江戸の俳人


仲祇徳 ・ 木啄庵茂蘭 ・ 松露庵烏明 ・ 六花庵官鼠
多少庵秋瓜 ・ 夏目成美 ・ 建部巣兆 ・ 井上春蟻
豊島久藏 ・ 大島対山 ・ 太白堂弧月

深川湖十

其角の門人。別号木者庵、永機、老鼠肝。

妻の花千は吏登の姉。

其角没後、その点印を受け継いだ。

元文3年(1738年)7月27日、62歳で没。

白河の専念寺に墓がある。

蜩や蝉の知らざる所まで

門人に和知風光がいる。

松島の瑞巌寺に永機の句碑がある。


ひとつづつ終に暮けり千松島

湖十の句

木者庵
駒方や舟に蚤飛ふ朝ほらけ
   老鼠

『宗祇戻』(風光撰)

ばせを忌や発句はあまたの念仏より


桜井吏登

 江戸の人。深川湖十の妻花千の弟。服部嵐雪の門人。二世雪中庵。別号斑象。

天和元年(1681年)、生まれる。

宝永4年(1707年)10月13日、嵐雪没。

享保17年(1732年)、二世雪中庵となる。

元文5年(1740年)3月、大島蓼太は桜井吏登の門下に入る。

寛延3年(1750年)、大島蓼太に雪中庵を譲る。

宝暦3年(1753年)、『宗祇戻』刊。風光自序。吏登、老鼠肝、跋。

宝暦5年(1755年)6月25日、75歳で没。

   悼吏登翁

六月を經帷子に名殘かな


墨田区の要津寺に嵐雪と二世雪中庵桜井吏登の供養塔がある。



   一周忌 畫像前

秋またぬ人のもぬけを泣日かな

   三廻忌

似た人もなき六月の紙子哉


吏登の句

雪中庵
なと春を惜しと思ひけん更衣
   吏登

『宗祇戻』(風光撰)

小宮山門瑟

佐久間柳居の門人。初号敲氷。柳居の別号を譲られ抱山宇門瑟と号した。

   門瑟入庵賀

持習ふ庵は手軽し萩と月


抱山宇門瑟は予か門に遊んて既に十とせけふ其俳莚を開事を悦ひ祝して

骨折もけふは干日やさらし布


延享5年(1748年)5月30日、佐久間柳居は63歳で没。

 明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は抱山宇門瑟を訪ねている。

 一日 松籟庵抱山宇の老人連を訪ひけるに、昔今の物語ねもごろに聞へ(え)られけるに、年月におこたりし事を愛なくぞ覚えぬ。


 安永9年(1780年)6月、佐久間柳居の三十三回忌追善集『晒布集』(門瑟編)。

 寛政元年(1789年)、抱山宇門瑟『柳居発句集』刊。

寛政2年(1790年)2月11日、70余で没。

門人に上矢敲氷、『猿橋小集』を編集した運水がいる。

門瑟の句

麦あをつ道々むせぶ別れかな


朝露に尻つほりたる鶉かな


こゝろ細き秋にも成ぬ三日の月


死ぬとてもおなし蓮や鰒の鍋


松原へ落こむ音や天の川


立琴や柱に一つはねて蝉


踏れても踏れてもたゝ清水かな


松風の落こむをとや天の河


木がくれて蟻に帯とく桜かな


はつ時雨青き松葉も散にけり


猿牽のやどに声ありけさの秋


雨そゝぐ花屋の門の柳かな


松風の吹こむ音や天の川


人しらぬ雪間や庵のいけ大根


桶あてゝ置て留守なり苔清水


夜雪庵普成

安永2年(1773年)4月12日、墨田区の要津寺に芭蕉の句碑を建立。


ふる池や蛙飛こむ水の音

『諸国翁墳記』に「古池塚 江戸深川アリ 雪中庵門人普成建」とある。

碑陰に夜雪庵普成の句が刻まれている。

白妙の雪より出たり後夜の月

亨和2年(1802年)2月25日、亀戸天神社に芭蕉の句碑を建立。

聖廟九百年御忌句碑


芭蕉句碑の背面に夜雪庵普成の句が刻まれている。

しら雪やをのつからなるひと夜松

普成の句

うつろ木に一日したむ雪解かな


槇原に追たてらるゝ鹿の子哉


   木曾にて

水音にふけて寐覚の夜寒かな


あかつきの槇のしつくや郭公


ぬれてゆく蓑にさはぐや雨の蠅


白露や月は檜原のうへながら


岩藤にむすひて女男の御山哉


松籟庵霜後

松籟庵大無の門人。

 明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は松籟庵霜後を訪ねている。

 一日 松籟庵抱山宇の老人連を訪ひけるに、昔今の物語ねもごろに聞へ(え)られけるに、年月におこたりし事を愛なくぞ覚えぬ。


 寛政元年(1789年)、『柳居発句集』抱山宇門瑟刊。松籟庵霜後跋。

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に寿松庵水香は芭蕉の句碑を建立。松籟庵霜後筆。75歳の時である。



名月に麓の霧や田のくもり

 『東都古墳志』によれば、長慶寺に「二世松籟庵霜後居士」の墓が建てられたとある。

霜後の句

草の中延ひ出て咲や百合の花


井村祖風

池鯉鮒蕉門の俳人。松露庵烏明の門人。水雲居。

 岡崎城の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で池鯉鮒宿の旅籠山吹屋の跡を継いだ。

 延享元年(1744年)、江戸に生まれる。

 天明8年(1788年)3月4日、祖風は伊賀市上野の愛染院に詣で、故郷塚を拝している。

 寛政5年(1793年)、芭蕉の句碑を建立。



不断堂川池鯉鮒の宿農木綿市

無量寿寺に「祖風翁之墓」がある。



祖風翁の句碑

かきつばた夏もむかしのなつならず

文化8年(1811年)、建立。

祖風の句

紫陽花のついに物うく散る日哉


   百とせの旅寢ハ遠く
      今降雨は其世もかわらめや

旅にしくれて寝覚ハ爰かしるし塚


金子直徳

寛保3年(1750年)、雑司が谷に生まれる。

二世白兎園広岡宗瑞の門弟。俳号は宗周。

 天明8年(1788年)8月28日、本納寺に三光天像を寄進。

 寛政4年(1792年)、『若葉の梢』上巻。

雑司ヶ谷目白高田の若葉かな

「白眼臺の記」

 寛政10年(1798年)12月、『若葉の梢』下巻。

 文化7年(1810年)、富士見茶屋に芭蕉の句碑を建立。



目にかゝる時や殊更五月富士

 文化8年(1811年)、『富士見茶屋』を刊行。

 文化9年(1812年)9月、清土鬼子母神に芭蕉の句碑を建立。



此道に出て凉しさよ松の月

文政7年(1824年)5月28日、75歳で永眠。

雑司ヶ谷本淨寺に墓がある。

本納寺に供養塔がある。

宗讃

江戸の人。去来庵と号す。

東都 


宗讃
   いせ屋清五郎隠居


 寛政3年(1791年)、秋田の吉川五明を訪れる。

 寛政6年(1794年)9月8日、鈴木道彦巣兆、宗讃を伴って碩布を訪ねた。

 尾花もあとへまねぐと見るに、いつか山根の里、毛呂の碩布が橿寮につきたるなり。洗足に客ぶりをこしらひ、押しならぶに、さらに髪仕たる子の買助てふがいで來て、こゝの家がり來る人は、誰々もみやげせよなどせむるも睦まじ。且つ句あり。はし書は長かりける、

   武蔵野に雁をいたはる此のやどり   巣兆

 あぢはへてきかす時がらなり。

『そゞろごと』

宗讃の句

人を見てまた眠りけり霜の


小鳥なく私雨や紫蘇畑


中川の関こそ霞めかもめなく


木地枕かふすぼる顔に梅の花


行秋や月の亀山あらし山


柳見に行人ならは簑かさん


いたつらに鐘きく庵や春のくれ


しのはすも氷(る)か宵の焼豆腐


鳥どもを吹尽したる水面哉


下り坂の柳みとふ(ママ)すむ月哉


ねむたげに葵かけたり児の皃


其堂

江戸馬喰町の人、松坂屋治良三良。帰童。白雄晩年の門人。

寛政10年(1798年)頃、倉田葛三に春秋庵を譲られる。

東吾妻町植栗の観音堂に芭蕉の句碑がある。


年々や桜をこやす花の塵

文化7年(1810年)7月、建立。春秋庵年々坊其堂書。

としの海鏡のごとくはれにけり   其堂

其堂の句

矢をおふて水鳥水をつかむかな


八重霜に小灯くらき戸口かな


杖きらんおもふあたりそ春日さす


秋ハたゝその日かきりの花もさく


秋立や雲の下行あさのくも


朝客や何はなくともうめの花


さむければ棚の菅蓑さへそよぐ


(を)しげなく若葉折けり魚屋(なや)の人


枯木折人にも匂ふさくらかな


桜戸にあがり勝手はなかりけり


梅くれし枝に労もひなびたり


ほたる呼艸植たれば蚊がこぞる


松井宗瑞

江戸の人。通称忠二郎。広岡宗瑞の門人。三代宗瑞。別号白兎園。

文化11年(1814年)2月15日、72歳で没。

宗瑞の句

山をぬくちから隱して春の水


佐原鞠塢

蕉雨・護物・可麿とともに道彦門の四天狗と言われた。

鞠塢   江戸新梅屋鋪 届処両国広小路かゝや吉右ヱ門 古人


向島百花園は鞠塢によって開設された。

向島百花園


文政9年(1826年)、『墨多川集』刊行。

天保2年(1831年)、70才で没。

鞠塢の句

川留の御(後)夜つめ引てほとゝぎす


梅笠

川村碩布門。

久米逸淵の後、春秋庵を嗣いだ。

安政4年(1857年)、『春秋稿』(九編)刊行。

文久3年(1863年)6月11日、没。

紫陽花やかわりかわりてもとのいろ

墨田区向島の長命寺に墓がある。

梅笠の句

来て見れば川のむかふや梅の花


   田家眺望

雉子なくやみどりをふくむ朝煙り


八巣謝徳

江戸日本橋の人。八巣謝堂の子で、八巣三世。

明治3年、『百句余集』編。

明治21年5月6日、没。

法名は「煙樹院巣菴謝徳居士」。

東京都文京区の徳源院に墓碑がある。

徳源院に謝徳の句碑もある。


蓮に乗る心の清し露の玉

明治21年、建立。

守村抱儀

 江戸浅草蔵前の札差守村次郎兵衛。俳諧を成田蒼キュウ(※キュウは虫+おつにょう)に、絵を酒井抱一に学ぶ。別号小青軒。真実庵。

抱儀 御蔵前旅駕丁森田町   森村次郎兵衛


 文化2年(1805年)、江戸に生まれる。

 文政2年(1819年)、小沢何丸は江戸に出て抱儀の援助で俳諧宗匠となる。

 文政10年(1827年)、『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)刊。小青軒抱儀序。

文久2年(1862年)1月16日、58歳で没。

明治4年(1871年)、『抱儀句集』。

抱儀の句

雨のさくらおもく冷たく散にけり


鴛の妻の思ひは闇の松風か


うたがはぬけしきや冬のすみだ川


木鋏の鳴らぬしめりや鳴いとゝ


起てからひとつふえけりかきつばた


木からしに啼々通る鴉哉


まぼろしやまだ見ぬ方の花を添


遠山弘湖

 文政元年(1818年)生まれ。名は忠吉。もと江戸の落語家。児玉逸淵の門人となる。

 文久3年(1863年)、梅笠の後春秋庵を嗣いだ。

 明治14年(1881年)7月12日、埼玉県比企郡熊井(鳩山町熊井)で客死。64歳の時である。

 明治20年(1887年)8月25日、弘湖七回忌で有柳は弘湖の句碑を建立。



梅千句之碑

玉垣の外面はうめのはやし哉

権少教正 三森幹雄篆額

七十八翁 春秋庵有柳書

有柳は弘湖の後春秋庵主となった。三森幹雄は有柳の後春秋庵を嗣ぐ。

弘湖の句

月と日に起ふしかはる巣鳥かな


身に覆ふかけや弥生も月のつゆ


夜雪庵金羅

江戸の人、湯島天神町に住む。本名は近藤栄二郎。

父三世金羅に俳諧を学ぶ。

 明治17年(1884年)5月、埼玉県寄居町の不動寺に芭蕉の句碑を建立。



春もやゝ気色とゝのふ月と梅

 明治18年(1885年)3月、荒井閑窓らが群馬県館林市に芭蕉の句碑を建立。



しばらくは花の色なる月夜かな

四世夜雪庵金羅、筆。

明治27年(1894年)10月3日、64歳で没。

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