小林一茶ゆかりの地

浅草本願寺
東京メトロ銀座線田原町を出ると、浅草本願寺がある。
浅草本願寺

冨嶽三十六景「東都浅草本願寺」

文化3年(1806年)3月4日、火災により焼失。
「寅年の大火」といわれる大火事である。
小林一茶は「寅年の大火」のことを書いている。
四日 晴 大南吹 巳刻芝田町より火出て浅草反甫迄焼る 五日巳刻ニ至ル
『文化句帖』(文化3年3月)
今泉恒丸は家を失い、佐原に移り住んだ。
正月青物町より火出たる時は、辛じて逃れて祝ひ、三月四日は芝の方より火起りて、浅草の草の青む辺迄、行程三里煙となりて、誠に災ひ地魚に及ぶ。
柳原にかゝれば、豊島町とやらんに出火ありしとて、人々かへる。僅咫尺の中にもかゝる変はあるなれ。彼の法師が明るを待て十寸穂(ますほ)のすゝき問ひに行けるも、ことは(わ)りなる哉といよいよいそぐ。御徒町を通る。爰(ここ)は三月四日の火にかゝりて、いまだむなしき地のみ多く、草花所得顔にひらく。
蕣(あさがお)の下谷せましと咲にけり

御徒町は7月になっても焼け跡のままだったようだ。
文化7年(1810年)、浅草本願寺再建。
十日 晴 折々小雨
けふ巳刻、東[本]願寺御柱立御規(ママ)式なりとて、老若男女群集して人に勝る桟敷とらんといどみあらそふ。漸々(やうやう)堂の片隅かりて蹲る。
柱三本に素木綿(しらゆふ)巻つけて、三所におのおの青紅白の大幣神々しく、黄紅のかゞみ餅をかざりて棟梁は烏帽子かり衣、其外素袍大紋きたる大工廿人ばかりも居並びつゝ大祓を唱へぬ。彼宗派は雑業とて忌む事也。其源としてかゝる祭するは深き謂(いはれ)あるなるべし。
『七番日記』(文化7年6月)
文化7年(1810年)11月16日、東本願寺上棟。
十六 晴 東本願寺上棟
やれ頼めやれ頼めとや棟上の大工の尻を拝みつる哉
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極楽も此通りとや山吹の花色衣きする銭かな
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十七 曇夜雨 随[斎]会
はつ雪やきのふと成し御上棟
『七番日記』(文化7年11月)
文化8年(1811年)10月28日、東本願寺御堂普請成就、遷仏供養。
廿八 晴 東本願寺入仏
『七番日記』(文化8年10月)
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