〜浅間山噴火〜

天明3年(1783年)7月8日、浅間山大噴火。

浅間山


 例幣使街道の五料関所全部が泥で埋り、建物の屋根だけが見えるだけであったそうだ。

磯部温泉の由来

 天明3年7月の浅間山の大噴火の折に、大きな地鳴りがしたかと思うと、数匁の高さに鉱泉を吹き上げたのである。これが「磯部鉱泉」の始まりであり、以後200余年、日本有数なる炭酸含有食塩泉として、現在も湧出し続けている。

 天明3年(1783年)8月1日、加舎白雄呉水を同伴して小河原雨塘を訪問。浅間山の噴火のことを書いている

 八月朔、五嶺観に酒たふべつゝ遊ぶに此ほどの風雨門外のわたつみに絶て芙峰はほの白く筑波山此(?)原晴たり。あとの月なりけり、しなのゝ国の山つなみあはたゞしく、かみつけにいたりて人および牛馬の命をさへかく。世の中のさはがしかりしもおのづからわするゝばかりに

   浅間山のいかりたえてんたのむ哉

 翌年、白雄は兄吉重の葬儀のため上田へ向かう途中で、浅間山の麓を通りがかる。

浅間山つなみせしあくる年、その麓を過るとて。

砂ふるへあさまの砂を麦うづら


天明4年(1784年)、赤城山大鳥居が建設された。

赤城山大鳥居


高さ21.3m。昭和43年5月、建設。

 寛政3年(1791年)、小林一茶は浅間山噴火について書いている。

 過し天明三年六月廿七日より、山はごろごろと鳴り、地はゆらゆらとうごきて、日をふれども止まず。 人々は薄き氷をふむに等しく、嵐の梢に住がごとく、世や減(滅)すらん、天[や落]ぬらんと、さらに活る心ちも□□、さればとて、退くべき所もなく、□□の朝日を希ひ、蜻蛉の夕[べを]待思ひして、最期の支度より外はなかりけり。 然るに、七月八日申の刻ばかりに、一烟怒ッて人にまとひ、猛火天を焦し、大石民屋に落て、身をうごかすにたよりなく、熱湯大河となりて、石は燃ながら流、其湯上野吾妻郡にあふれ入て、里々村々、神社仏閣も是がために亡び、比目連理ちとせのちぎりも、たゞ一時の淡(泡)と消え、朝夕神とあがめし主人も、累年杖と頼みし奴僕も、救ふによくなく、生ながら長の別れとなりぬ。 或は虚しき乳房にとりつき流るゝも有、あるは財布かゝへて溺も有。人に馬に皆利根川の藻屑と漂ふ。殺(刹)利も首陀(すだ)もかはらぬといふ奈落の底のありさま、目前に見んとは。稀々生残りて□□も、終に孤となりてかなしむ。今物がたりに聞てさへ□□□□□□□□□□、まして其時其身においてをや。

軽井沢に舎る。


 伊勢崎市長沼町の浅間山には浅間山大噴火の流死者を供養した川流れ供養塔も建っているそうだ。

浅間山


 浅間山大爆発の折、多数の人命が失われたため、万霊供養のため百体観音堂が建立された。

百体観音堂


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