一茶と名月


文化元年(1804年)

文化元年(1804年)の8月15日は、雨。

十五日 雨

名月や雨なく見ゆるよ所(そ)の空

『文化句帖』(文化元年8月)

文化2年(1805年)

文化2年(1805年)8月15日、曇のち雨。

十五日 酉ノ刻陰る 戌刻雨

十五夜や田を三巡の神の雨

『文化句帖』(文化2年8月)

三囲神社


其角「雨乞の碑」


夕立や田を見めぐりの神ならば

『五元集』

小林一茶の句に「苗代や田をみ廻りの番太郎」がある。

苗代や田をみ廻りの番太郎

『七番日記』(文化15年2月)

閏8月15日も雨。

十五日 雨

十五夜の二度目も雨か角田川

『文化句帖』(文化2年閏8月)

布川で詠んだ句である。

文化6年(1809年)

貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は名古屋を出発して『更科紀行』の旅に出る。

8月15日、芭蕉は姨捨山の月を見て句を詠んだ。

芭蕉翁面影塚


おもかげや姨ひとりなく月の友

芭蕉が訪れてから121年後、文化6年(1809年)8月15日、小林一茶は姨捨山に登る。

 久しく願ひけるに、北国日和定めなくて、おもひはたさざるに、今年文化六年八月十五日、同行二人姨捨山に登る事を得たり。

けふといふ今日名月の御側かな


文化7年(1810年)

文化7年(1810年)8月15日は終日雨。

十五 終日雨

名月や旅根生(性)の萩すゝき

『七番日記』(文化7年8月)

文化10年(1813年)

 文化10年(1813年)6月18日、一茶は善光寺桂好亭で癰(よう)を病み、75日間療養のために桂好亭に滞在。

十八 桂好亭ニ入 仝礼踊 去十五日癰兆シ今日甚

『七番日記』(文化10年6月)

名月や寝ながらお(を)がむ体たらく

『七番日記』(文化10年8月)

 げにげに此書に明かせる通りなりし物を、前にかゝる事夢にもしらば、はからふべき術あるべかりしを、医師(くすし)ならぬ身のつたなさは、たゞそれなりにうち捨おける物から、病は思ひのまゝにはびこりて、つひに癰にせいせられて、長[の]月日をくるしみにおくりぬ。

名月や寝ながらお(を)がむ体たらく


文化11年(1814年)

十四 晴 本行寺

十五 晴 仝所ニ入

木母寺は吐反(反吐)だらけ也けふの月

『七番日記』(文化11年8月)

木母寺ではなく、本行寺で詠んだ句であろう。

月見寺(本行寺)


文化13年(1816年)

文化13年(1816年)8月15日、一茶は夫婦で月見をする。

[十]五 婦夫月見

漂泊四十年

ふしぎ也生た家でけふの月

『七番日記』(文化13年8月)

一茶が一人江戸に出たのは、安永6年(1777年)春のことである。

文政2年(1819年)

文化13年(1816年)8月15日、一茶は高山村の稲長に入る。

晴 稲長ニ入

『八番日記』(文政2年8月)

稲長は梨本義助信治。

十五夜は、高井野梨本氏にありて、

古郷の留守居も一人月見かな   一茶


この日は皆既月食

月蝕皆既亥七刻右方ヨリ欠、子六刻甚ク、丑ノ五刻左終。

人数は月より先へ欠にけり
   一茶

人の世は月もなやませ給ひけり
   ゝ


文政4年(1821年)

千曲川万葉公園に小林一茶の句碑がある。

小林一茶の句碑


姨捨などとは老足むづかしく

有合(ありあい)の山ですますやけふの月

梅塵本八番日記』(文政4年)

一茶59歳の句。

「有合(ありあい)の山」は、有り合わせの山。

文政7年(1824年)

[十]五 風雨

十五夜に姨捨山の雨見哉

『文政句帖』(文政7年8月)

姨捨山に出掛けたわけではなく、柏原で詠んだ句である。

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