に芭蕉と刻まれた句碑があるが、去来の句である。



駒曳の木曽や出るらん三日の月

上田市下塩尻に去来の句碑がある。



岩ばなや爰にもひとり月の客

京都府京都市の弘源寺小倉山墓地に去来の句碑がある。



柿主や梢は近きあらし山

応々と言へど叩くや雪の門

岡山県岡山市の吉備津神社駐車場に去来の句碑がある。


秋風や鬼とりひしぐ吉備の山

 埼玉県上尾市の氷川鍬神社の芭蕉の句に嵐雪と去来の句が刻まれている。

梅一りん一輪ほどのあたたかさ
   嵐雪

岩端やここにもひとり月の客
   去来

 京都市伏見区の御香宮神社の芭蕉の句碑に去来の句が刻まれている。



應々といえと敲くや雪の門

去来の句

柿主や梢はちかきあらし山

続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに、首尾年ありて、此集の人足にくはゝり侍る

鴨啼や弓矢を捨て十余年
   去来


山家にて魚喰ふうへに早稲の飯


岩ばなやこゝにもひとり月の客


岩はなや爰にも月の客ひとり


応々といへとたゝくや雪の門


応々といへとたゝくや雪の門


兄弟の顔見合すや不如帰


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