与謝野晶子ゆかりの地


米屋旅館

中禅寺湖展望台から中禅寺湖へ。

中禅寺湖で猫柳の花芽がふくらんでいた。


中禅寺湖の湖畔に「米屋旅館」があった。


中禅寺湖畔「米屋旅館」


 「米屋旅館」は大正11年10月29日、若山牧水が『みなかみ紀行』の後で泊まった宿である。

 「米屋旅館」のホームページに「大正時代には、与謝野晶子、鉄幹夫妻がご宿泊になり、ここで詠まれた歌が当館に残されています。」と書いてあった。

 昭和31年(1956年)、米屋旅館は火事で全焼。写真の建物は若山牧水、与謝野鉄幹、晶子夫妻が宿泊した当時のものではない。2004年5月「米屋旅館」は廃業。その建物も取り壊されてしまった。現在はレストラン「パティオ」だけが営業している。

 昭和初期に与謝野夫妻が宿泊した時、「米屋旅館」の主人に贈られた自筆掛軸も火事で焼失。親戚に贈られた2本の軸だけ残った。


   


身をしばし湖上の船に任せたりゆく方(かた)に山ゆく方(かた)に浪
   寛

われの船佛(ふつ)の大使(たいし)の水荘の前に及べるうす霧を分く
   晶子

晶子自身がつけたルビだそうだ。

解釈&鑑賞は与謝野晶子ネットをご覧下さい。

 与謝野晶子と鉄幹は、米屋旅館に昭和7年6月11日に泊まったと雑誌「冬柏」に記載されているそうだ。

戦前の米屋旅館@【与謝野晶子ネット提供】


幽邃なる嵐氣に包まれたる 日光中禅寺米屋旅館

戦前の米屋旅館A【与謝野晶子ネット提供】


 自分達夫婦は6月10日に日光に赴き、湯本の南阯キ館に一泊、翌日も中善寺の米屋旅館に一泊し帰ってきた。 山は若葉、杜鵑(ほととぎす)、河鹿の季節であり白嶺と前白嶺には残雪が望まれ、花は石楠、谷桃(やつもり)、あやめ、躑躅(つつじ)、紅色の残櫻のほか、湯本では艶麗草しら嶺葵その他の高山植物の花を初めて目にすることを得た。

中禅寺湖と日光白根山


 雨季のため小雨と霧の変化の急なことも、歌を詠む旅行に適していた。南阯キ館の主人夫婦は初面ながらも親切に待遇せられ、米屋旅館の主人も舊識として同じく歓待せられた。

「冬柏」編集後記

 「南阯キ館」は日光湯元温泉「南間(なんま)ホテル」ことだと思う。日光湯元の老舗旅館「南間ホテル」も平成15年6月19日、自己破産により営業停止。「南間ホテル」の跡地は日光湯元温泉「おおるり山荘」が平成16年11月10日にオープンした。

日光湯元温泉「おおるり山荘」


昭和10年(1935年)3月26日、鉄幹は肺炎で亡くなっている。

 昭和12年(1937年)10月27日、晶子は「米屋旅館」に泊まり、翌28日戦場ヶ原から湯滝へ。

 「米屋旅館の主人も舊識として同じく歓待せられた。」とあるから、大正時代に与謝野晶子、鉄幹夫妻が宿泊しているのかもしれないが、今となっては確かめようもない。

 後日、米屋旅館の親戚の方から「大正14年5月17〜19日の3日間、与謝野晶子夫妻が米屋旅館に宿泊している」と教えていただいた。

文化学院の生徒の写生旅行についていったようだ。

日光湯元温泉へ。

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