『奥の細道』

〜笠塚〜
東北自動車道鹿沼JCから国道121号で鹿沼に向かう。
元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月11日)、芭蕉は鹿沼に泊まった。
『曽良随行日記』に「昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。」とあるが、どこに泊まったのかは書いてない。鹿沼の西の寺といわれた曹洞禅寺の光太寺で一夜を過ごしたと伝えられているそうだ。
光太寺は「足利銀行手前の信号で左に折れる」とあるはずなのだが、「足利銀行」が見つからない。とりあえず東武日光線のガードを越え、八百屋さんで聞いて、やっとたどり着いた。この間、案内など1つもない。
曹洞禅寺光太寺

前夜から小雨が降り続いていた。江戸から古編み笠の雨漏りを心配した芭蕉は、寺で新しい笠に替え、日光に向かった。
それから5年後の元禄7年(1696年)10月12日、芭蕉は旅先の大坂で病み、51歳の生涯を閉じたのである。
時を経て「芭蕉死す」の噂を耳にした寺では、供養のために思い出の笠を取り出して塚を建てた。これが笠塚である。
本堂の左手に笠塚がある。

「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られている。
この碑は後代のもので、後方に自然石の碑がある。

塚を築いたころ建てられたものといわれているそうだ。
元文3年(1738年)、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、笠塚を見ている。
此所の西の方の山寺に。翁の笠塚あり。其角。嵐雪が印。百里が塚もあり。笠塚に到りて。
我も此の影に居るなり花の笠
「鐘つかぬ里は何をか春の暮」、「入相の鐘も聞えず春の暮」の句は光太寺の作品であるという。『俳諧書留』には「室の八嶋」と前書きがある。
絲遊に結つきたる煙哉
| 翁
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あなたふと木の下暗も日の光
| 翁
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入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)
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鐘つかぬ里は何をか春の暮
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入逢の鐘もきこえず春の暮
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「鐘つかぬ里は何をか春の暮」は『芭蕉句選拾遺』に「膳所へ行く人にとあり。」と前書きがある。
「入相の鐘も聞えず春の暮」は『奥の細道』旅の途中、高久の門人覚左衛門に与えた真蹟の色紙。『茂々代草』に高久青楓所蔵の芭蕉の遺墨が紹介されている。
能因法師の歌に「山里の春の夕ぐれ来てみれば入相の鐘に花ぞ散りけり」(『新古今和歌集』)がある。
光太寺は当時無住だったそうだ。
芭蕉が住職もいない寺に泊まったのだろうか。
県道14号鹿沼日光線で国道121号に出る。
交差点に足利銀行があった。
「足利銀行」の文字が街路樹に隠れて、国道121号からは見えない。
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