〜小林一茶ゆかりの地〜

一茶の母の家
柏原仁之倉に一茶の母の家があったというので、行ってみることにした。
小丸山公園から県道36号信濃信州新線で信越本線を越え、仁之倉の交差点を過ぎて左折する。
一茶の母の家跡はなかなか見つからない。
民家の前に一茶の句碑があった。

み佛や寝てござつても花と銭
出典は『八番日記』。文政2年、一茶57歳の句。
『おらが春』には「み佛や寐ておはしても花と錢」とある。
柏原には普通の民家に一茶の句碑がある。
誰かに聞いてみようと思っても、人がいない。鳥居川まで行って引き返すと、信濃町教育委員会の説明が見つかった。
一茶の母の家
俳人小林一茶は、1763年(宝暦13年)柏原宿の小林弥五兵衛と二之倉の宮沢くにの長男に生まれ、本名を弥太郎といいました。弥太郎は、当時の風習で母の実家で産湯につかったといわれ、1923年(大正12年)に建てられた胞衣(えな)塚があります。
「胞衣」は胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜など。後産(あとざん)。ほうい。胎衣。
母くには一茶が数え3歳のときになくなってしまい、一茶は15歳でふるさとを離れ、江戸に出て葛飾派の俳人になりました。30歳から6年余、俳句修行のため関西・四国・九州を廻りました。その後、再び江戸にもどり、夏目成美に師事し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けました。
亡母や海見る度に見る度に
『七番日記』(文化9年3月)
父の遺言による遺産相続で、弟や継母と12年にわたって争うようになったとき、一茶を助けたのが宮沢家の徳左衛門でした。徳左衛門は遺産の一部を預かり、小作地の管理や年貢の代納などを行って、一茶家のくらしを助けました。
文化6年(1809年)4月10日、一茶は善光寺から郷里の柏原に行かず、二之倉に入る。
同年5月7日、郷里の柏原に帰るのに先立って、二之倉に入る。
七[日] 雨 二ノ倉ニ入
『文化六年句日記』(5月)
文化11年(1814年)2月21日、一茶は生家を義弟弥兵衛と折半する。それに立ち会ったのは銀蔵と徳左ヱ門である。
廿一 晴 家取立合 銀蔵 徳左ヱ門
『七番日記』(文化11年2月)
同年4月11日、52歳で野尻村赤松の常田きくと結婚。徳左ヱ門が仲人である。
十一 晴 妻来 徳左ヱ門泊
『七番日記』(文化11年4月)
50歳で帰郷した一茶は、北信濃を中心に門人の俳句指導にあたり、自らも『七番日記』『おらが春』など多くの俳句を作りました。1827年(文政10年)、柏原宿の大火で類焼し、11月19日、焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。
一茶顕彰がさかんになった1923年(大正12年)、二之倉の有志にによって、東本願寺第23世大谷句仏上人の揮毫による町内で2番目に古い一茶句碑が建てられました。
大正6年(1917年)、荻原井泉水が一茶を研究、出版。それによって一茶が世に知られるようになった。
ともかくもあなた任せの年の暮
信濃町教育委員会
一茶の生涯が簡潔にまとめられていた。
一茶の句碑があった。

ともかくもあなた任せの年の暮
『おらが春』最後の句、一茶57歳の時である。
ちなみに『おらが春』最初の句は「目出度さもちう位也おらが春」。
信濃町で最初に建立された一茶の句碑は諏訪神社にある。文政12年(1829年)一茶三回忌に、弟弥兵衛や門人等によって柏原宿の入口に建立された。それ以来100年近く一茶は顧みられることはなかったわけである。
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