与謝野晶子の歌碑


道玄坂

JR渋谷駅から道玄坂を上る。


道玄坂の路地を入ると、東京新詩社跡がある。

道玄坂の標識があった。


 江戸時代以来、和田義盛の後裔大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗の如く振舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。

渋谷区教育委員会

道玄坂上交番前の交差点に与謝野晶子の歌碑がある。


母遠うて瞳したしき西の山相模か知らず雨雲かヽる

渋谷区教育委員会の解説が書いてあった。

 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902年)4月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。

 晶子は前年に郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集『みだれ髪』も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって身心の負担は思いもよらず大きなものでした。

 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。

 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端をこの1首の短歌は語っているのです。

 なお、この短歌に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。

渋谷区教育委員会

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