良医金氏に案内せられて汐越の橋下より船を入て九十九森八十八潟を漕めくる
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明和元年(1764年)9月25日、砂岡雁宕は象潟を訪れている。
明和改元秋九月廿五日到象潟
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| 小鰒よる浪ふところや五湖の秋 | 武凌隠士
| 雁宕
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安永2年(1773年)9月4日、加舎白雄は象潟を訪れている。
高浪や象潟は虫の藻にすだく
象潟

安永6年(1777年)8月、蓑笠庵梨一は象潟を訪れる。
象潟はうらむに似たりと祖翁の妙詞に、此江の風情は尽たりといふべし。されどたまたま爰に眺望して、其句のなからんは、いと本意なき業なめりと、只空吟、折にふれたるかたちのみを題して
象潟や墨絵の中に花一本
| 梨一
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天明4年(1784年)9月25日、菅江真澄は小砂川に入って2泊し、27日から29日まで象潟に3泊している。
寛政元年(1789年)8月9日、小林一茶は象潟を訪れた。
一茶27歳の時の句である。
寛政3年(1791年)、吉川五朗は象潟を訪れ、句を詠んでいる。
象潟や森の流るゝ朝かすみ
享和3年(1803年)5月5日、岩間乙二は酒田の常世田長翠を訪ね、象潟に遊ぶ。
文化元年(1804年)6月4日(7月10日)、象潟地震で象潟は隆起し、今は舟を浮かべることは出来ない。
同日、常世田長翠は象潟で大地震に遭い、鶴岡に逃れる。
翌5日、小林一茶は田川で象潟地震を知る。
四日 晴 戌下刻地震
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五日 夜 白雨 六月四日出羽国由利郡地震ニヨリ込
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当時の通信事情で、そのようなことがありえたのだろうか。
世に名高き跡の。おのづからあれゆくは。あれゆくにつけてなつかし。この象瀉のあらひたるに。荒びたる自然をうしなひしよしは。鳴神の音にのみ聞つたへて。けふしたしく見ることを得たりまことさかしらに。利をさぶるものの一言より。瀉のかぎり田となりて。能因島からす島をはじめ。ありとある島の松も。むなしく早苗吹よのつねの風にかはり果ぬ。さるにても立去がたく。そこらさまよふうち。一村雨の降出て。たゝきさかたのと。ありしむかしのけしきに。かへりたる哀は秋のみにあらず。
明治26年(1893年)8月11日、正岡子規は象潟を訪れた。
十一日鹽越村を經。象潟は昔の姿にあらず。鹽越の松はいかゞしたりけんいたづらに過ぎて善くも究めず。金浦平澤を後にして徒歩に堪へねばしばし路傍の社殿を假りて眠る。覺めて又行くに今は苦しさに息をきらして木陰のみ戀(した)はし。
明治30年(1897年)10月18日、幸田露伴は象潟を訪れ「遊行雑記」を書いている。
明治35年(1902年)、三森幹雄は象潟で句を詠んでいる。
見れば見るほど象潟の夏寒し
明治36年(1903年)8月、田山花袋は象潟を訪れ、「羽後の海岸」を書いている。
明治40年(1907年)8月4日、河東碧梧桐は象潟を訪れた。
道にマイ瑰(カイ)の実の真赤になったのを摘んで、試にこれを口にしながら象潟に着いたのは日もすでに海に落ちて、暮色蒼然たる時であった。干満珠寺の山門をくぐった十歩ばかりに、撞きそめた鐘の音がゴーンと物静かな中に響く。なお近づくにつれて、鐘の余音が耳に澄み渡る木も石も見わかぬ寂然たる暗中に、詩興の湧くような思いをしておると、壷庭(こてい)の案内をするという僧の声がこの詩興を掃うて、我等を寺の庭に導いた。
「マイ瑰」はハマナスのこと。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、象潟を回顧している。
日本海の潮がせまい水口、汐越しと稱する處から出入する、底淺き入江、ぐるりと廻つて三里足らず、九十九の島あり、八十八の浦曲あり、島ごとに松生へ、松の下にねぶの木多く、夏となれば、かそけき紅白の花を着ける、其の島々の松と合歡の木は今もあるが、文化年間鳥海山噴火の餘勢で、地盤の隆起の爲に、入江の水は日本海へ放下されて、底の藻草も乾き、小魚共も途方に暮れたであらう、
大正11年(1922年)3月31日、竹久夢二は象潟を訪れた。
大正14年(1925年)8月24日、荻原井泉水は象潟を訪れ、「象潟のまぼろし」を書いている。
昭和18年(1943年)8月2日、小杉放庵は象潟を訪れた。
昭和22年(1947年)10月22日、斎藤茂吉は象潟を訪れ、歌を詠んでいる。
あかあかと鳥海山の火を吹きし享和元年われはおもほゆ
巌谷小波の句もある。