義経伝説の地
〜金売吉次の墓〜
白河には金売吉次の墓があったはずだ。
南湖公園のお蕎麦屋さんで聞くと、国道294号線沿いにあるとのこと。
国道294号(陸羽街道)を行くと、小さな神社があって「吉次兄弟の墓」と書いてあった。
八幡宮

八幡宮由緒
皮籠(かわご)村旧名葭野宿ト云ウ。八幡神ヲ祭ルハ天喜(てんぎ)年中(1053−1058)陸奥守源義家朝臣(1039−1106)下向ノ時、八幡大神大幡此処ニ建テ人馬ノ労ヲ少時休ムルニ、白鳩一双来リテ旗上ニ舞ケレバ、任国ニ入ルノ吉瑞ナリト木切草ヲ結テ神祭セシ給ウヨリ土人国司ノ仁恵ヲ仰ギ、社殿ヲ建テ永ニ鎮護ヲ祈ル。
年経テ治承年間(1177−1180)強賊藤沢太郎入(道)金賣吉次兄弟ヲ害シ分散セリ。其ノ包メル皮葛籠ヲ捨テ置ケルニ依リ皮籠村ト云。
今猶小金橋、小金田、金文田ノ字名ハ金銀配分セル処ナリト云。
棟札ノ由緒ヲ写ス
棟札(むなふだ)は棟上げの際、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを記して棟木に打ちつける札。棟木に直接書いたもの(棟木銘)もある。むねふだ。
八幡宮の脇の道を歩くと、金売吉次の墓があった。
金売吉次の墓

今朝降った雪に足跡がない。今日はまだ誰も訪れていないということだ。
(伝)金売吉次兄弟の墓
承安4年(1174年)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝承されています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の墓を弔い、その霊を近くの八幡神宮に合祀したと伝えられています。
石塔の石囲いは、元治(げんじ)元年(1864年)7月の建立です。
白河市教育委員会
「八幡宮由緒」と吉次兄弟が殺害された年が異なる。
吉次吉内の墓
源義経(1159−1189)は、牛若丸の頃、吉次によって鞍馬山から連れ出され、平泉の秀衡に預けられた恩義により、兄弟の最期を憐れみ、八幡神社にその霊を合祀した。
白河観光協会
吉次兄弟が殺害された年は「白河市教育委員会」と同じく承安4年(1174年)になっていた。
芭蕉は「関明神」から「白坂」へ。「金売吉次の墓」の手前で右に曲がり「籏宿」へ行く。「金売吉次の墓」は訪れていない。
関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶屋有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行。
『曽良随行日記』
栃木県下都賀郡壬生町にも「金売吉次の墓」があり、元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、芭蕉が訪れている。
壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。
『曽良随行日記』
白坂境明神へ。
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