芭蕉ゆかりの俳人

谷木因

名を正保、九太夫と称した。別号白桜下。北村季吟の門人。芭蕉と同門である。

 正保3年(1646年)、岐阜大垣の廻船問屋に生まれる。

 貞亨元年(1684年)8月、芭蕉は「野ざらし紀行」の旅に出る。大垣で木因亭に泊まった。

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

 貞享元年(1684年)10月、芭蕉は木因と桑名本統寺三世の大谷琢恵を訪れ、翌朝浜の地蔵に遊ぶ。



海上に遊ぶ日は、手づから蛤をひろふてしら魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す。

雪薄し白魚しろき事一寸
   芭蕉翁

白うをに身を驚な若翁
   木因

『桜下文集』(句商人)

 貞亨3年(1686年)閏3月14日、大淀三千風は京を出て東山道に赴き、美濃の大垣へ。

○かくてみのゝ大垣俳人のがりまかでしに。いせ櫻にときゝて。せうぞこしてをき侍れは。明の春脇句にまた發句そへてをくられし。


 元禄2年(1689年)8月21日、芭蕉は大垣に到着。谷木因の別宅に泊まって句を詠んだという。



   木因何某隠居をとふ

隠家や菊と月とに田三反

 9月6日、芭蕉は伊勢の遷宮を拝みに大垣から舟で二見に向かう。

住吉燈台の下に芭蕉送別連句塚がある。


木因舟に而送り如行其外連中
舟に乗りて三里ばかりしたひ候

秋の暮行先々ハ苫屋哉
   木因
萩にねようか荻にねようか
   はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立給へ
   如行
蛤のふたみへ別行秋そ
   愚句

先如此に候以上   はせを

芭蕉を見送る木因像


元禄5年以降木因亭で詠まれたとされる句がある。

  竹 木因亭

降ずとも竹植る日は蓑と笠

是は五月の節をいへるにや、いと珍し。

『笈日記』(大垣部)

 元禄6年(1693年)1月20日、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡に「春もやや気色ととのふ月と梅」の句がある。

 元禄16年(1703年)10月、岩田涼菟は谷木因を訪れてしばらく滞在している。

   撰集の沙汰有てしはらく白櫻下に足をとゝめ侍るに
   名古屋の人々に招れてほし崎呼つきの濱一見して
   鳴海知足亭に遊ふ

火燵から友よひつきの濱近し
   涼菟


享保10年(1725年)9月30日、80歳で没。

大垣市船町の正覚寺に墓がある。

岐阜県大垣市の史跡奥の細道むすびの地」に木因の句碑がある。



惜ひひげ剃たり窓に夏木立   白桜下木因

「木因俳句道標」もある。


南いせくわなへ十りざいがうみち

高橋の欄干に木因の句がパネルに刻まれている。


矢張召せ此処ハ伊吹の吹すかし

木因の句

白菊のおもては白しはつ時雨


裏散つ表をちりつもみち哉


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