一茶の交友

小林竹阿
・ 溝口素丸
・ 加藤野逸
・ 森田元夢
・ 夏目成美
長野
・ 千葉
・ 茨城
大島完来
・ 桜井蕉雨
・ 建部巣兆
・ 鈴木道彦
・ 田川鳳朗
松井
・ 一瓢
・ 竹里
・ 車両
・ 鷺白
・ 戸谷双烏
・ 乙二
豊島久藏
曇華齊石漱
野逸の兄。素丸の門人で、曇華齊を継いだ。
石漱の句
摘ほどはなぐさみ蒔の若葉哉
わけもなき隠者隙なうて春くれぬ
天地庵我泉
高畑善次郎。素丸の門人で、天地庵を継いだ。
文化4年(1807年)、没。
関根白芹
江戸日本橋馬喰町の旅籠屋。関根昭房。
安永6年(1777年)、素丸に入門。
享和2年(1802年)、野逸に其日庵を譲られ五世となる。
文化2年(1805年)1月21日、一茶は其日庵の句会に出席。
廿一日 晴 其日庵会出席
『文化句帖』(文化2年正月)
一日 曇 夜酉下刻雨 其日初会 其明泊
『文化句帖』(文化4年2月)
『葛飾蕉門文脈系図』に「文化年中一派の規矩を過つによつて、白芹翁永く風交を絶す。奥羽紀行あり。」とある。
文化14年(1817年)10月21日、没。享年62歳。
文化14年(1817年)10月、高梨孫七は芭蕉と素堂の句碑を建立。五世其日庵白芹書。

梅可香耳能つ登日濃出る山路か南
| はせを
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(梅が香にのつと日の出る山路かな)
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日能廻累世界を梅のにほひか南
| 素堂
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(日の廻る世界を梅の尓本ひか南)
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白芹の句
一峨
江戸浅草の人。根本彦兵衛。別号竹堂。路齋。
安永初年、今日庵元夢に師事。
文化9年(1812年)、森田元夢の十三回忌に今日庵を再興。記念集に『なにぶくろ』を刊行。
同年8月27日、一茶は一峨の今日庵で甲州の一作、京の素玩に逢う。
廿七 晴 今日菴ニシテ甲州一作京素玩ニ逢
『七番日記』(文化9年8月)
一作は甲斐の豪農河野徳兵衛。井々橋と号す。
素玩は若狭の人、三木氏。是非素玩。闌更門。
文化10年(1813年)、高藏寺の俳僧白老は芭蕉句碑建立記念句集『世美冢』版行。随斎成美序。今日庵一蛾跋。
文化13年(1816年)、蟹殿洞々全国行脚の記念集『的申集』。随斎成美序。路齋一峨校。
文化14年(1817年)6月27日に一茶は江戸を立ち、7月4日、一茶は故郷の柏原に帰る。
以後、江戸に出ることはなかった。
20日、一茶は江戸に手紙を出す。
廿 旦雨 陰 申刻雨 妻赤川ニ入 以小玉団七出書 太キョウ 鶯笠 寿翁 陶里 一峨 久藏 車両
文政9年(1826年)3月29日、千葉県市原で一峨客死。
一峨の句
時雨たらしぐれた儘よ丹波山
雨風の杖の先也秋の山
名月やこよひもこちの榎から
梓にもかゝるべらなり雨の鴫
人住ぬ嶋もおくあり昏の海
菰槌に永き日脚のかゝりけり
ぬる蝶や舞ふ蝶や野のこほれ銭
十月十二日
わが宿は紙衣の音を奉る
棚一ッ心で釣るつてふゆ籠り
一作
甲斐の豪農河野徳兵衛。井々橋と号す。
文化9年(1812年)、一茶は一峨の今日庵で甲州の一作、京の素玩に逢う。
廿七 晴 今日菴ニシテ甲州一作京素玩ニ逢
『七番日記』(文化9年8月)
一作の句
識の馬士どのや草のはな
炉を塞ぐ心誘ひぬ縁の先
夕案山子我にしばしのあるじせよ
きぬきぬや蚊屋つり草も起直る
心可
享和4年(1804年)2月9日、小林一茶は王子稲荷神社を訪れた。
心可同参二王子稲荷一
東都のうしとらにあたりて、王子いなりとてかいわいこぞりて尊《ふと》める神ありける。けふ梅隣とおなじくかしこに赴く。我わかゝりし時ははにふの小屋のみにして、たまたま老婆の茶を売るありけりしが、年ふりことかはりて、上久たる流れは魚とばしりに濁、鉦がなるかやの臼引唄は糸竹の声変じて、只松風うぐひすのみ昔にかはらざりけり。
王子稲荷神社

「我わかゝりし時は」とあるが、当時一茶は42歳。若くはなかった。「はにふの小屋」は、小さくそまつな小屋。「とばしり」は、しぶき。飛沫。
蒲公[英](たんぽぽ)に飛くらしたる小川哉
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陽炎(かげろふ)によしある人の素足かな
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2月11日、改元。
「よしある人」は、何かわけのありそうな人。
文化元年(1804年)12月22日、心可より餅が配られる。
廿二日 雨 心可ヨリ餅配
年の市何しに出たと人のいふ
『文化句帖』(文化元年12月)
文化2年(1805年)元旦、小林一茶は心可と佃島の住吉神社に初日の出を見に行った。