三州の俳人
五束斎木朶 ・ 平山梅人 ・ 鶴田卓池

米林下才二
国府の俳人小沢才二。
寛保3年(1743年)10月、芭蕉の五十回忌で芭蕉の句碑を建立。

かけろふの我が肩に立紙子哉
明和3年(1766年)、鳳来寺に芭蕉の句碑を建立。

こからしに岩吹きとかる杉間哉
明和8年(1771年)4月12日、諸九尼は国府の才二を訪ねている。
十二日 国府の才二老人をたづねけるに、翌ハ鳳来寺へともなひ侍んといふにうれしく、こよひは此亭にとまる。
才二の句
古池の水こそかれね手向草
厨から覗ける雛の内裡(裏)かな
はつ鰹すつしりおもし古布子
白梅下路喬
通称家田与八郎。杜国の家僕家田与八郎の孫。
享保8年(1723年)、保美村に生まれる。
延享元年(1744年)、杜国没後54年に墓碑を建立。
寛政元年(1789年)1月24日、66歳で没。
門下に畠村の原子蔵・良瑾兄弟、亀山の井本免孔・為蝶兄弟がいた。
寛政元年(1789年)、杜国の百回忌に『十かへりの花』(子蔵編)刊行。
路喬の句
十かえりの花は淋しし塚の松
紙屑もとりあけられて土用干
山を染て後には河の紅葉かな
植田古帆
吉田札木町の富商植田七三郎。一蓬舎。高須麦雪の二男である。
明和6年(1769年)4月、植田古帆、大木巴牛は聖眼寺に松葉塚を再建。
再建松葉塚

芭 蕉 翁
ごを燒て手拭あふる寒さ哉
寛政5年(1793年)、『松葉塚』(木朶編)刊。古帆序。
古帆の句
手間取て春におくるゝほたん哉
おし鳥やかはる淵瀬に住ミなから
霊山の春めくり来て此仏
立茶売盃に散けり松の花
四五輪の夫もさかりよ石蕗の花
三秀亭李喬
岡崎城主本多中務大輔忠良の男忠寛。松露庵烏明に俳諧を学ぶ。母は家人柳沢氏。俳名春望亭柳波女。雪中庵蓼太に師事。
寛延2年(1749年)、下総古河城内に生まれる。幼名弁之助。初めの名は忠倚。
寛延4年(1751年)7月15日、忠良は62歳で死去。母子ともに江戸の藩邸に移る。
安永7年(1778年)、母を伴い岡崎に赴く。
寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に岡崎伝馬町の十王堂に芭蕉の句碑を建立。記念集『旅の日数』(李喬編)刊。

都出て神も旅寝の日数哉
文化元年(1804年)、江戸に帰る。
文化5年(1808年)、母柳波女没。
文化8年(1811年)、江戸森下の下屋敷で没。63歳。
松兄
名古屋正覚寺の住職。加藤暁台、井上士朗の門人。
享和元年(1801年)2月、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ赴く。帰路は江戸から信州へ旅をする。『鶴芝』。
文化4年(1807年)7月25日、41歳で没。
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