『奥の細道』

瑠璃光山醫王寺〜

秋保温泉から高湯温泉に向かう途中、瑠璃光山醫王寺に立ち寄る。



「醫王密寺」と書いてあった。

真言宗豊山派の寺である。

謡曲「接待」と医王寺

 謡曲「接待」は、佐藤継信・忠信の遺族を中心とする忠孝の至情を描いた曲である。
 継信・忠信の母が山伏接待にことよせて落ち行く義経一行を待ち受けていると、さあらぬ態でここ館(寺)に立ち寄った主従12人を迎えた。
 初めは義経一行であることを隠したてていた弁慶も、母尼に見破られて名乗り合い、義経の身代わりとなって戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。

 一昨年医王寺に立ち寄った時は芭蕉の句碑を見ただけで立ち去ったが、今日は瑠璃光殿(宝物殿)を見る。

瑠璃光殿(宝物殿)に芭蕉像がある。


元禄2年(1689年)5月2日(新暦6月18日)、芭蕉は医王寺を訪れた。

 寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。 笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり
   正岡子規も『はて知らずの記』に「醫王寺といふ寺に義経辨慶の太刀笈などを藏すといふ。」と書いている。

源義経着用直垂(ひたたれ)断片


弁慶所用笈


 源義経着用直垂(ひたたれ)断片と弁慶所用笈はあったが、義経の太刀がない。

義経の太刀は終戦後占領軍に没収されたまま戻ってこないとのこと。

 佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。

『曽良随行日記』

 医王寺を訪れた芭蕉は本堂に入らず、佐藤基治夫妻とその子継信・忠信兄弟の墓所を訪れる。

参道の奥に薬師堂が見える。


薬師堂


薬師堂の奥に奉讃碑。

奉讃碑


奉讃碑の後ろに乙和の椿がある。

医王寺名木「乙和椿」の由来

 信夫荘子司佐藤基治公一族の暮域の西端にあって樹齢数百年つぼみが色づけば落ち一輪も花と咲かず悲史母情を知るつばき

咲かで落つ椿よ西の空かなし 黙翁

黙翁とは誰のことだか、よく分からない。

後日、「黙翁」の孫の方から書き込みを頂いた。

 「黙翁」の本名は沼田史雄。明治40年1月26日、福島県伊達郡に生まれる。曹洞宗大本山永年寺奏慧昭禅師より得度。摺上山神社他11社宮司。泰東書道院展院友で、工芸部に第1回より終戦まで直刀彫竹杖連続入選。昭和天皇を始め、多くの著名人に杖を製作。

 医王寺「咲かずの椿」句碑の他、全国各地に句碑建立。平泉中尊寺千手観音堂本尊仏拝刻(観音院)、全国各地に一葉観音様建立。小林栄述「野口英世の思い出」執筆、「姉の語る野口英世の生立」出版。1987年7月7日、没。

医王寺内門


内門の中に本堂があり、本堂の右に芭蕉の句碑がある。



笈も太刀もさつきに飾れ紙のぼり

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は医王寺を訪れている。

 一里行、左の方径より左葉野と云所、二里分入、瑠璃光山医王寺。宝物品々有、中に義経の笈、弁慶手跡大般若アリ。


 延享4年(1747年)、武藤白尼は横田柳几と陸奥を行脚し、医王寺を訪ねている。

佐場野の里医王寺をたつね判官殿のむかしをとふて宝物を拝むに安宅の関の有さまそまつ思はるゝ

爰にまた笈さがさはや土用干
   白尼


正岡子規は医王寺に行かなかった。

をとつひより心地例ならねば終に醫王寺にも行かず。


 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、医王寺を訪れた。

 飯坂から福島の方へ、電車路を少し行つて、右へ折れると、朝風の吹き通る赤松林、村になつて、行き留まつた處に、瑠璃光山醫王寺、處は信夫郡平野村、山門を入つて右に庫裏本堂、すぐに行つて大杉林の下に古い墓共、字はすべて剥落して見えず、正面に大いなるを佐藤勝信の墓とし、右に二つ並びたるを子供の嗣信忠信の墓とする。


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