一茶の交友

長野
・ 千葉
・ 茨城
古田月船
・ 岩橋一白
・ 鶴老
洞海舎凉谷
・ 筑波庵翠兄
馬泉
葛飾派の俳人。
明和期から素丸門にあって活躍し、寛政の初め布川に移る。
寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。柏原に帰るのに先立ち、29日馬橋から布川に向かい、馬泉亭に泊る。
布川 馬泉亭に泊る。題をさぐる。
浦々の浪よけ椿咲にけり
一茶が布川を訪れた最初の記録である。
寛政10年(1798年)3月3日、小林一茶は馬泉に『さらば笠』の送り状を書いている。
追々春色、日夜の御風流奉察候。しかれば此度めづらしからぬ事に候へども、『さらば笠』一がいしんじ候。御笑納可被下候。已上。
三月三日
苗代の雨を見て居る戸口哉
なの花に四ツのなる迄朝茶かな
花さくやあれが大和の小口哉
などゝくだらぬ事、御評可被下候。
一茶
馬泉大人
馬泉の句
鈴が森
風折々哀れを誘ふ虫の声
川崎
七夕の渡り初けり女夫(めをと)橋
大礒
地蔵でもどふやら凄し朧月
風も今朝ふた心なる餘寒かな
浮世では酔ふものなくて紅葉かな
蝉飛んで風の定る木の間哉
沢近嶺
天明8年(1788年)5月17日、取手宿内で食料雑貨を販売する商家に生まれる。本姓は谷沢。屋号は油屋。代々与兵衛を称していた。
旧取手宿本陣

文化5年(1808年)、江戸で国学者村田春海の弟子となる。後に取手宿にもどり、家業を営みながら、学問や和歌に励む。
文化11年(1814年)8月28日、一茶は守谷から布川に入る。
廿八 晴 布川ニ入
『七番日記』(文化11年8月)
9月1日、沢近嶺は取手から布川にやって来て、4日まで滞在。
一 晴 近嶺来
四 雨 近嶺皈
『七番日記』(文化11年9月)
文化12年(1815年)10月26日、一茶は高谷から布川に入り、近嶺に逢う。
28日、近嶺は取手に帰る。
| [廿]六晴 | 夜小雨 布川ニ入 逢近嶺
|
| 中山正中山法花経寺訪
|
|
| [廿]八 | 陰 又晴 近嶺皈
|
文化14年(1817年)8月26日、国学者高田与清は沢近嶺のことを書いている。
○取手のすくも遠からぬ間(ほど)なれば、吾友澤近嶺が家をとぶらはゞとおもひしかど、いそぐ道なればさてやみぬ。近嶺はくちおもしろき歌人にて、せうそこのたびごとにたよりうれしくまなこのごはるゝを、とはでしも過ぬるほいなきわざ也。彼きかばうらむべし。我もいとくやし。
高田与清は村田春海に国学を学ぶ。沢近嶺と同門である。
天保8年(1837年)の取手宿の大火事で、書きためていた原稿や収集した蔵書をすべて焼失。
唯一の著作『春夢独談』を執筆
天保9年(1838年)8月22日、51歳で没。
墓は念仏院にある。
近嶺の句
松風や花見る人の耳を吹
から鮭の師走がましき柱かな
竹の皮朝々人に落るなり
竹の皮朝々人におつるなり
このページのトップに戻る
「旅のあれこれ」のトップページへ
