高村光太郎智恵子チエコ〜年譜〜
  西暦セイレキ ツキ 出来事デキゴト
明治12年 1879年 12月 1日 荻原碌山、長野県南安曇郡東穂高村に生まれる。本名は守衛。
明治16年 1883年 3月 13日 高村光太郎、木彫家高村光雲の長男として、東京下谷西町に生まれる。
明治19年 1886年 ガツ 20日 高村智恵子(旧姓長沼)、造酒屋の長女として生まれる。
明治23年 1890年     光太郎、日暮里小学校に転校。
明治25年 1892年 11月   光太郎、本郷区駒込千駄木林町に転居。
明治34年 1901年     碌山、渡米。(22サイ
明治36年 1903年 4月   智恵子、日本女子大学校に入学。(18歳)
明治37年 1904年 ガツ   初めて赤城を訪れた。
    7月   赤城を再訪し、夏を通して50余日間滞在している。
    8月 2日 光太郎の案内で新詩社一行が赤城を訪れ、猪谷旅館に4泊した。
明治39年 1906年 2月 27日 光太郎、ニューヨークに着く。
明治40年 1907年     智恵子、太平洋画会研究所で学ぶ。
明治40年 1907年 6月 19日 光太郎はニューヨークを発ち、ロンドンに向かう。
    7月   碌山はロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。
明治43年 1910年 4月 20日 碌山、新宿中村屋で吐血。
      22日 ロクザン、永眠。満30歳5ヶ月。
明治44年 1911年 9月   『青鞜』創刊号発刊。表紙絵は長沼ちゑの作。
    11月 4日 上野精養軒で開かれた与謝野寛渡欧送別会に出席シュッセキ
明治45年 1912年 6月   光太郎が自分で設計したアトリエ完成。
大正元年     犬吠埼に遊び、智恵子と再会。
大正2年 1913年 8月   高村光太郎、「上高地温泉ホテル」に滞在タイザイ。長沼智恵子と落ち合う。
大正3年 1914年     光太郎(31サイ)、長沼智恵子(28サイ)と結婚。
大正7年 1918年 ガツ   智恵子チエコの父今朝吉の死によって、生家の繁栄にかげりが見え始める。
大正15年 1926年 12月   宮沢賢治は上京して、光太郎を訪ねる。
昭和2年 1927年 7月   光太郎と智恵子、草津クサツ温泉オンセンに十数日滞在、「望雲館」に宿泊。
昭和4年 1929年     智恵子チエコの一家は離散。
昭和6年 1931年     智恵子、精神分裂の兆候が現われだした。(45歳)
    8月   三陸海岸を旅し、気仙沼を出港、唐桑半島を回って北上。
昭和8年 1933年 5月   光太郎と智恵子、草津クサツ温泉オンセン「望雲館」に宿泊。
        智恵子には草津の湯がいいようだ。
    9月 1日 光太郎と智恵子、不動フドウ温泉に3泊。
        土湯で一番静かな涼しい家にいます。
        光太郎と智恵子は東北旅行の最後で塩の湯温泉「柏屋」に泊まった。
      21日 賢治は37歳の若さで亡くなる。
昭和10年 1935年 2月   南品川のゼームズ坂病院に入院。
昭和11年 1936年     雨ニモマケズ詩碑建立コンリュウ。高村光太郎の揮毫。
昭和13年 1938年 10月 5日 智恵子、52歳で亡くなる。
昭和20年 1945年 4月 13日 空襲により高村光太郎のアトリエが炎上。
    5月 15日 光太郎は宮沢賢治の弟である宮沢清六方へ疎開する。(62歳)
    8月 10日 宮沢家も戦災に遭う。
        光太郎は「高村山荘」で農耕しながら一人暮らしをハジめる。
昭和21年 1946年     雨ニモマケズ詩碑に「光太郎記」の4字を光太郎が自ら書き込む。
昭和27年 1952年     中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。
昭和28年 1953年 6月   乙女の像の原型完成。
    10月   光太郎コウタロウ、十和田湖畔の乙女の像除幕式典に参加。
昭和31年 1956トシ 4月 2日 光太郎コウタロウ、73歳で亡くなる。
平成ヘイセイ13ネン 2001年 6月 12日 宮沢清六さんは老衰のため97歳で亡くなった。
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