芭蕉の句碑


笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 竹駒神社から県道25号岩沼蔵王線を戻り、右折して県道39号仙台岩沼線に入る。


東北新幹線を越えると、愛島塩手字北野39に中将実方の墓がある。


藤原実方(?−998)は光源氏のモデルとも言われている。

小倉百人一首の歌

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

実方が清少納言に贈った歌だそうだ。

 長徳元年(995年)正月、実方は陸奥守となり、9月陸奥へ赴任。3年後の長徳4年(998年)11月13日、帰らぬ人となった。

みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき

藤原実方朝臣(中将)の墓


藤原実方の墓碑


よく見ると、「中将實方朝臣之墳」と書かれている。

 文治2年(1186年)の秋、西行法師は実方の墓を訪れた。

陸奥の國にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中將の御墓と申は是が事なりと申ければ、中將とは誰がことぞと、又問ひければ、實方の御事なりと申ける、いとかなしかりけり。さらぬだに物哀に覺えけるに霜枯れ枯れの薄、ほのぼの見えわたりて、のちに語らんも言葉なきやうにおぼえて

朽ちもせぬその名ばかりを留め置て枯野の薄形見にぞ見る


西行の歌碑


朽もせぬ其名ばかりをとゞめをきてかれのゝ薄かたみにぞみる

かたみのすすき


「かたみのすすき」に埋もれて松洞馬年の句碑「草鞋塚の碑」があるようだ。

笠島はあすの草鞋のぬき処

 文明19年(1487年)、道興准后は実方朝臣の墓を見て歌を詠んでいる。

けふの道に、実方朝臣の墳墓とて、しるしのかたち侍る。雨はふりきぬと詠じけるふるごとなど思ひ出でてよめる

   桜かり雨のふること思ひいててけふしもぬらすたひ衣かな


也鳧庵一艸は笠島を訪れて「かたみのすすき」を詠んでいる。

   みちのおく名取の里に名のみ
   残りし藤中将の墳にて
   西上人のかたみとそ見ると
   詠ける草のほとりに立よりて

たち葉折葉しるしの芒さみたるゝ


芭蕉の句碑


笠嶋はいづこさ月のぬかり道

この句は『猿蓑』にも収録されている。

『泊船集』には「笠島やいつこ五月のぬかり道」とある。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は武隈の松から実方中将の塚を訪れ、句を詠んでいる。

 岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐(おはし)テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。実方中将の塚アリ。五倫(輪)折崩て名のみばかり也。傍に中将の召れたる馬の塚有。

 西行 朽もせぬその名ばかりをとゞめ置てかれのゝすゝきかたみにぞ見る

   ○言の葉や茂りを分ヶて塚二つ


 延享4年(1747年)、武藤白尼は横田柳几と陸奥を行脚して笠島を訪れている。

笠島の道祖神にぬかつきて此たひ行脚の御礼を申奉る

幣にとる紅葉もいまた若みとり
   尼


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で実方の墓を訪れた。

   実方の墓にて

是非もなし木の葉に包む土饅頭


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で実方中将の墓を訪ねている。

筆捨塚、馬が墓、筐の薄は名にこそおへれ。あやしき農家の背を廻り、竹の茂み百歩余り葎かいなぐつて、藤中将の百墳を拝す。花と咲て一時をくねり、蝶と化して園にかへるも、その人其期の仇によれりとや。此公うつゝの境までも在し、雲井の上を恋つゝ世をなつかしうみはて給へば、切ッに其仇のなからましかば。噫々。

塚こゝにあるなしの日を君や嘸
暁台

 いくよふり行竹の五月雨
栄山


 明和8年(1771年)6月12日、諸九尼は実方中将の墓を訪ねている。

 十二日 笠嶋の道祖神にぬかづく。宮の奥なる実方中将の御墓所をたづね見るに、一村すゝき生茂りたる中に、苔むせるしるしあり、峯のあらし梢の蝉を(お)のづから哀を催す。


 安永2年(1773年)、加舎白雄は笠島を訪れた。

 藤中将の古墳は塩手の里といふにありて、箕輪笠島にならべり。かたみのすゝきはところどころにおのれと露しきりて、とぶらふ人もまれまれなるべし。

   艸の花都も秋よよしや君


 明治26年(1893年)7月27日、正岡子規は実方の墓を訪れた。

 田畦數町を隔てゝ鹽手町の山陰に墓所あり。村の童にしるべせられて行けば竹藪の中に柵もて廻らしたる一坪許りの地あれど石碑の殘缺だに見えず。唯一本の筍誤つて柵の中に生ひ出でたるが丈高く空を突きたるも中々に心ろある様なり。

 其側に西行の歌を刻みたる碑あり。枯野の薄かたみにぞ見ると詠みしはこゝなりとぞ。ひたすらに哀れに覺えければ我行脚の行末を祈りて 旅衣ひとへに我を護りたまへ。


秋保温泉へ。

「旅のあれこれ」のトップページへ