一茶の交友


長野  ・ 千葉  ・ 茨城

長沼  ・ 柏原

上原文路  ・ 湯本希杖・其秋  ・ 宮本虎杖  ・ 如毛  ・ 独楽坊知洞
久保田春耕  ・ 可候  ・ 湖光  ・ 関之  ・ 文虎  ・ 竜卜

大綾

大綾は椎谷藩六川陣屋の椎谷藩士。

椎谷藩六川陣屋跡


文化10年(1813年)11月15日、一茶は六川に入る。翌16日、大綾がやってきた。

   十五 晴 六川ニ入

   十六 晴 旦雪 大綾入来

『七番日記』(文化10年11月)

同年閏11月23日、一茶は六川に入る。

   廿三 晴 六川ニ入 大綾在所越後国母去十七日ニ没

   悼

けふばかり別の寒さぞ越後山

『七番日記』(文化10年閏11月)

一茶の門人大綾の母への手向けの句であるようだ。

稲荷社(奥田神社)に一茶の句碑がある。

一茶の句碑


けふばかり別の寒さぞ越後山

大綾の句

五月雨の癖の付たる柳かな


枯尾花雀つる子の顔をうつ


山岸梅堂・梅塵

六代袋屋清左衛門梅堂

 家業のかたわら医者も務め、漢詩を学び俳諧も好む人であり、その息子梅塵も俳諧に通じていた。

「袋屋」は、味噌・醤油の醸造を営む商家として発展した。

 小林一茶が初めて「袋屋」を訪れたのは文政5年(1822年)ごろからと言われているそうだ。

文政7年(1824年)2月8日、一茶は中野に入る。

   八 晴 中野ニ入

   [十]八 晴 田中[ニ]入 北風

『文政句帖』(文政7年2月)

一茶は梅塵のもとで歌仙を巻いた。

陽炎やそばやが前の箸の山   一茶

三人乗の馬の春風   梅塵

『梅塵抄録本』

同年閏8月1日、上原文路宅で中風再発、言語障害に陥る。

   一 晴 不言病起

もどかしや雁自由に友よばる

『文政句帖』(文政7年閏8月)

梅堂・梅塵は一茶の病中を見舞い、歌仙を巻く。

   一茶宗匠の病快方を祈る

月の雲一枚紙をはぐ如く   一茶

あつらへ通り腹の減る秋   梅堂

漸寒(ややさむ)にぬくぬく普請むくろみて   梅堂

翌日(あす)は都え(へ)たつ宵の雨   茶

『茶翁聯句集』

梅堂の句

永き日のみゆる机のこり哉


安政2年(1855年)2月、梅塵は66歳で没。

梅塵の句

   老 懐

草萌もよそにのみ見てたつ日哉


白井一之は山岸梅塵の子。

嘉永5年(1852年)春、『おらが春』出板。久米逸淵序。富処西馬跋。

明治17年(1884年)、64歳で没。

平成8年4月、袋屋清左衛門邸袋屋美術館開館。

ふくろや


反古

善光寺には一茶の門人文路、反古等がいた。

 文化11年(1814年)6月26日、善光寺の文路宅を訪ねるが留守。反古宅に泊まる。28日に文路が帰ると、文路宅に泊まる。

廿六 晴 善光寺ニ入所文路川中嶋ニ入 呂調会 反故(古)
廿七 晴 一考会 反故(古)ニ泊
廿八 晴 文路皈 三好泊

『七番日記』(文化11年6月)

反古の句

梅の木に見違はなし朧月


早稲の香や流に赤き梅一葉


枇杷の葉の匂ひ淋しき扇かな


すやすやと若葉の下の楽寝哉


小山魯恭

倉田葛三の弟子。

 文政7年(1824年)5月23日、魯恭が一茶の郷里柏原をに訪れたことが記録されている。

   [廿]三 晴 申下刻大雷雨 富山雲布来 小諸魯恭来

『文政句帖』(文政7年5月)

 小山魯恭(1776〜1833)の句集に『ぬかつか集』がある。『ぬかつか集』は初編から五編まで刊行されている。

 文政8年(1825年)、『ぬかつか集』(初編)刊行。

去年直江の津に遊行(ゆぎょう)せし折から老人を訪(と)ひける時の卷なるを、表六句を爰(ここ)にあらはす

昼の蚊やだまりこくつて後から   一茶
 菖蒲の露をあびる旅笠   魯恭
ひよろ長き城下はづれに海みへて   一茶
 撞ききる鐘についと入る月   魯恭
汁なべにほつほつ黄菊むしり込(ころ)   一茶
 名もなき風の吹にふくあき   魯恭

『ぬかつか集』(初編)

 巻末に「ことし七月既望、夏のぬか塚山に上る」とあるそうだから、句会が行われたのは7月16日。

このページのトップに戻る

「旅のあれこれ」のトップページへ