『奥の細道』

〜甲冑堂〜

国見町から国道4号で国見峠を越えると、宮城県。


馬牛沼を過ぎて旧道に入ると、田村神社がある。


祭神は坂上田村麻呂

 桓武天皇の延暦年間、坂上田村麻呂が夷酋を討ち平らげた恩徳を慕い、祠を建てゝまつったと言う。

田村神社の左手に甲冑堂がある。


 祭神は福島県飯坂大鳥城主佐藤荘司基治公の子継信・忠信兄弟の妻、楓・初音の二柱。

 文亀年間、佐藤左ヱ門亮信治が建立。二柱は源平合戦の時源義経の家来として活躍し戦死した継信・忠信兄弟の妻で、子に代り親につくした孝心を今の世に伝えている。古来より種々の文献に載録され、江戸元禄時代頃、人の鑑となるべき孝婦の像と全国に知れわたった。

明治8年6月下旬、
放火により焼失。

昭和14年12月3日、
再建落成。

 元禄2年(1689年)5月3日(新暦6月19日)、芭蕉は甲冑堂を過ぎって白石へ。

さい川ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコブシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

『曽良随行日記』

元禄9年(1696年)、天野桃隣は甲冑堂を訪れ、句を詠んでいる。

 少行て右の方に寺有、小高き所、堂一宇、次信・忠信両妻軍立(いくさだち)の姿にて相双びたり。外に本尊なし。

   ○軍めく二人の嫁や花あやめ


桃隣の句碑


いくさめく二人のよめやはなあやめ

昭和14年12月3日、甲冑堂の再建を記念して建立。

 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、甲冑堂を訪れている。

鐙坂。鎧碎(よろひこわし)。鐙摺。の石は。さい川の入口なり。道細く右は山にして。左に大石あり。一騎打の難所。實に鐙も摺る程なり。此所右の方に一宇有り。よりて見れば。佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり。如何なる故に此所に在るにや。殊に女の甲冑を帶したる姿。いと珍らし。古き像にて。彩色の剥げて。下地なる胡粉の白く見えたるは。

   卯の花や威し毛ゆゝし女武者

と云捨てさい川に到る。


甲冑堂の先が斎川宿。


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