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●『残酷な神が支配する』萩尾望都  小学館プチフラワーコミックス
 『残酷な神が支配する』の既刊の15巻分を読んだ。さすがに読み応えがあった。ただでさえ、15冊は長いのに、その1冊ずつの密度がまた濃い。ミステリーさながらの伏線。息詰まる展開の連続。これだけの長さにわたって、これだけのクオリティを、よくぞ維持してこられたものだと思う。その執念に、慄然とする。

 この物語のメインテーマは、もちろんジェルミとイアンの魂の彷徨。傷つけられた魂の死と、おそらくは再生であろう。そして、それを縦糸とするならば、横糸となるのは、萩尾望都がデビュー以来、30余年に渡って描き続けてきた、あらゆる世界である。それらが1つ1つ、丹念に縒り合わされ、織り込まれていく様子は、あたかも、壮大なタペストリーが織り上げられていくよう。おそらく、この作品は、現時点での萩尾望都の集大成であるまいかと思った。そのことについて、しばし思いつくままに述べてみたいと思う。


1.母なるもの
 『残酷…』において、最も論じ甲斐がありそうな「母」と言えば、もちろんジェルミの母、サンドラであろう。彼女の描かれ方はすごい。この壮大な悲劇における、ほとんど諸悪の根源のような役回りとなっている。


●抑圧者
 80年代後半から、萩尾作品において、子供にとっての抑圧者である母親が、頻繁に登場する。愛していると子供に言いながら、子供のためという美名の裏で、我が子を抑圧し続ける母親たち。萩尾望都は作品中で、そのエグさ、胡散臭さを、これでもかと描くことによって、母性なるものを盲目的に崇めてきた「母性神話」を、強烈に否定してのけたのであった。

 その代表作は、何と言っても『イグアナの娘』であろう。ただ、『イグアナの娘』の主人公の母は、どちらかというと、『残酷…』に登場するもう一人の母、ナディアとマージョリーの母のクレアに近いような気がする。

 また、『メッシュ』などでも、母子、父子の葛藤はあちこちに顔を出す。特に「シュールな愛のリアルな死」では、我が子を決して息子と認めようとしない(あくまでも娘だと言い張る)ぷっつんな母親が登場した。ただし、このかーちゃんが、なぜここまでかたくなにぷっつんしているのか、などについては、物語中では解き明かされないままである。しこりはついに、しこりのまま、終わってしまった。

 これらの母親像は、萩尾望都の現実の母子関係におけるトラウマが最も色濃く出ているところであり、正直、見ている方がつらかった。一方、『残酷…』に登場する、母親たちは、歪んではいても、まだ、物語の必然の範囲に収まってくれているように思う。既に、母親という偶像を繰り返し破壊してきたことによって、作者個人の恨みつらみは、ある程度、解消されたのだろうか。


●恋多き母
 サンドラの原型は、より過去の作品にもありそうである。『かわいそうなママ』で恋人に去られて、ただ泣いていた母。『トーマの心臓』の、エーリクの恋多き母、マリエ。特に、マリエは自動車事故死して、車と一緒に燃えている。このあたりは、なかなか暗示的だと思う。


●夢見る佳人
 母ではないが、『ポーシリーズ』「はるかな国の花や小鳥」に登場する女性、エルゼリにも触れておこう。彼女は夢見る人であった。現実に背を向け、自分を幸福にしてくれる夢の国に居続けようとする。彼女がそれによって誰かを不幸にしたわけではないのであるが、もし、あのまま母になったとしたら、確実にサンドラタイプになったと思われる人である。注目すべきは、彼女に対するエドガーの態度である。時に彼女に目を覚ませと言い、時に彼女の夢を守ろうとし、揺れ動いていた。それは作者自身の逡巡であったのかもしれない。


●生む性
 その一方で、萩尾作品には、母性による魂の救済劇も、また多く描かれてきた。その典型的な例が『スターレッド』のラストで、セイをに再び生命を与えたヨダカであろうか。あるいは『マージナル』のキラも、このタイプの、母性を担う存在のようである。『スターレッド』では、あまつさえ「子供を胎内に宿す母親のみが、真に愛し許すことができる」という意味の、母性崇拝ともとれるセリフが登場する。
 生命を宿す崇高な器としての母。萩尾望都は今でもそれを描くことができるのだろうか。すべての偶像を破壊し、幻想をはぎ取ったあとで、母なる存在は、どこかにたどりつくのだろうか。


●関連図書
 最後に参考として、萩尾望都に通じる「母と娘」の確執を描いていて、おもしろかったものを挙げておこう。母もすごいが、娘もようやる。他人事なら笑える世界です。

  一般向け  :『冴子の母子草』氷室冴子(集英社文庫)
  超マニア向け:『母の発達』  笙野頼子(河出文庫)


 2.ふたご
 双生児は、少女マンガによく登場するアイテムである。もちろん、萩尾作品にもデビュー作『ルルとミミ』以来、あちこちに登場する。しかし、時代が下るにつれて、双生児の扱いは、微妙に変わってくる。はじめは、同じ顔をした子供が2人いると楽しいというレベルであった双生児は、次第に、分かちがたい絆で結ばれた者、1つの運命を分け合い、奪い合う者としての性格を帯び始める。

 そのテーマは、『セーラヒルの聖夜』『アロイス』ときて、『半神』で、ほぼ完成された。そして『残酷…』において再び、それは、エリックとバレンタインという双子の姉弟に、委ねられる。

 この2人の関係は、15巻で、バレンタインがジェルミに宛てた手紙の中で、言い尽くされているように思う。タブーを冒して愛し合った双子の罪は、それが罪であることを知っていた1人が引き受ける。残る1人は無垢であり続け、その片割れのための神となり、その罪に赦しを与える。はからずもイアンが言ったように、不条理で不公平な関係。しかし、それもまた、決して明快に割り切ることなどできない、人間存在の1つのあり方であるのだろう。


 他にも、双子の相克を描いた物語には、次のようなものがあった。まこと、少女マンガや少女小説においては、双生児は1大テーマであったのだなあ。
 
●関連図書
 『CIPHER』成田美名子(白泉社)
 『デッド・エンド』秋里和国(小学館)
 『ジュリエットの卵』吉野朔美(集英社)
 『ブルー・ブラッド』須賀しのぶ(コバルト文庫)
 『ビリーの森ジョディの樹』三原順(主婦と生活社)

 ちなみに、『ビリーの森ジョディの樹』に登場する2人は双生児ではないが、お互いの持てる幸福を奪い合うべく生まれついた、運命の双子とも言うべき関係にある。三原順の未完の絶筆であるが、そうした関係が、背筋が寒くなるような緊迫感でもって描かれている。これもまた、1つの到達点であったかも知れない。


 3.心理学
●精神分析
 それは、『城』から始まった。80年代に描かれた、「サイコもの」とも言うべき一連の萩尾作品のことである。それは、フロイドらによって提唱された精神分析理論をモチーフにして、人の無意識による防衛メカニズムを取り上げていた。

 自分に都合の悪いことを認めまいとする「否認」。心が痛みを感じないようにする、無意識の感情の「抑圧」。好ましい他者との「同一化」。嫌いな自己像の「投射」。欲求の「転嫁」…。人の無意識が、自分の心を守ろうとしてあみ出した、姑息な小細工の数々。サイコものは、そうした、心のメカニズムを、理論に忠実に、悪く言えば教科書通りに、物語化したものであった。

 例えば、『城』では、主人公はいい子になろうとして、自分の中の負の感情を、認めまいとする。しかし、やがて、負の感情も認めないことには、自分の心の完全な「城」は築けないことに気づく。
『城』に続き、『4/4カトルカース』『X+Y』,他に『メッシュ』の中のいくつかの物語。また、『イグアナの娘』もサイコものに含まれるだろう。

 これらの作品が、正直私は苦手であった。これらの物語がおおむね、橋田寿賀子的な生臭い人間関係を描いていたせいもあったが、なにより、登場人物の心理描写が、理論通りの薄っぺらなものになってしまったのが、耐えられなかった。

 たとえば、トラウマとなっていた記憶を、勇気を出して直視すれば心の傷は癒せるというのが、精神分析の理論。しかし、実際は、そう簡単なものではない。直視できないからこそ、傷なのであろうし、直視できたところで、結局のところ、傷を癒すためには、うんざりするほどの長い長い時間を費やさなければならない。人の心は、あまりに個人差があって、それぞれが一筋縄ではいかないのだ。いかに良くできた理論でも、それをすべての人に当てはめるのは、あまりに乱暴というものである。

 しかし、これらの物語の中では、あまりに理論通りの、安易な救済劇が描かれていた気がして、どうしても納得がいかなかった。そして、『残酷…』の連載が始まったと知ったときも、また「例のあれ」がはじまった、と切り捨てていた。


●脱・精神分析
 しかし、『残酷…』は違っていた。少なくとも、このドラマは、安易とはほど遠いところで、繰り広げられるものとなった。精神分析的な発言も、時折、顔を出すが、それらはジェルミの窮状を救うことはできない。萩尾望都はようやく、精神分析は、心の特効薬になりえないという結論に達したようである。

 かつて『トーマの心臓』でユーリの魂を救ったのは、トーマ=神の、その愛であり、赦しであった。『トーマの心臓』は、70年時代という時代と、20代の萩尾望都の表現の限界に挑み、それを、あの時代において完成させた作品であったと思う。しかし、あれから20年が過ぎた今となっては、さすがに表現が、キレイゴトに思えてしまうのも、仕方ないのかも知れない。

 ともあれ、もはや、「神」は地に堕ちた。「宗教」などというまどろっこしいもので、ジェルミを救うことはできない。それでは、「愛」は?『残酷…』の作品中で、「愛」の名のもとに行われる暴力、虐待の数々。最もジェルミにとっての「救い」に近いところにあるイアンの愛でさえ、今にも踏み外しそうな崖っぷちにある。そしてたとえ、イアンがジェルミに自分の心臓を捧げても、それは、決してジェルミにとっての救済には、なり得ないだろう。

 「…愛の本にバイブルに、神さまにロックにダンス。なにが魂を救えるかわからんです。」
                              (『アメリカン・パイ』)より

そして、心理学もまた救いにはならないとしたら、最後にジェルミの魂を救うのは、何だろうか?


 4.死にゆく世界
 しかし私は、『残酷…』のラストで、ジェルミは救ってもらえるものと信じている。ここしばらく、繰り返されているジェルミとイアンの心理劇。一見、ストーリーは停滞しているかもしれないが、それは、この状況において何とかしてジェルミを救おうとしている作者の、模索の跡のようにも見える。


 現在、ジェルミの世界は死んでいる。グレッグのもたらした傷と、殺人という罪によって。そして、この閉塞した「死んだ世界」というものも、ある時期の作品によく描かれた。『恐るべき子供達』で、閉じたまま崩壊する世界。『スローダウン』でゆっくりと死んでいく世界。『銀の三角』でもまた、世界はたった一人の子供の悲鳴によって、崩壊していく。『マージナル』では、新しい生命が生まれないがゆえに、世界は死につつあるものと表現される。

 そして、これらのイメージを包括してかつ、最も『残酷…』に近いところにあった作品は、『エッグ・スタンド』ではないかと思っている。とりわけ、この作品で描かれる「卵の中で孵らないまま死んでいくヒヨコ」のイメージは、『残酷…』でこれまで描かれた世界を、ジェルミの内的世界を、あまりに的確に象徴していると思うのだが、どうだろうか。

 ただ、『エッグ・スタンド』には救いはない。それこそ、見事なくらいに救いのない話であった。そして、『残酷…』がこれを踏襲しているとするならば、今度こそ『エッグ・スタンド』に描かれなかったその先を、描こうとしているような気がする。描かれなかったその先とは、すなわち、「卵の殻を破って、ヒヨコの孵る話」である。


 閉ざされた闇の中で、まどろむ魂。死んだ世界から、再び生まれ出ようとする魂。その魂の再生の日を、たどりつく瞬間を、ここしばらく、息をつめて待ち続けたいと思う。
(..2000年8月..)




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