『芭蕉翁行状記』(路通編)

元禄8年(1695年)、刊。
路通は八十村氏。近江大津の人。元文3年(1738年)没。
芭蕉の略歴、最後の旅の模様、終焉、追憶などを記し、追善の連句や追悼の発句などを添えたもの。
五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく
麥の穂を便につかむわかれかな 翁
箱根の關越て
目にかゝる時やことさら五月富士
しどけなく道芝にやすらひて
どむみりとあふちや雨の花曇り
島田は、塚本氏杉本氏なといひて久縁音信馴し方あれはとて、おほつかなき五月の雲をはらす。
五月雨や雲吹落す大井川
名古屋にて
世を旅に代かく小田の行戻り
是より伊勢路にかゝり、古郷へ立寄、したしきかたへもいついつよりなつかしみ、會も數有、日數もへぬ。また江上木曾塚の庵は、わすれかたき所なりとて、宇治山田伏見の里をへて立いられける。膳所松本のあたりには、むつましき方あまたなれは、心よけにてとゝまり給へとも、六月の照日いとゝ照そひて、宵々の蚊の聲もしきりなるにあきて、嵯峨野の方に趣き、おかしき人の澁團(シブウチハ)など借て、逍遥せられける。
六月や嶺に雲置あらしやま
丹野か好めるにまかせて、骸骨の繪讃に骨相觀の心を前に書て、
稲妻や顔の所かすゝきの穂
故郷に立越。盆の間はなき人の名なとくり出し、風雅に心深き亡者、仙風、嵐蘭、コ齊、落梧、杜國など衣の袖もぬるゝばかりかぞへ給。其日先祖の廟にて
一家みな白髪に杖や墓参り
このたびは、何もあまたにてむかしより書捨の反古艸紙ともあらため、後の形見とにや、奥の細道白馬集と名づく。おなし氏のしたしき方に、あづけ置たまふ。
菊月のはしめつかた、難波より迎へしきりなれば、音信(ヲトヅレ)もだしがたしとて惟然、支考なとうちつれだちて、奈良の京へかゝり、爰にもひと夜あるじまうけしけり。
ひいとなく尻聲悲し夜の鹿
菊の香や奈良には古き佛達
とかくして浪華に入たまふ。その日は平野あたりよりほのくらくて、たどたどしくや侍りけむ
きくにいでゝ奈良と難波は薄月夜
浪花の人々師をむかゆるそのきは、いと珍しく、翁見むとて何くれかくれもてはやす程に、しつかなる席も侍らず、天王寺住吉の濱なと心にまかせてあそひ給ふ。
此秋はなむてとしよる雲に鳥
住吉にて
升買て分別かはる月見かな
八日の夜伽の人々に賀の句を望たまふ。翁も病中の吟あり
旅にやんで夢は枯野をかけまはる
時つもり日移れともたのもしげなく、翁も今はかゝる時ならんと、あとの事をも書置。日比とゞこほりある事ともむねはるゝばかり物がたりし偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰は東西のちまたさゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便わづらはしからし。乙州敬して約束たがはしなどうけ負ける。
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