『奥の細道』


〜芭蕉の広場〜

 東北自動車道西那須野塩原二本松ICから国道400号で大田原へ。大田原から国道461号黒羽街道で黒羽へ。


 芭蕉は黒羽に元禄2年4月3日(陽暦5月21日)から4月16日(陽暦6月3日)まで14日間にわたって停留した。

 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原わけて玉藻の前の古墳をとふ。

『奥の細道』

 「浄坊寺何がし」は浄法寺高勝のこと。俳号は桃雪。別号秋鴉。旧姓は鹿子畑(かのこはた)。母の兄である黒羽大関藩城代浄法寺茂明に家督を譲られ、浄法寺姓となる。

芭蕉が黒羽に訪れた時、桃雪は29歳であった。ちなみに芭蕉は45歳。

 元禄9年(1696年)4月1日、天野桃隣は日光から大田原を通り、黒羽に出て句を詠んでいる。

 日光ヨリ今市へ出、大田原へかゝりて、那須の黒羽に出る。此所に芭蕉門人有て尋入。

      卯月朔日 雨

   ○物臭き合羽やけふの更衣

      はてしなき野にかゝりて

   ○草に臥し枕に痛し木瓜の刺

      道より便をうかゞいひて

   ○黒羽の尋る方や青簾


黒羽の館代浄坊寺桃雪宅に泊まる。

旧浄法寺邸


明治39年10月4日、河東碧梧桐は黒羽にやってきた。

奥の細道に、

黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、其弟桃翠など言が朝夕勤とふらひ、自の家にも伴ひて親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに云々

とある。

 けさ大田原から三里の道を東に歩んで、この黒羽に着いた。黒羽は常陸に落つる那珂川の上流を挟さんだ那須野東部の都である。浄法寺何がしの家は、なお現存しておると聞いた。処の者は今に城代の館という。町の東北に当る小山の上で、小学校のすぐ左側だと教える。


小杉未醒は黒羽の町を書いている。

 黒羽の町は下野の國の東端、奥州街道より大分に右に外れて、那珂川の岸にあり、今以て一風情ある趣、あの邊は常陸の國境に近く、那珂川は流れて水戸を經て海に入り、やゝ舟運の便あり、


 黒羽では、「芭蕉の館」、「芭蕉の道」、「芭蕉の広場」など「芭蕉の里」づくりが行われている。

「芭蕉の館」は休館日だった。

黒羽は城下町である。


「芭蕉の広場」はもと武家屋敷であった。

黒羽には芭蕉(曾良)の句碑が9つある。

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鶴鳴くやその声に芭蕉破れぬべし
 芭蕉
A
田や麦や中にも夏のほととぎす
 芭蕉
B
山も庭にうごきいるゝや夏座敷
 芭蕉
C
行春や鳥啼魚の目は泪
 芭蕉
D
今日も又朝日を拝む石の上
 芭蕉
E
秣おふ人を枝折の夏野哉
 芭蕉
F
かさねとは八重撫子の名成べし
 曾良
G
夏山に足駄を拝む首途哉
 芭蕉
H
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
 芭蕉

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